義経公の二枚の肖像画をめぐって

 
安田靫彦 黄瀬川陣(部分義経像)昭和15年
義経参着の図(黄瀬川陣)
義経像(部分) 安田靫彦作 昭和15年
(東京国立近代美術館蔵) 
「巨匠の日本画 安田靫彦」学研より 
縦167.7cm*横374cm
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

源義経公
(中尊寺蔵)
作者制作年代不詳
別冊太陽「平家物語絵巻」より

     
 

ここに制作年代も、絵そのものが伝える雰囲気も明らかに違う二枚の源義経公の肖像画がある。ひとつはこれまでの悲劇の英雄義経公の悲しみを一身に背負った失意の肖像(平泉中尊寺蔵)であり、二枚目は、若々しい表情で平家打倒の意気込みに満ち満ちた希望の肖像である(国立近代美術館蔵)。この二枚の肖像の間には、八百年という気の遠くなるような時が流れている。この二枚の絵には、それぞれの時代の義経公をめぐる人々の心、つまり世相というものが無意識的に反映しているように思われる。

右側の古い沈痛な面差しをした肖像は、義経公の悲劇的な最後を悲しんだ多くの民衆の悲しみが、この肩を落とし下を向いた淋しげな義経公の表情そのものに仮託されているのであろうか。何故か義経公の無念がひしひしと伝わってくるような絵である。この肖像を見ていると、何とか義経公を助けて上げたくなる。もしかしたらこの肖像こそが、「判官贔屓」という義経公に対する日本人特有の心情を創り上げた原因なのかも知れない。そんな気さえしてくる・・・。

実はこの肖像については、おそらく義経公が悲劇的な生涯を終えて間もない頃に制作されたものと推測されるが、詳しいことはよく分かっていないようだ。

じっとこの肖像を見ていると義経公の生涯が彷彿として浮かび上がってくる。兄頼朝公の旗揚げを奥州で聞いた義経公は、父代わりの秀衡公の必死の説得も聞かず、奥州を後にして、黄瀬川(きせがわ、現静岡県沼津市)に陣を敷く兄の前にはせ参じる。時に義経公二十二才の若武者であった。

左側の新しい肖像は、義経公が、今まさに黄瀬川で、旗揚げした兄頼朝公に初対面する緊張の面もちの場面を描いたものである。思えば義経公という人物は、ただひたすら父義朝公の汚名を濯ぎ、平家を倒す事のみを宿望として、己のアイデンティティを形成した人物である。そのために学問に打ち込み、あらゆる兵学書を探し歩き、若くして、軍学者的な素養を身につけてしまった努力の人でもあった。したがって、兄頼朝公が、関東において旗揚げしたことを知った時は、何よりも心ときめく瞬間だったに違いない。

新しい肖像は、その期待と緊張の一瞬を見事に捉えている。その表情は揺るぎない自信と決意に満ち溢れ、瑞々しく、しかもおそろしく美しい。人間が自分の生きる意味とその方向性が定まった瞬間というものは、おそらく誰しもこのような顔をしているのではあるまいか。この作品は、昭和十五年から十六年(1940〜1941)にかけて描かれたものである。

この画について、作者の安田靫彦(やすだゆきひこ)氏は次のように説明している。

「義経参着」の図は紀元二千六百年奉祝(注:1940年)に出品した。(中略)義経の顔は藤原時代の毘沙門天像からヒントを得た。服装は、「義経記」にある軍装――赤地の錦の直垂、白の狩衣、鹿の夏毛の毛沓、紫裾濃いの鎧に、錦包みの毛抜き形の太刀、黒漆草履、捩(ねじ)り鞭――をもちいた。綾蘭笠は、流鏑馬(やぶさめ)など本来狩猟に用いるものであるが、古くは、軍旅にも使われ、鎧姿に着用したものが藤原時代の懸仏式の銅板の毛彫りにあり、絵巻にも古式の場合に描かれてあるけれどその後の歴史画として全く描かれていない。そこでこの「義経参着図」に使ってみた。構図は、馬から下りたところのつもりで笠の紐を解く態をとったのである。この翌年、第二十八回院展に「義経参着」とならべ、頼朝を描いて、「黄瀬川の陣」と題し出品した。この頼朝の顔は神護持の像があまりに勝れているので、最初からこれに武装させた。この冷厳で理知的な頼朝と、激情のあふれる気鋭の若武者とを静と動とで対照せしめたのである。以下略(歴史読本昭和41年5月号より)”

この説明から見てわかるように新しい義経公の肖像は、義経公と頼朝公の二曲で一対の屏風(びょうぶ)として作成されたものであった。私はこの義経公の表情の中に、ただ単に美しいという以外に、いくつかの織りなす影のような部分を見い出すのである。すなわちその一つは、悲劇的な戦争となった日米会戦(第二次大戦)に突入していく時期の若者の取り憑かれたような民族的熱狂の影である。あの時期、この時の義経公と同様、国家の為と信じて戦地に赴き、帰らなかった無数の若者達がいた。それは誰しも否定しようのない歴史的事実である。

また第二の影は、安田氏がこの義経公の表情を毘沙門天に借りていることである。毘沙門天は、周知のように北の守り神とされる荒ぶる軍神で、その足の下に邪鬼を踏みつけている仏像のことである。古くは、坂上田村麻呂が、この毘沙門天の化身とされ、北を攻めて陸奥の蝦夷(えみし)達を制圧した功績が過大に喧伝されて、未だに東北では田村麻呂英雄伝説というものがそちこちに存在している。

安田氏は、もちろん無意識だったはずだ。しかしその無意識こそ、日本民族が、どうしようもなく浸っていた全体主義的な心の影だったのではあるまいか。その心の影の部分こそが、アジア諸国への侵略行為を正当化してしまうという過失の源泉でもあったのだ。

見方によっては、当時の敵国であった米英(当時日本人は、日英を称して鬼畜米英と呼んだ)を成敗する日本民族の象徴的ヒーローとして、この戦の天才の義経公の姿を描いたのではとさえ思える節がある。そしてまさに義経公のように日本軍は、昭和十六年十二月八日(1941年)ハワイの真珠湾を突如として奇襲し、日米戦争に突入していくのであった。

いみじくもこの頃、義経公が死を逃れて北海道に渡り、アイヌ民族の神となったという義経北行伝説がさらにエスカレートし、義経公が北海道から中国大陸に渡ってジンギスカンになったという荒唐無稽な説までが一部の研究者と軍部の連携によって意図的(?)に流布された。これは言うならば、民衆の素朴な義経伝説が、時代と共に国家の利害の下僕と化して変形させられ、大東亜共栄圏版にバージョンアップしたようなものである。つまりもっと分かり易く言えば、残念ながら、民衆のヒーローの義経公そのものが民族意識高揚とアジア諸国侵略の正当化のためのプロパガンダ(文化宣伝)として利用されてしまったということになる。

しかし私は今になって、この安田靫彦氏の描いた義経像の芸術的な価値を否定するつもりは毛頭ない。いやそれどころか、私の判断では、この義経像こそが、この後代表的な源義経公の肖像画として、多くの日本人に受け入れられて行くのではないかと思っている。この無駄のない構図と気品に満ちた義経公の若々しい表情は、日本の若者の到達すべき一つの理想を指し示しているようにさえも感じる。

そしてもちろん我々日本人は、古い義経公の肖像画の義経公の落ち込んだ表情の価値も永久に忘れるべきではないし、また決して忘れることもないであろう。何故ならばそれは新たな義経公像が描かれたあの年(1941年12月8日)の忌まわしい出来事が二度と、起きないようにするための心理的補償(影)であるからだ。佐藤
 



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2000/03/07 Hsato