大相撲にも日本病?! 

-相撲協会の力士指導力の欠如-


「崩壊の危機」と言ったら大げさだが、大相撲がどうもおかしい。

事の発端は、横綱朝青龍(22)と平幕旭鷲山(30)という力士を巡る問題だ。とにかく二人は同じモンゴル出身であるが仲が悪い。まあ、どっちが悪いなどということは言いたくないが、誰が見ても朝青龍の態度が悪いことは、前から指摘されるところだ。負けた旭鷲山にわざと(?)土俵で、肩からぶつかって睨み付けるわ。相手のマゲを引っ張って、横綱としては初めての反則負けになったとなるわ。果ては、旭鷲山の車のサイドミラーを壊したりもした。今度は風呂場で、また肩でぶつかっていって、小競り合いの末に、ついに旭鷲山も堪忍袋の緒が切れたのか「お前みたいな者はさっさとモンゴルへ帰れ」とやったらしい。これはもう礼に始まり礼に終わるという大相撲の常識を越えた話に成り下がってしまった。かつても双羽黒という横綱が居て、親方の奥さんに暴力をふるったりした挙げ句に、廃業して格闘家に転身したということもあった。

なにやら、今回の朝青龍問題は、日本社会全体のモラルの低下の縮図のようでもあり、また日本社会の古い伝統のようなものが壊れてゆく、ひとつの象徴のようでもある。既に貴乃花は引退してなく、日本の大相撲のトップに君臨しているのは、今やハワイの武蔵丸(32)とモンゴルの朝青龍となった。結局、相撲はいまやテニスのウィンブルドン大会ではないが、日本の力士劣勢の時代となった。国際化というには、少し大げさだが、日本の相撲そのものが、変化の岐路に立っていることは確かだ。

相撲界は、伝統と言えば聞こえはいいが、何やら、「お茶屋さん」とか「タニマチ」とか、普通のファンには余りにも解らないことばかりだ。それでも多くの大相撲ファンは、自分の気に入った力士熱くなって、応援したいことに代わりはない。その意味で、今の相撲界での一番の人気者となっている高見盛を見てみれば、相撲のファンが何を欲しているか解るはずだ。つまり相撲ファンは、純粋に自分の力の限界を土俵に常にぶつけているあの高見盛の仕草や表情に、限りない魅力を感じているのである。

そこに今の相撲界のリーダーはもっと着目をすべきだ。相撲というものの美しさは、鍛え上げられた力士たちの限界に挑む純粋さにこそある。だからこそ相撲は勝てば良いというものではなく、いかに勝か、あるいはいかに負けるか。いかに引退するかというものにも価値を置かなければならないのである。

すると大相撲改革の骨子のようなものが見えてくる。これは貴乃花の引退が遅れたことによって起こったことだが、昨今の横綱の引退までの過程は、めめしいほどに長すぎて美しくない。昔であれば、武蔵丸はとうに自ら身を引くべき時に来ている。貴乃花に負けた千代の富士のいさぎよい「体力の限界」という短い言葉を、とくに幹部力士は、己の訓として学ぶべきだ。朝青龍の問題に何らの教育的指導もおいそれとできない協会であれば、その存在意義すら問われかねない。いちいち横綱審議委員会にお伺いを尋ねなければならないような硬直した組織だとしたら、直ちに組織運営のプロにお願いして改革を断行すべきだ。一年六場所という余りにも過密なスケジュールは、力士にとっては、過酷過ぎないのか。この辺りも根本的に改めなければ、大相撲からどんどんとファンは距離を置きかねない。問題は朝青龍の態度ではない。あの態度を結果として容認している大相撲の組織にこそ問題はある。これもひとつの日本病ということが言えるであろう。佐藤

 


20036.26
 

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