ふでのまにまに

 



○ 阿袁蘇神仙(アヲソノカミ)

今云ふ仙北郡は旧(モト)ノ山本郡也。仙北は元(モト)郡ノ名にあらず。雄勝、平賀、山本を山北(ヤマキタ)三郡と云ひし也。むかしは山北河北(ヤマキタカハキタ)と呼びし地也。河北は今の山本郡能代〔古名淳代、また野代也〕のあたりをさしていへり。仙北を山乏と書し事あり。不祥(フサハシ)からぬ字とて千福と書しといへり。山乏と書キしはいつの頃ならむ。千福と書し事は無住国師ノ『沙石集』にも見えていとふるくより云ひしことと見えたり。或書(アルフミ)に山に仙あるゆえに山北を仙北と書キ字音(モジゴエ)によめるよしを記し、またその仙といふは常陸坊海存也云々と見えたり。海存が父は尾張ノ国の故須知(コスチ)ノ五郎景吉といひし人也。

海存も尾張国に生れて童名(ヲサナナ)を小治郎麿と云ひし。此小次郎丸のちは出家して、ほふし名を心了坊と付たり。其ころ源九郎判官義経公、七八歳(ナナツヤツ)ばかりにていまだ牛若麿とまをして山科の権ノ守兼房が家(モト)におはしけるに、心了坊は二条わたりに在ればをりをり訪(トフ)らひまいらせて牛若丸に平家退治の事を進め奉りて此君のをとなしくなりおはすを手を折てまちにまちに、おのれも常陸坊と名あらためぬ。此常陸坊仙術を得てこの仙北ノ郡奥山駒が嶽に今も住(スメ)り。杣樵夫(ソマヤマカツ)等はをりとして見し事ありといふ、あやしきことからさる事ありやなしや。そはしらねど仙台の青麻(アヲソ)権理(現)と斉(イワ)ひまつるは常陸坊海存なりと世にもはらいへれど、其みやつかさはゆめさる神にてはおはしまさず、祭るは三光也といへり。そは神秘(ヒメ)たる事にて実は仙人権現とて海存の生霊(ミタマ)を斉(マツ)るといへる人あり。

みちのくに『清悦物語』といふもの一巻(ヒトマキ)あり。其書に、来藻川(衣川)の戦ひのころ小四郎清悦(キヨエミ)と云ひし人、高館の城に籠りて義経の影の如く身にしたがひはたらきて、敵あまたうちとりしといへり云々。其事はじめに清悦海存、外に近習二人リ、この四人リの人々肉生(ニンカン)とかいふものを喰ひて世に存命(ナカラヘ)し人といへり。清悦は寛永七(一六三一)年の夏の頃まで世に在りて平泉に棲居(スマキ)せしとなむ。また御曹司右衛門ノ太夫といふ人の扈従に小野多左衛門といふ人は近き元和二丙辰(一六一六)年よりおなじ七辛酉年まで、清悦を兵術の師とたのみて六とせがほど明くれつきそひて、高館のほろびしものがたりをはじめ、なにくれと書キ残しけるをもととして、其里のふるき翁の耳にとどまりたるをも聞つたへて書まぜたりともいへり。

また異本も多きものなりといへり。国守中納言政宗公、あるとき清悦坊〔小四郎また喜四郎ともあり、出家して清悦坊といふ〕をめされて、汝(ソコ)は世に長寿(ナカラフ)めでたき人かな、伝へきく九郎判官の御書持(モタ)るよし拝見いたしたき事也、相なるべくやとあれば、清悦かしらをさげてかしこき仰事とて、朱塗の筥一ツたづさへ出てそが内(ナカ)より義経公のせうそことりだしてささぐれば、中納言政宗公坐をすこし立しぞき、ぬかづきてよみ終たまへば、清悦坊とりてまきをさめもとの箱に入レぬ。政宗公所領をあて行ひ給ふ。清悦、あなかしこし、さりながら多くのとし命を長存(ナカラヘ)て、なにわざもせで此おほむ国にながらへ在りつるこそ所領にもいやまさりてありがたき、かしこまりならぬ身はかかる齢もていまさらに所領たまはるともなににかつかうまつらむとて、いなみ申ければ、かくてたびたびのおほむめしにも所領の事は仰さふらはざりしとなむ云々、といへり。かかる物語もあれば海存が神仙と化(ナ)りしといふ事、そのゆえよしなきにもあらじかし、なほかの物語につばらか也。
 
 

○ いつくしの滝(《はしわのわか葉》に在り)

おのれみちのくに在りしころ、四月九日、けふ初未(午)ノ日の祭見てむと人々にいざなはれて、漆寺の前にくちたる桜の蘖(ヒコバエ)いまを盛りと咲たるに、

   枯し枝も花のめぐみをうるし寺となふ御法のしるしならまし

此寺の上人なンんどいざなひ、前沢(岩手県胆沢郡前沢町)の大桜見んとて尋ね入る。ここを大桜村といふ。大なる不動明王堂ひとつ、此桜一ト本トにふたぎて花は一寺の山桜也。木の太(フト)き事掌(テ)を連ねて七人めぐる也。こは秀衡の世よりありし桜也といひ伝ふ。
   雪をつみ雲を集めてひともとにかかるさくらの花をこそ見れ
衣川の検断桜〔秀衡の世に在りし検断の門外の桜といふ〕見ばやとていそぐ。ややそのところにいたれば、その木のみならず桜いろいろ立まじり咲て水の色さへことにいとおもしろきところも、

   衣川水際の桜きて見ればたもとにかかる花のしら波

かくて中尊寺(に=脱)入ればここらの人みちみてり。御堂のみなおしひらき白山神の御前なる拝殿(ヲガミドノ)に白きとばりたれて、おひとつ馬といふが渡りて後、此殿(トノ)に衆徒登りて、田楽開口祝詞若女ノ■、老女ノ■なンど過ぬればさるがうを舞ふ。みな衆徒頭に髪結ひ男さまして、つづみうつほしは墨染の袖をぬぎかけてはやしぬ。このさるがうの装束は国中(守)の寄せ給ふたるものとていみじうきよらをつくしたり。今朝より風たちしがいよいよ吹まさり盛りの花はなごりなうちりうせなんと、さるがう見つくし居れば、なほあららに吹てあまた茂り会ひたる杉の葉、杉の枝の落ちるとて空のみ見つつ心づかひしたるほどに、大なる朶(エタ)の吹折れ落てあまたの頭そこなひしとていみじうたちさわぐ。ほふしの附鬢(ツケガミ)もよこざまにかなづる扇も風に吹やられてさしわぶる。

また老杉〔此木は国守のみちのくと名付給ひたる杉とて人々めでとりぬ〕の空木あるが風に吹れて枯るる斗きうきうと鳴れば、さるがう見る空もなしとてみなたち皈る人多し。ここに弁慶桜とて武蔵坊がうえたるうす墨桜といふがありしと聞て人にとひしかば、そのさくらは近きとし枯レたるよしをいへば、すべなうここを出て高館の旧跡(アト)に登りて義経堂にぬかづく。秀衡いまはの枕上ミに九郎判官をまねき奉りて、あはれわが君世にせまり給はば是をひらき見て、とまれかくまれ身をまたくしてまたのときを得たまへとて、綿の袋を判官に渡す。義経おしいただきてのちひらき給ひけむ。御仏にみあかしてらして妻子とも今年刀(コンネンタウ)にてさしころし、御身がはりとて似たる人をきり、その首をかまくらに贈り、みづからは蝦夷が嶋わたりしたまひき。伊達治郎泰衡も君の跡をしたひしならむ。出羽にいたりて河田が手にかかりしなンど、此君の霊像(ミカタ)を見つつむかしを話(カタ)りてなみだを落ぬ。此夜は平泉に泊る。

十日、けふもさるがうありといへどあたりの花のちり残るも見なんとてつとめて平泉をたちぬ。まづ達谷(タツコク)の窟に入りてかの百鉢の多門天を見れば、みなこぼれうせてはつか斗残りぬ。春見しところなれど雪けちたれば見どころ多し。名におふ桜原の花も咲ぬらんかし。むかし葉室中納言某卿の娘(ムス)を悪路王ぬすみとりて、此姫とともに此窟(イワヤド)に籠り栖むを、都より人たづね来つれば悪路王はらぐろにののしり姫に(を)小脇にかいこみ大横刀(タチ)をぬいてむかへば、尋ね来る都人しあましてにげいにき。一とせの春、さくら原の花おもしろさにほだされて、姫をいざなひ、窟を出て此花のもとにて酒いたく飲みえひにえひてたふれふしたるとき、かの姫君ただひとところにげうせ給ひしなンど、むかしものがたりしつつ五串村に来る。厳美ノ神社(カミ)の旧跡(ミアト)は瑞玉山(ミツタマヤマ)に残れり。今はそこを水山村の山王箇(ガ)窟といふ。

七十四代鳥羽院の元永保安(一一一八〜二四)のころならんか。此御世に開山の中尊寺を今いふ平泉にうつされたり。ここに平泉野といふところあるに、大日山中尊寺の趾、また高森山法福寺の跡、また栗駒山法範寺の跡、尼寺〔此尼寺の事西行法師の『選集抄』につばらかにみゆ〕の跡、骨寺〔今本寺村それ也〕の跡、円位法師の菴の跡、逆柴山なンどいふ処あり。

今の関山ノ中尊寺のちかとなりにさかしば山といふあり。そはここよりうつしたる名ならむかし。美麗滝(イツクシノ)とて其名高う人々に云ひはやす。岩川に臨(ノソ)むまことにめづらし滝とはいへど、こごしき岩の中を岩にふれ岩にせかれて流るる、しら綾なンどを引わたすやうにて、さらに水のさまともおもほえず。玉の滝といふあり。またの名を小松が滝ともいへり。京田ノ滝、あたら滝、大滝、童子が滝、はなれ滝、魚谷(ナヤ)滝、麻(ヲ)がせの滝なンど、みなおしなべて五串(イツクシ)の滝といへり。こなたかなたの岸(キシ)には桃、山吹、柳枝を交(マシヘ)て世にたとつべうかたもなうおもしろし。

   落滝つ波いつくしくたちかへりいろどる筆もえやは及ばむ

見はつべきかぎりあかねば、ふたたびとて田の中みちを山目にいづるに注連曳キはえたる処に幣(ニテ)などさしつかねたるは水口(ミナクチ)祭せしにや。

   みな口に立てぞ祈(イノル)時もいま五串の小田にもゆるなはしろ

人々を別て山ノ目に来る。盤(磐)井ノ郡の保長(ヲサ)大槻〔千左エ門といふ也〕清雄がり訪へば、あなめづらしなンどかたらふほどに、あるじの太郎なりける清古(ル)筆をとりて、

   珍らしなけふを待えて時鳥聞クもはつ音のものがたりして

と短冊見せたりける返し、

   めづらしとあかずかたらふほととぎすけふをはつ音の人のことの葉
 

菅江真澄全集 第十巻(未来社1974年9月30日刊)所収より抜粋。



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2003.4.11
2003.4.11  Hsato