壮大なる駄作

映画「セブン・イヤーズ・チベット」について


映画でも小説でも実在の人物を描くときには、細心の注意をしなければならない。ましてやその人間が生きているとしたら、いい加減な取材では済まされない。私は、映画「セブン・・」に多くのウソを発見した。

まず第一に、主人公ハインリッヒ・ハラーが、七年間のチベット体験をしたとき、彼は独身だったことだ。何故この事実を発見したかと言えば、映画のヒマラヤに挑戦している時に、妻のことが気になって仕方なかった、というナレーションが流れた時、「そんな馬鹿な。冒険家が命をかけて気持ちを集中させているときに、いちいち家族や恋人のことなど気にしているはずはない。」と感じた。

映画を見終えてから、私はすぐに原作を購入し、私の直感を検証した。私の直感は、当たっていた。チベット時代の主人公ハラーは、独身であって原作には、恋人のことなども一言も触れていない。つまり身重の妻を残して旅立ったというエピソードは映画をおもしろくするための創作だった。しかしこのシーンがウソとなると、映画の全てがウソになってしまうことにもなってくる。

原作読み終えて感じたことは「映画よりも原作の方が精緻で知性的で素晴らしい」という一言であった。あの映画は、原作をまったく無視している。おそらく実在のハラーがこの映画を観たら、激怒するだろうと思った。

原作によれば、主人公ハラーは、オーストリアのスキーチームでオリンピックに選抜されるほどのスポーツマンで、大学では地理学を収めたほどの知性の人である。少なくとも映画で描かれているような、ただの熱血の乱暴者ではない。

その証拠に、実際のハラーは、チベット語を学習し、チベットの習慣に従い、地元の人から「あなたの前世は、きっとチベット人だ」と言われたほど、地元に根付いた生活を送った人物なのである。

それに引き替えブラピには、知性のかけらも感じられなかった。あれで本当に俳優学校を卒業したのだろうか。大体あの髪型は何だ。三年ぐらい前、ジャニーズ系のアイドルを使って長髪の特攻隊映画があったが、あれと同じように役者魂に欠ける情けない役作りであった。

例えば、実際の物語ではないのに名作「地獄の黙示録」(フランシス・コッポラ監督作品)の中で名優マーロン・ブランドは、役作りのために頭をつるつるにそり込んで顔を真っ黒くしベトナム戦争によって狂気と化した将軍役を見事に好演していた。またロバート・デニーロは、役作りのために常に20kgや30kgの体重のダイエットなど当たり前のようである。これが役者魂というものだ。昨日今日役者になったばかりの新人が、何にも勉強もせずに、素顔のままで画面に登場されたら、観る方は、ただただ白けるばかりだ。

この映画が徹底的に駄作である理由は、創作的なエピソードといったら聞こえはいいがウソを中心に組み立てたストーリーだからである。始めに「身ごもった妻との別れ」というウソから始まったために、最後までウソを貫き通し、「自分の子供との和解」などというチンキな結末で終わるハメになったのだ。

映画「セブン・・」は、ただのブラピを売るためのアイドル映画でしかない、というのが私の結論である。文句ばかり言っていると、いけないのでもし私が、「セブン・・」を監督したらこうなるというものを、さわりだけ書いておこう。

* * * * *

シーン1 壮大なヒマラヤ山脈が広がっている。カメラは神の視線で、ゆっくりと左にパンする。静かにメインテーマが流れる。人の影はまるでない。まさに神々の住む聖地に違いない。荘厳かつ静かな世界である。

クレジットタイトルが出る。そして次のようなテロップが小さく流れる。

チベットは神の住む館である。人は誰も己を知ることなしに、この館に立ち入ることはできない。たとえ己の肉体が、その地を踏みしめようとも、己のこころがその地を受け入れなければ、けっしてその地の魂の領域に触れることはできない。 シーン2 突然、轟音が聞こえる。神の怒りのようだ。雪崩が起きたのだ。すさまじい勢いで、巨大な雪の固まりが流れ下っていく。

シーン3 青い空、

シーン4 雪の中から、やっと人の声が聞こえる。

ハリー「(雪からぽっっかり顔を出しながら大声で)みんな!大丈夫か??!!」

アウフシュナイター「(ひょうきんに)何とか生きている」
 

同僚2「俺も大丈夫だ。」モグラたたきのように白い雪の中から、ぴょこぴょこと登山隊の連中が顔を現す。何となく滑稽に、助かった喜びにあふれている。

…という感じである。そしてクライマックスは、中国軍が攻めてきて、ダライ・ラマとともに、チベットの山々を逃亡するシーンであろう。映画では、ダライ・ラマは「ポタラ宮」にいて外に出ないことになっているが、実際には、何日にも渡って、決死の逃亡を重ねたのである。つまりハラーとダライ・ラマの二人は、決死の逃避行の中で運命をともにすることによって、お互いを深く理解し、友情が芽生えていくのである。

男と男の友情というものは、このように芽生え、そして深まっていく、ということを壮大なチベットの山々(神の創ったったもの)とポタラ宮(人の作ったものの)を背景に、描ききればいい。これが私が撮るところの「セブン・・」である。佐藤
 


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1998.1.23