孫子に習う「有事」


少し小難しいことを考えてみる。

さて中国の兵法書「孫子」に「善用兵者、修道而保法」(形篇題四)という言葉がある。訳せば、兵法の上手なものは、「道」というものを勉強して、自然の法を保つようにする。ほどの意味になろうか。中国には、「どんなものにも道がある」とする考え方がある。「孫子」は、戦争を収める法則を説いた文書だが、その根本は、戦争の法則というものをよく知り抜いて、究極的に戦争というものを消滅させるところにその主眼がある。「孫子」は、直接的には戦争に勝つための書物だが、最終的には、戦争をこの世から恒久に無くすために書かれたのである。

多くの人はそこのところを誤解している。「孫子」という書物の深い意味を考えずに、もっぱら、戦争の権謀術数のヒントを求めて読む傾向が強い。まったくもってそれは先入観に基づいた宝の持ち腐れというものである。

孫子の冒頭には、「戦争とは詭道だ」とはっきり明示されている。平和が実現し、正しい政治社会が実現していれば、そもそも戦争などのことは考える必要もないのだが、人間は残念ながら、国家社会を形成する過程で、常に政治は混乱を来たし、しばしば戦争というものが否応なく、現実のものとなって我々の前に襲いかかって来る。

何故私がこんな小難しいことを考えるか云えば、それは先頃(2002.5.8)、中国で起こった日本領事館への亡命者事件があったからだ。幼子を含む北朝鮮からの政治亡命者たちは、領事館に突入しながら、それを追って柵を越えてきた中国の警察当局に身柄を拘束され、日本大使館員が見守る中で、逮捕連行されてしまった。

今、国会では、有事というものに日頃から備えるというもっともらしい理由を持って、有事立法が議論されているが、これこそが有事であり、その後の小泉首相の取った態度は、有事とは認識しがたい腰砕けのものであった。

NHKの報道するところによれば、中国大使は、中国当局に直ちに抗議を表明したが、日本政府のトップである小泉首相は、「事の重大さはわかるが、中国政府を余り刺激しないほうがよい」というような極めて消極的な態度だった。それがマスコミや国民からの大批判を浴びると、今度は一転して態度がかわり、川口外相を通じて、日本駐在中国大使を呼びつけて、「北朝鮮からの亡命者五人を速やかに引き渡して欲しい。これに関して妥協はあり得ない。中国当局の行動は明らかな国際法違反である」というものであった。それに対して中国大使は「今事実関係を調べている所であり、誠意を持って応対する」と応えた。

その後に、中国政府は、これは日本領事館職員の許可によって、入ったものであり、連行するに当たっては、職員が上司に電話を入れ、連行OKの確認を取って、連れていったものだと言い出した。外務省は事実関係を調査するため、5人の係官を派遣したが、以前、真相は藪の中にある。

問題なのは、有事立法があるなしではない。その前にまず「有事」という「平時」とはまるで違う状況に対する備えの思想が現在の日本に欠如していることが問題なのだ。今や日本全体が、平和ダレとでも云うか、有事とは、遠い国での出来事のようにしか、認識していないところがある。有事立法を議論する前に、私は、「有事」あるいは「戦争」というものの本質が、政治の延長線上にあるという至極当たり前の認識を踏まえて「有事」ということを考えることが大切であると思うのだ。だからこそ孫子の言葉をもう一度繰り返さなければならぬ。「兵は国の大事であり、国の死生の地、存亡の道である。だからよくよく熟慮しなければならない」と。そして我々は「孫子」に習って恒久平和に至る「道」を探し、その道に向かって歩いて行かねばならぬ。佐藤

 


2002.5.13
 

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