2002年民芸公演観劇記
その人を知らず

ペテロの喩えとは何か


 
1 人は弱きものか?!

劇団民芸の2002年公演「その人を知らず」(三好十郎作)を見た。ずしりと重く胸に応える作品だ。観劇した後、”人間とは、弱い存在だな”と、つくづく感じた。確かにこの芝居には、日本人が触れたくない又触れられたくない歴史の暗部を目前で凝視させられるような怖さがある。同時に主人公の牧師、人見勉が見せる心の弱さは、人類に共通する精神の脆さでもある。 

タイトルの「その人を知らず」は、聖書の中のペテロの言葉から採られている。聖書の中にあるペテロの逸話はこのようなものだ。キリストは、自らが囚われの身となることを察知し、ペテロという弟子に向かい、「鶏が三度啼く間、お前は、私を見て、”そんな人は知らない”というだろう、」と言うのである。キリストは、この時、弟子たちの覚悟の程を見抜き又人間の弱さを知っていたことになる。

古今東西、人間というものは、本来弱いもので、平時には、「命よりも大切な人」「命を賭けてもお守りします」、などと言っていても、銃口を向けられたり、拷問に掛けられたりすると、途端に翻って、「その人なんて知りませんよ」などと口走ってしまうものだ。だからペテロの逸話は、いつの世でも、どんな国、どんな集団の中でも起こり得る普遍的逸話なのである。 

その日、私はニール・ヤングというミュージシャンの新しいアルバム(「Are You Passionate?」(君は燃えていかい?)を聴いていて、いささかがっかりしながら、やはり絶対的な平和思想なんてあり得ないのかな?と思っていたものだから、「その人を知らず」という劇のテーマが余計に胸に応えた気がする。

ニール・ヤングは、周知のようにカナダ生まれだが、60年代後半からアメリカで活躍するベテランミュージシャンである。伝説のバンド「CSN&Y」(クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング)に参加し、平和思想の持ち主としても知られている人物だ。2001.9.11同時多発テロの後で行われたテレビによる「アメリカ・トリビュート・ヒーローズ」(犠牲者追悼コンサート)に参加した時には、テンガロンハットを被り、放送が自粛されていたはずのジョン・レノンの「イマジン」を熱唱し、健在ぶりを示したばかりであった。

しかしおそらく、ニール・ヤングの心の中では、揺れていたのだろう。罪もないアメリカ人が何千にも殺されて、左の頬を出すキリストの心境にも、ジョンレノンの境地にも至れなかったのだ。彼はこのアルバムの中で、このように唱っている。

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「Let's roll」(前略)

No one has the answer,誰も答なんて言えないけれど
But one thing is true,ひとつ起こったことは真実だ
You've got to turn on evil,邪悪がもたらされたならば
When it's coming after you,その時はその者を懲らしめなければいけない
You've gota face it down,その者の顔を下に押さえつけてくれよう
And when it tries to hide,隠れようとした時には
You've gota go in after it,その後を追いかけるのだ
And never be denied,きっと批判されることはない
Time is runnin' out,時は逃げてゆく
Let's roll.だから跳んで行くのだ

Let's roll for freedome, 自由のために跳んで行こう
Let's roll for love,愛のために跳んで行こう
We're going after satan,サタンを追って行こう

後略(訳佐藤)
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まるで、ブッシュ大統領の演説の如き勇ましさだ。これがジョンの「イマジン」を熱唱した人物か、というほどのアメリカのナショナルな感覚をそのまま歌にしたような内容ではないか。アメリカは、キリスト教の国であるが、国中に蔓延した暴力と戦争の影は隠しようもないほど広がってしまっている。全米最大のキリスト教団体までもが、「ゴッド・ブレス・ザ・アメリカ」を唱いながら、数万人の署名をあっという間に集めて、報復のための戦争に協力をしようというのだから・・・。

状況の変化というものは、人の心を微妙に変えてしまう。残念だが、これも事実だ。NHKの大河ドラマであったか、赤穂浪士に死を与える者が、「彼らも人間だ。生きていれば、美しくないことを呑まざるを得ないこともあるだろう。美しい志のまま死ぬことが大事なのだ」というようなせりふがあったと思う。音楽の世界の絶対音階というものが、思想や信仰の中にもあって、絶対信仰というようなものをどのような状況の中でも、維持していくことはやはり難しいということになる。
 

2 ペテロの喩え

この芝居「この人を知らず」は、聖書から題材を採った物語構成になっている。そこでまず聖書のペテロとキリストの物語を押えておこう。

イエス・キリストは、自分が逮捕されることを見越していた。ユダが自分を売り渡すことも、ペテロが、自分を知らないと言うこともである。そしてオリーブ山でこのように言った。
「あなた方すべての者が、この夜、私に背く(原文では「背く」ではなく「つまずき」と表現されている)であろう」
するとペテロが言った。
「すべての者が背いたとしても私は絶対に背きません」
「アーメン、あなたに言おう。あなたは今晩、鶏が啼く前に三度私を知らない、と言うだろう」
「たとえ、私があなた様と一緒に死ぬことになっても、絶対に私はあなた様を知らないなどとは言いません」

キリストは、ペテロを初めとする弟子たちの信仰のレベルを熟知していたと言うべきだろう。その後、キリストは、ゲッセマネで祈りを捧げようとした。キリストもやはり人の子であり、不安と孤独が彼を襲ったのである。しかし弟子たちは、居眠りを始める始末だった。そこでキリストは、激怒して言った。

「いったいあなた方は何をしているのか、私の魂は死ぬほど悲しいのだ。ペテロよ、あなたたちは一時も私とともに目を覚ましてはいられないのか。目開けて、祈るのだ。心は強くとも、肉体は弱いものから・・・」

それでも弟子たちは、うつらうつらとするばかり。呆れ果て、イエスは席を立って、しばらく外を歩き帰ってみると、情けないことに、弟子たちは眠ったままである。再びイエスは外に出て、暁が近づいて来るのを感じた。戻ると弟子たちはまだ睡魔に魂を売り渡していたのである。

「まだ眠っているのか。起きろ。時は来た。私を売り渡す者が近くまで来ているのだぞ」

こうしてイエスは、囚われの身となったのである。
ペテロは、キリストの後を追った。彼が中庭で腰を下ろしていると、ふいに、「あたたはイエスの仲間だね」と言う女性がいた。ペテロは反射的に「私はあんな人知らないよ」と言いながら、門の外へ出た。するとまた別の女性が「この人、イエスと一緒にいたよ」と言った。ペテロは心で悪いとは思いながら、「私はあの人なんて知らないよ」と答えてしまった。すると別の男が寄ってきて、「こいつはイエスの仲間だ。こいつの訛りで分かる」と言った。慌てたペテロが語気を強めて、「私があんな男など知るわけはない」と言った。その時、鶏がペテロの嘘を見抜くようにコケコッコーと啼いたのである。まさにイエスの預言は、当たったことになる。ペテロは逃げるように外に出ると、余りの情けなさに涙をぽろぽろと零したのであった。

このペテロの逸話を改めて考える時、人間の弱さを教えられるのはもちろんだが、人それぞれの「思い」というものの違いを思い知らされるのである。つまりそれは親と子のそれぞれを思う愛に違いがあるように、また男と女の愛に違いがあるように、生死に対する構えや信仰にも、人によって大きな違いがあるのである。きっとペテロは、イエスを知らないと言った自分を恥入り、後悔の涙を流したに違いない。それからというもの、もの凄い形相で、何とか師であるイエス・キリストのようにありたいと願い、修行をする過程で、自分の弟子達にイエスに対する自分の恥ずべき「躓き」(原文では「背く」ではなく「つまずき」と表現されている)の過去を弟子達に話し、それがイエス伝としての新約聖書に取り上げられたのであろう。これがペテロの喩えである。
 

3 ストーリーをなぞりながら

芝居は、憲兵隊の取調室から始まる。 

この時、日本は、戦争と暴力のまっただ中にあった。アジアに侵攻したかと思えば、国際連盟を脱退。パールハーバーを奇襲して大国アメリカに宣戦布告した。虫の良い日本の策謀が、通用するほど、国際政治は甘いものではない。圧倒的な経済力と技術力を持つアメリカはたちまち形勢を逆転した。ガダルガナル、ミッドウェー海戦で破れた日本は坂道を転げ落ちるように戦線は徐々に日本本土に移っていった。 

人見勉という牧師が、憲兵から盛んに尋問をされている。お前はキリスト教の牧師らしいが、片倉友吉という男を知っているね。と聞かれ、びっくりする。何故なら片倉は自分が、信仰の道へ導いた男だからである。片倉は純朴な青年で、純粋にキリストの教えに感銘を受け、信仰に忠実に生きようとする。片倉は時計職人であるが、召集令状が来て、戦場に行くことになれば、キリストの教えに背くことなると思い、頑なに兵役行くことを拒み続けている人物だ。憲兵は、この人見という人物にも疑いの目を向ける。そこで人見は、キリストの信仰を状況に合わせて、解釈し戦争を否定しない言動を繰り返してしまうのである。人見牧師はペテロのようにこの時、片倉など知らない言わんばかりに第一回目の知らぬ存ぜぬを言ってしまうのである。 

片倉は実直な人間だ。キリストの教えに心酔し、その教えに何処までも忠実であろうとする意志の強さは凡人には真似のできないことだ。彼は「非国民」と罵られようが、電気の帽子の拷問を受け、何度気絶しても、樫の棒で何度殴られても、自分の信仰を変えようとしない。おそらくただ純粋に、キリストの教えに背いて、戦場に行って暴力公使するようなことを絶対にしたくなかっただけなのだ。そして聖書の中にある「殺すなかれ」「右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい」「汝の敵を愛せよ。汝を迫害するものを愛せ」というような聖書の言葉をどこまでも守ろうとする。例え、それが自分と自分の家族を不幸な境遇に陥れたとしてもである。 

それに対し、人見勉は優秀な人物かも知れないが、少し小才が回りすぎて、状況に媚びてしまうきらいがある。優柔不断なのだ。この芝居は、この現代のペテロとでも言うべき人見の魂とキリストの如き強靱な信仰心を持った片倉の魂の対比の物語である。 

権力としては、片倉のような人物は、誠にこまった存在である。そこで片倉の父を呼んで、説得を試みる。しかし頑として聞き入れない。父には申し訳ないという気持ちはあるのだが、自分の中に確固としてあるキリストの教えに背くことは適わない。父はそんな息子が片倉家から出てきたことを深く恥じ入り、樫の棒でしこたま殴り自分も気絶してしまうのである。その場に、人見も呼ばれ、このようにして説得する。 
「私は、君を助けたいのだ。もし何ならば、私が君に言ったことは、間違いだったとしよう。我々が戦っている国はキリスト教の国だ。彼らの戦争をしている。自国を守るために戦っている。」 
「いえ、私は死んでも構いません。信仰のために死んでもいいのです。戦争はいけません。人は人を殺すことはいけません」こうして、今のペテロこと人見牧師は、片倉と自分の信仰が違うことを公けに宣言し、自分の身の安泰を保つことになる。これが人見の第二回目の知らぬ存ぜぬである。結局、片倉は、兵役を拒否した罪により、獄舎に収監されてしまう。 

片倉家は、崩壊の危機にある。周囲には非国民を出した家として非難されているであろう。母は病気となった。自暴自棄となった弟は志願兵として、南方の前線に行くことが決まっている。妹は爆弾で、目が不自由になっている。父は突発的に自殺して果てた。その時、「友吉の言っていることは正しいのかもしれない」という言葉を遺したというのだ。 

戦争はいよいよ日本の形勢不利となる。本土にも空襲の爆撃機が飛んで来るようになっている。 
獄舎には様々な人物が集まっている。金に目がくらんだ山師に女好きのデバガメ男、その日暮らしのスリ野郎、社会主義であるが、転向して当時の国体論にすり寄ってしまった転向者等がひしめき合うように檻の中に居て、熱い夏をやり過ごそうとしている。どこからか、賛美歌が聞こえてくる。片倉の声だ。片倉は模範囚として、次第に看守たちからも信頼されるようになって、便所掃除をしているのだ。突然空襲警報が近寄って来て、爆弾がそこかしこに落ちてくる。看守は、片倉を連れて逃げようとするが、「自分はここにいます」と言って、獄舎から離れようとしない。獄舎の中はすさまじいパニックだ。檻に閉じこめられた4人もパニックとなって、まるでサルのように騒ぎ、「出してくれ」と叫ぶ。その檻に自らで入った片倉は、賛美歌を歌いながら、ひとり静かに立っている。その手をスリの貴島がしっかりと握っている。いよいよ爆撃音が大きくなり、舞台は暗転する・・・。 

戦後の特徴は、急に価値観が変わってしまったことだ。昨日まで、大東亜共栄圏などと叫び、お国のためを盛んに語っていた人物が、ある日から急に「個人の自由」と「民主主義」「平和の尊さ」を言い始めるのである。 
そんな戦後、獄舎を出たものの、片倉家は貧困の中にあった。そこである日、以前働いていた時計工場に行って、再雇用を頼むと、片倉は労働組合の集会場の壇上に担ぎ出されてしまう。片倉は、戦争反対を唱えた人物として、組合の中でも一種の英雄視されている。組合では自主管理や政府の政策に物を申す民主主義の自由に酔っているようでもある。戦時中、自らの政治思想の為に獄に繋がれていた人物が、労組の組合員に「これからは生産をしている労働者と農民がその権利を主張し、政治に積極的に参加しなければいけない」とおきまりの左翼的政治スローガンを説く。次に話すように促された片倉であったが、何が何か分からず、答えられずにいると、返って仕事をもらいに来たことを覚られ、「自分たちの仕事を取り上げにきたのか」と攻撃されることになってしまう。片倉はきっぱりと言うのだ。「あなた方の職場を奪うようなことは決してしません」と。結局、片倉にとっては、厳しい現実が待っていたことになる。 

片倉家はますます経済的に追い込まれていた。母はほとんど寝たきりとなり、妹の目は見えないままだ。そんな片倉の窮状を見かね、牧師の妹の治子が、酒場のダンサーに身を落として救おうとする。治子は、信仰の意味を少し見失っている。その原因は、牧師でありながら、キリストの教えの深い意味を理解しようとせず、状況に合わせて生きて、教会活動をしようとする兄に、矛盾を感じている。それに対して、信仰のためには自分の命さえ差出しかねない片倉に女性として惹かれている自分を感じているのである。この芝居にとって、片倉とこの治子の恋の物語は、小さな野の花のような儚さがある。おそらく別の時代に生きたならば、普通に恋をして結婚でもしたであろうに、戦争で引き裂かれ、傷ついてしまった精神は、もう二人を遙かな距離に引き離して、彼らの青春の日々は、物語の中に消え入ろうとしていたのだ。 

また獄舎の中で知り合ったスリの貴島も救いの神の如き存在だ。調子がよく口のうまい貴島は、戦後のドサクサの中でも、逞しく生きている。ちょくちょく人様の懐中時計を頂戴しては、片倉にせっせと運んでくる。何とか片倉を助けたいのである。彼の陽気な悪ぶりは、単に片倉家の救いというだけではなく、この物語の救いでもある。 

冬の時代が去り、春がやってくると、人見は持ち前の状況の変化を敏感に感じ取る能力を使って教会の復興を実現しようとする。幸い少しづつ協力者も現れ、今夜は、クリスマスツリーの飾り付けに勤しんでいる。その協力者の中には、米軍日系将校木山もいる。そこに片倉が現れる。片倉が来た理由は、人見の妹の治子と仲直りさせようとしてのことだ。しかしその着ている服装はホームレスのように見える。しかし人見は、自分の妹の治子のことを、周囲に覚られまいとする。このことは人見という人物が、自己の見栄を棄てきれず、周囲の人間に自分を良く見られようとする思いが強過ぎる性格であることを表している。キリストの教えで一番大事なものはやはり周囲の人間を深く愛する心だ。身近な人間を愛せない人間が、どうして世の人を救うことができるだろう。人見は自分の立場で、蔑まれるような酒場のダンサーのような職業に身をやつした妹治子が、恥ずかしくて、それをスポンサーである米軍将校に知られたくないのである。 

片倉は、治子と仲直りすることを人見に頼む。しかし人見は、強く片倉に説教をする。 
こんな調子だ。 

「君は間違っている。君の間違った信仰の為に、君の家族は崩壊したのだ。父は自殺し、母もまた君が死なせたようなものだ。君の弟も兄の君が兵役を拒否したものだから、自暴自棄になって、南方で死んでしまったのだ。そうではないかね。君は戦争が悪いというが、キリスト教を国境とする国でもやっていることだ。そうだろう。どこの国でもやっていることだ。」 

それに対し、片倉は立ち上がって語り始める。 

「確かに私が悪いのです。私のために家族や皆さんには大変迷惑をお掛けしました。お許しください。許してください。でも、戦争はいけません。戦争は止めてください。人が人を殺し合うことは止めてください。(そして将校に近づいて行って)アメリカのみなさん。申し訳ありませんでした。確かに日本は悪かったのです。それでも日本が7悪いとしたら、アメリカも3は悪いと思うのです。すべて一方が悪いということはありません。これからも人と人が憎しみ合い殺し合うことは止めてください。お願いです。お願いです。」 

人見は、余りの片倉の実直な言い回しに、高笑いを決め込む。一方米軍将校は、複雑な表情で片倉を見つめている。このようにして、今のペテロ人見は、目の前にイエス・キリストの精神を体現した聖人が居るにもかかわらず鼻でせせら笑ったことにより、ペテロの三度目の「知らぬ存ぜぬ」を言ってしまったことになる。人見のような、すぐに状況に迎合ばかりしている人間は、宗教の思想の民族の如何に関わらず結構多いものと言わなければならない。怖い話だ。 

ラストシーンは、夕暮れ(?)の繁華街のガード下で始まる。どうやらここは闇の世界への入り口のようだ。そこではきっと麻薬やら売春やら違法な商売が、闇の中で繰り広げられているのだろう。護送用のトラックが止めてあり、側には警官が立っている。ホームレスが二人通りかかり、いきなり私服警官が、容疑者の男と派手な身なりの若い女を連れてきて、さっさと護送車の荷台に乗せてしまう。その後にスリの貴島が私服警官に連行されてくる。何とそこには、片倉と目の不自由な妹と人見の妹の治子も一緒にいるではないか。治子は体の調子がひどく悪いようだ。貴島は無実を訴えるのだが、刑事は片倉のポケットから時計を引き出して、グルだろう。と片倉にも疑いの目を向ける。どうやら貴島は、治子を連れ戻そうとした片倉たちと街角で会い、こんなことになってしまったようだ。盛んにスリの貴島は、片倉をかばって、「あんな人知らない」と言うのだが、それは刑事の目には通じない。結局、片倉は容疑者として、護送車に乗せられてしまう。片倉は荷台から、妹と治子に励ましの言葉を残し、トラックは走り出して見えなくなる。病気の治子ではあるが、片倉の強い信仰心に何かを覚悟したようにじっと消えて行くトラックを見送っている。
 

4 まとめ

尊敬する故三好十郎氏の生誕100年を記念する公演を拝見させていただき、第二次世界大戦終結後の価値観の喪失の中で生み出された三好十郎氏の作品群は、改めて昨今のポップあるいはヒップと称する非常に軽薄短小なアメリカ文化の悪しき影響の下に、重たきテーマを持ったもの、深刻で思わず目を背けたくなるような真実を避ける傾向の日本人の弱き精神を樫の棒で打つが如き衝撃があった。

私はそこから更に三好氏が探究しようとしたものを更にその主題にそって日本人の精神からもっと根底にある人類の魂の奥底にまで掘り下げて考えてみようと試みた。そうするとそこに三好十郎氏が下敷きにしたペテロの躓きの真実が見えてきたのである。これまで、何故ペテロだけが、イエスにあのような言葉を投げかけられたなどとは考えても見なかった。今回何故ペテロだけがあのように聖書の中に名指しをされて、取り上げられているのかがはっきりと分かった。

ペテロの躓きは、人間存在そのものの脆くて弱い心の姿である。どんなに強く見えても、所詮本当の覚悟というか、確固たる観念など簡単に備わるものではない。その意味で、ペテロや人見勉なる人物の心の脆さは、私たちそのものの心の弱さなのである。彼らの躓きをじっと見ることは、自分の心の有り様を見ることである。だからあの情けない牧師人見勉を誰も「自分はあんなに格好悪くはなれない」などと笑い飛ばすことなど到底できないのだ。

さて私はこの芝居を観劇し、何か物足りなさを感じた。どうもカタルシスというか、見終わった後の感じがすっきりしないのである。しばらく考え、はたと思いついた。それはストーリーとして、あるいは芝居の論理構成上、「その人を知らず」という芝居の劇的構成に抜けているものがあるということであった。 

それは今ペテロとしての人見勉という人物の躓き(三度その人を知らないと言った事)を主題としながらも、この芝居自体が聖書にある如き、躓いた人物のその後の後悔や苦悩が最後まで完結した形で描かれていないと感じたからに他ならない。聖書の中でペテロの苦悩は、大泣きしたという非常に簡潔な言葉で表現されているが、それは聖書特有の象徴的な言い回しであり、そこにはペテロの苦悩が凝縮した形で封印されているのである。 

何故イエス・キリスト物語としての新約聖書に、このペテロの逸話が掲載されているかと言えば、それは取りも直さず、ペテロが、自分の恥としての躓き(その人を知らない)の事実を、自分の教団の弟子達に伝えて教訓としていたことを意味する。おそらく現在残っている四つ(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)の新約聖書には、ペテロの躓きだけが、強調されているが、他の弟子達も、イエス・キリストに、ペテロと同じような言葉を言われた可能性が高い。 

つまりこのペテロの逸話は、間違いなくペテロ自身の猛烈なる自己反省を土台として描かれていることは明らかだ。そしてそのことの意味をよくよく考えて見れば、ペテロこそ弱き自分と対決し、その上で、本来ならば、ひた隠しにするであろう自分の躓きの跡を敢えて、人類の教訓として弟子達に語り継がせて、今日の我々が、弱き使徒「ペテロの躓きの逸話」として見聞きしているということになる。己の恥を晒すことは誰にも容易にできるものではない。過去においてペテロは、それを見事にやり遂げた人なのである。もしかすると、キリストは、「躓き」の後に、ペテロが苦悩と格闘しながらも、見事それに打ち勝つだけの人物であると見ていたのかもしれない。ここまで考えるとキリストのどこまでも自分の信念に忠実であろうとする強さもさることながら、己の弱き心と格闘し、見事にそれを打ち破ったペテロの意志の力に背筋が寒くなるような感動を覚えるのである。そしてペテロってなんて凄い人物なんだ、と素直に思えてきたのだ・・・。 

ところが、この三好氏の「この人を知らず」では、ペテロの躓きは描きながらもその苦悩を乗り越える過程は描かれていない。やはり作者は、単に日本の暗い時代にも片倉友吉というイエスキリストの教えにどこまでも忠実であろうとした人物の横に、まさにペテロの苦悩を背負った人見勉なる人物が居て、その人物の苦悩と反省の跡を余すところなく描き、そしてそれを乗り越える様を舞台の上で再現して見せるべきであった。 

その意味で私は、劇の構成上、人見勉という人物の魂の血の出るような苦悩の日々を一幕を付け加えるべきであろうと思う。せっかくペテロの逸話を下敷きにしたのであれば、そうすべきである。そうすればペテロの躓きを手本として、人見なるキリストの使徒が聖書のペテロの如く、いつの世までも永遠に輝く求道者として語り継がれるかもしれない。要はペテロの辿った魂の変遷を人見という人物に置き換えて実現して欲しかったのである。三好十郎という尊敬する劇作家に対し、大変失礼なことは承知しているが、敢えて率直な感想を書かせていただいた次第である。 
 



追想

○片倉友吉の聖人性について

片倉の考え方は、誰から見ても極端な感じもする。しかし元々偉人や聖人になるような人は、極端な人が多い。アッシジの聖人と言われる聖フランチェスコ(1181―1226)は、富裕な家の息子として育ちながら、父と家族から与えられた物をすべて投げ捨てて、まさに裸身となって、信仰の道に入った。やがて彼の手には、キリストの手と同じ聖痕(せいこん)が現れたと伝えられている。彼の考え方は、原始キリストい教の姿に近く、一般の人々は簡単に真似のできない純粋性を有している。ところがその純粋にキリストの痛みを我が物とし、またその教えを受け継ごうという精神は、時の法王の気持ちをも動かし、彼が粗末な修道服を身につけてサン・ピエトロ大聖堂に訪れた時には、法王が彼の前にひざまずいて、彼の足に口づけをし、修道院を建設することを許されたと伝えられている。おそらく法王は、自らの立場を越えて、聖フランチェスコのひたむきな信仰心に、イエス・キリストに通じる信仰の本質を見たのであろう。

片倉友吉は、もしかすると、近い将来、ローマ教皇庁(?)の判断によって、アジアの聖人の仲間に入る人物かもしれないとさえ思う。多くの人はやはり人見牧師のように、「方便」とか「現実的判断」とか「建前と本音」などの自分に都合の良い言い回しを使いながら、現実に迎合しがちな弱き存在である。私たちの多くは、片倉友吉というよりは、やはり人見勉の感覚の世界に生きている。その意味で、私たちは皆、人見牧師そのものだ。でもやはり人間は、片倉友吉とまでは行かなくても、勇気を持って、これは違うぞ、と言える強い信念を持って、彼に近づく努力を続けなければいけない。そうでなければペテロ如く本当の信仰に近づくことも、日常生活において誰かに信用に足る人間と見なされることも永遠にないであろう。
 

 


2002.4.15
 

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