「吾妻鏡」に現れた静御前

義経伝説ホームページへ

凡例:このページ番号は、新人物往来社版「全譯吾妻鏡」第一巻による。佐藤が私的に抜き書き編集したもので、原文とは、一致しませんのであしからず。

(原文付加=1999.11.10)


 

1. 文治元年11月6日

義経一行西国に逃亡し体勢を立て直そうと計るが、運悪く嵐に遭い難破、航海を中止し、郎党分散し、義経に従う者は、わずかに源有綱、堀彌太郎(景光)、武蔵房弁慶、妾女静の四人であった。(p244)

2. 文治元年11月17日丙申

大和の国吉野山にて今夜亥の刻、義経妾静吉野の藤尾坂より下り蔵王堂に至る所を捕縛される。静曰く「われはこれ九郎判官の妾なり。大物の浜より豫州(義経)この山に来て、五日逗留する所(中略)伊予の守は山伏の姿をかりて逐電したのでした。時に伊予の守は、数多の金銀の類をわれに与え、雑色男等を付けて京へ送らんと思われたのでした。ところがこの男ども財宝を持ち逃げして雪深き山中に消えてしまい、このように迷っている所を・・・」と証言した云々。(p248)

3. 文治元年11月18日丁酉

静の説を聞いて、豫州を捜すため、静に同行を求めたが、これを激しく嫌がった。静の体調の回復を待って鎌倉に送るべき云々。(p248)

4. 文治元年12月8日

吉野執行静を北条殿の御邸に送る。(p256)

5. 文治元年12月15日申子

北条時政、静を尋問。静は捕まった時と同じ釈明をする。

6. 文治元年12月16日乙丑

静、(鎌倉殿に)召し出されるべし。

7. 文治2年正月29日戌申

頼朝、静を鎌倉に召し出す旨の命令を北条殿に下す。

8. 文治2年2月13日辛酉

北条時政より静を御送りしたとの報届く。

9. 文治2年3月1日乙卯

静、母の磯の禅師を伴い鎌倉に着く。安達新三郎清経宅に預けられる。

10. 文治2年3月6日甲申

静、俊兼、平盛時等に尋問を受ける。

静申して曰く「山中にはあらず当山の僧坊に居りました。そこで大衆蜂起のことを聞き、豫州は山伏の姿をして大峯に行く、と称して山に入られたのです。その寺の僧侶がこれを見送りました。私は豫州を慕い、一の鳥居の辺りに追いかけて行きますと、女人は入山叶わず、とのかの僧侶のお言葉に、仕方なく京へ戻るしかないと思っていると、一緒に同行していた雑色達が、いただいた財宝を持って逐電してしまったので、その後どうしようもなく蔵王堂の辺りで迷っていたので・・・云々」

さて静にこの僧侶の名を訪ねると、「忘れてしまいました」として、これを答えず、およそ京都で話した時とは、話に異なることが多い・・・。(p284)

11. 文治2年3月22日庚子

静、義経の子を懐妊していることが明らかとなる。出産の後、帰洛を許される旨の沙汰あり。(p284)

12. 文治2年4月8日乙卯

頼朝、政子、鶴岳宮に参拝のついでをもって、静を回廊に召しだして舞曲を施さしむる。p289

13. 文治2年5月14日辛卯

工藤祐経、梶原三郎景茂、千葉平次常秀、八田太郎朝重、藤判官代邦通等、下若等を連れて、静の居る安達宅に勝手に行き、酒宴を催す。この席で梶原景茂は、しこたま酒に酔い、卑わいな言葉などを吐いて、静を愚弄する。そこで静曰く、「豫州は鎌倉殿の弟君、私はこのお方の妾です。御家人の身であるあなた様は、私たちがただの男女の仲でないことは承知のはず。もしも豫州が罪咎を問われなかったら、あなたにこうして対面することもなかったはず。ましてや今の立場で何を言おうと言うのですか」(p296)

14. 文治2年5月27日甲辰

静、大姫(頼朝、政子の長女)の仰せにより、御堂に参り芸を施す。(p298)

15. 文治2年7月29日庚戌

静、男児を出産。静は、安達新三郎によりこの子を渡すよう再三言われたが、しっかりとこの子を抱いて離さず、ついには母の磯禅師が引き離し、その子を渡す。直ちに由比の浦に捨てられる。静を不憫に思った政子が、頼朝に命乞いをしたが、頼朝は頑として聞き入れなかった。(p314)

16. 文治2年9月16日已未

静親子、帰洛を許される。政子と大姫により多くの重宝を賜る。(p320)

17. 文治2年9月22日已丑

京都において、豫州一党、堀彌太郎生け捕られる。また隠れ家を多勢にて急襲され、奮戦するも佐藤忠信、郎党2名とともに自害。この手柄は糟屋藤太有季(ありすえ)である。(p321)

1999.6


原文

文治元年一月六日

六日乙酉。行家。義経於大物浜乗船之刻。疾風俄起而逆浪覆船之間。慮外止渡海之儀。伴類分散。相従予州之輩纔四人。所謂伊豆右衛門尉。堀弥太郎。武蔵房弁慶并妾女(字静。)一人也。今夜一宿于天王寺辺。自此所逐電云云。今日。可尋進件両人之旨。被下 院宣於諸国云云。

 

文治元年十一月十七日

十七日丙申。予州籠大和国吉野山之由。風聞之間。執行相催悪僧等。日来雖索山林。無其実之処。今夜亥剋。予州妾静自当山藤尾坂降到于蔵王堂。其体尤奇怪。衆徒等見咎之。相具向執行坊。具問子細。静云。吾是九郎大夫判官(今伊予守)妾也。自大物浜予州来此山。五ケ日逗留之処。衆徒蜂起之由依風聞。伊与守者仮山臥之姿逐電訖。于時与数多金銀類於我。付雑色男等欲送京。而彼男共取財宝。棄置于深峰雪中之間。如此迷来云云。

 

文治元年十一月十八日

十八日丁酉。就静之説。為捜求予州。吉野大衆等又踏山谷。静者。執行頗令憐愍相労之後。称可進鎌倉之由云云。

 

文治元年十二月八日

八日丁巳。吉野執行送静於北条殿御亭。就之。為捜求予州。可被発遣軍士於吉野山之由云云。

 

文治元年十二月十五日

十五日甲子。北条殿飛脚自京都参着。被注申洛中子細。謀反人家屋等先点定之。同意悪事之輩。当時露顕分。不逐電之様廻計略。此上又申帥中納言殿畢。次予州妾出来。相尋之処。予州出都赴西海之暁。被相伴至大物浜。而船漂倒之間。不遂渡海。伴類皆分散。其夜者宿天王寺。予州自此逐電。于時約曰。今一両日於当所可相待。可遣迎者也。但過約日者速可行避云云。相待之処。送馬之間乗之。雖不知何所。経路次。有三ケ日。到吉野山。逗留彼山五ケ日。遂別離。其後更不知行方。吾凌深山雪。希有而着蔵王堂之時。執行所虜置也者。申状如此。何様可計沙汰乎云云。」若公御平愈云云。

 

文治元年十二月十六日

十六日乙丑。去七日所被副上洛御使之黒法師丸自途中帰参。申云。雑色浜四郎至駿河国岡部宿。俄病悩。心神失度。待平愈之期。雖経両日。当時起居猶不任其意。況難向遠路云云。依之不廻時剋。被差上雑色鶴次郎。生沢五郎。黒法師丸猶所相副也。又被遣北条殿御返事。静者可被召下云云。

 

文治二年二月二十九日

廿九日戊申。予州在所于今不聞。而猶有可被推問事。可進静女之由。被仰北条殿云云。又此事尤可有沙汰由。付経房卿令申給云云。

 

 

文治二年二月十三日

質十三日辛酉。当番雑色自京都参着。進北条殿状等。静女相催可送進。又正月廿三日。同廿八日。洛中群盗蜂起。則搦獲之。去一日。十八人梟首畢。経数日者。似刑寛之間。不及召渡使庁。直致沙汰云云。

 

文治二年三月一日

三月小。一日己卯。諸国被補惣追捕使并地頭内七ヶ国分。北条殿被拝領畢。而深存公平。去比上表地頭職。其上重被付書状於帥中納言。黄門又付定長朝臣被奏聞之。

 

院進御物之脚力可罷下候之由所申候也。以去廿八日。三ヶ度御返事。纔一通進覧之由。賜御教書候畢。而件脚力不能賜御返事罷下候。所恐申也者。抑一日参拝之時。七ヶ国地頭職之条。雖令言上候。未承分明之仰。罷出候畢。仍於時政給七ヶ国地頭職者。各為令遂勧農候。可令辞止之由所令存候也。於惣追捕使者。彼凶党出来候之程。且為承成敗。可令守補之由所令存知也。凡国国百姓等兵糧米使等。寄事於左右。押領所所公物之由。訴訟不絶候也。且糾明如此等之次第。若兵糧米有過分者。即糺返件過分。又百姓等令未済者。計糺田数。早可令究済之由。尤可蒙御下知候。兼又没官之所所。蒙 院宣并二位家仰候之間。可令見知之由。同所令存也。以此由可令言上給候。時政誠惶誠恐謹言。 三月一日 平時政(申文) 進上 大夫属殿

 

今日。予州妾静依召自京都参着于鎌倉。北条殿所被送進也。母礒禅師伴之。則為主計允沙汰。点安達新三郎宅招入之云云。

 

文治二年三月六日

六日甲申。召静女。以俊兼盛時等。被尋問予州事。先日逗留吉野山之由申之。太以不被信用者。静申云。非山中。当山僧坊也。而依聞大衆蜂起事。自其所以山臥之姿。称可入大峰之由入山。件坊主僧送之。我又慕而至一鳥居辺之処。女人不入峰之由。彼僧相叱之間。赴京方之時。在共雑色等取財宝。逐電之後。迷行于蔵王堂云云。重被尋坊主僧名。申忘却之由。凡於京都申旨。与今口状頗依違。・任法可召問之旨。被仰出云云。又或入大峰云云。或来多武峰後。逐電之由風聞。彼是間定有虚事歟云云。

 

文治二年三月二十二日

廿二日庚子。静女事。雖被尋問子細。不知予州在所之由申切畢。当時所懐妊彼子息也。産生之後可被返遣由。有沙汰云云。

 

文治二年四月八日

八日乙卯。二品并御台所御参鶴岡宮。以次被召出静女於廻廊。是依可令施舞曲也。此事去比被仰之処。申病痾之由不参。於身不屑者「者」。雖不能左右。為予州妾。忽出掲焉砌之条。頗恥辱之由。日来内内雖渋申之。彼既天下名仁也。適参向。帰洛在近。不見其芸者無念由。御台所頻以令勧申給之間被召之。偏可備大菩薩冥感之旨。被仰云云。近日只有別緒之愁。更無舞曲之業由。臨座猶固辞。然而貴命及再三之間。憖廻白雪之袖。発黄竹之歌。左衛門尉祐経鼓。是生数代勇士之家。雖継楯戟之塵。歴一臈上日之職。自携歌吹曲之故也。従此役歟。畠山二郎重忠為銅拍子。静先吟出歌云。

よし野山みねのしら雪ふみ分ていりにし人のあとそこひしき。

 

次歌別物曲之後。又吟和歌云。

 

しつやしつしつのをたまきくり返し昔を今になすよしもかな。

 

誠是社壇之壮観。梁塵殆可動。上下皆催興感。二品仰云。於八幡宮宝前。施芸之時。尤可祝関東万歳之処。不憚所聞食。慕反逆義経。歌別曲歌。奇怪云云。御台所被報申云。君為流人坐豆州給之比。於吾雖有芳契。北条殿怖時宜。潜被引籠之。而猶和順君。迷暗夜。凌深雨。到君之所。亦出石橋戦場給之時。独残留伊豆山。不知君存亡。日夜消魂。論其愁者。如今静之心。忘予州多年之好。不恋慕者。非貞女之姿。寄形外之風情。謝動中之露胆。尤可謂幽玄。枉可賞翫給云云。于時休御憤云云。小時押出(卯花重。)於簾外。被纏頭之云云。

 

文治二年五月十四日

十四日辛卯。左衛門尉祐経。梶原三郎景茂。千葉平次常秀。八田太郎朝重。藤判官代邦通等。面面相具下若等。向静旅宿。玩酒催宴。郢曲尽妙。静母磯禅師又施芸云云。景茂傾数盃。聊一酔。此間通艶言於静。静頗落涙云。予州者鎌倉殿御連枝。吾者彼妾也。為御家人身。争存普通男女哉。予州不牢籠者。対面于和主。猶不可有事也。況於今儀哉云云。」廷尉公朝自京都参着。所帯 院宣等也。以知家宿所為旅館云云。

 

文治二年五月二十七日

廿七日甲辰。入夜。静女依大姫君仰。参南御堂。施芸給禄。是日来有御参籠于当寺。明日満二七日。依可退出給。及此儀云云。

 

文治二年閏七月二十九日

廿九日庚戌。静産生男子。是予州息男也。依被待件期。于今所被抑留帰洛也。而其父奉・背関東。企謀逆逐電。其子若為女子者。早可給母。於為男子者。今雖在襁褓内。争不怖畏将来哉。未熟時断命条可宜之由治定。仍今日仰安達新三郎。令棄由比浦。先之。新三郎御使欲請取彼赤子。静敢不出之。纏衣抱臥。叫喚及数剋之間。安達頻譴責。礒禅師殊恐申。押取赤子与御使。此事。御台所御愁歎。雖被宥申之不叶云云。

 

文治二年九月二十二日

十六日己未。静母子給暇帰洛。御台所并姫君依憐愍御。多賜重宝。是為被尋問予州在所。被召下畢。而別離以後事者。不知之由申之。則雖可被返遣。産生之程所逗留也。


参考文献

新訂国史大系本CD―ROM版「吾妻鏡・玉葉」 吉川弘文館

1

このページのトップへ

義経伝説ホームページへ

 

1999.11.10 Hsato