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寒山詩を読んで
今日は、少し趣(おもむき)を変えて、漢詩から入る。 (別に下の詩を読めなくても関係ない。雰囲気を掴んで後の訳を見ればそれでいい。) 照見晴空一物無 可貴天然無価値宝 埋在五陰溺身躯
これは中国に伝わる有名な寒山詩(かんざんし)からの引用である。寒山(かんざん)とは人の名前である。唐の時代に、天台山というところに寒山と拾得(じっとく)という禅僧が住んでいて、詩や画を書いた。その人物達の残した詩が、「寒山詩」という訳である。 さて先の漢文を佐藤なりに訳すと、このようになる。 見るところ、晴天の空には、月以外なにもない。 お前に分かるか、天然自然という無価値に見える宝を、 その宝は、お前の心の奥深くにも眠っているのだ…。 ところでこの寒山という人物は、自分の心のことをよく月にたとえる。別の詩では、「我が心、秋月に似たり」という言い方もしている。秋の月と言えば、中秋の名月だが、夜空に生える月のように自分の心が、一点の曇りもなく照り輝いている姿は、ひとつの悟りの境地かもしれない。だから最初の詩の中の「寒山頂上月輪弧」という下りは、自分の心の有りようをそのまま表現しているのである。そのようにして訳し直すと、このようになる。 もはや俺の心を乱すものは何もない。 この寒山の自然の中でこそ悟り得た境地だ。 人間誰しもその自然と感応することによって、その宝を得ることができる。 天台山の自然は、人に媚びない強さをもっている。そこに安易に分け入ろうとするものは、あの世界最高峰チョモランマ(エベレスト)のように死をも覚悟しなければならない。元々自然というものは、そういうものだ。本来が危険であり、不便である。しかしながらこの寒山という人物は、そのような自然を心から愛し、ついにはその自然と感応(一体化)した人物であったのである。そして寒山は、その心境をこのように詠んでいる。 本来、人間も自然の一部なのだから、自身を空しくして自然に接することができれば、心の平安を取り戻すことができる。母なる大地の慈愛に包まれて・・・。 佐藤
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1998.7.1