頼朝と「男の嫉妬」心
最近本屋で、「男の嫉妬」(副題 武士道の論理と心理 ちくま新書 山本博文著)とい う題の本を見かけた。頼朝と義経の関係が書いてあればと思い、手に取ってみると、著書山本氏の専門は、近世史の研究者なので、「葉隠」の作者の山本常朝な どの話が中心であった。

私にとって武士世界における最大の「男の嫉妬」は、義経にみせた頼朝の仕打ちである。私のような義経贔屓の者だけ ではなく、古今東西どのような社会であれ、命を賭けて、功に報いるのは、組織のトップに立つ者の務めである。

義経は誰がみても、源平合戦における最大の功労者であった。もしも義経の行動力と軍事的気転がなかったならば、あ れほど呆気なく平家一門が滅び去ることはなかったであろう。もっと言えば、あの哀れを湛える名作「平家物語」の最大の演出家は義経の天才なのである。

しかし頼朝は、奇跡と言われる一ノ谷の勝利(1184、2、7)の時から、早くも義経に向けられた讃辞や名声に嫉 妬や羨望のようなものを感じたとしか思えない。おそらく彼にしてみれば、慎重派の自分が命がけで立ち上がりながら、石橋山で思わぬ敗戦(1180、8、 28)をしたのであるが、そこから捨て身の思いで体制を立て直し、平家打倒のスローガンを掲げて東国の武者を糾合することに成功した。ところが、今や奥州 でぬくぬくと生きていた弟の義経が、僅かな手勢の武者を引き連れて鎌倉に来たかと思うと、京都の院や公家たちも、「一ノ谷の奇跡は、ひとえに義経の功労」 と稀代のヒーローに祭り上げる始末となった。

男としておもしろい訳がない。結局頼朝は、清盛の油断とも言える温情の計らいによって伊豆に流され、犯罪者同様、 監視下に置かれていたのである。当然猜疑心は増し、周囲の人間を敵味方で見分ける習慣が身に付いてしまったと思われる。簡単に言えば、疑い深く、人を信用 できない性格が自然と培われて行ったということだろう。

NHKの大河ドラマ「義経」では、頼朝の性格を「理」と、義経の性格を「情」ということで対比しているが、「理と 情」という単純な構図にしてしまうと、ちょっと違うのではないかと思うのである。もしも本当に、頼朝が理の人ならば、最大の功労者に対して、褒美を取らせ ないばかりか、鎌倉に入れないというような行動を取るだろうか。

この件に関しては、後に頼朝に近づき関白の座にまで就いた九条兼実にして、自らの日記「玉葉」において、「九郎無 賞如何、定有深由緒歟」(九郎に賞が無いのは何故か。きっと深い由緒があるからなのか?」(1185、6、30)と、首を傾げているのである。要は明らか に「理」に合わないことを頼朝が行っているのである。その仕打ちの裏には嫉妬心というものがあったと思われる。

もしも仮にこの仕打ちが男の嫉妬でないとしたら、いったいその動機は何だというのか。鎌倉の御家人たちが、自らに 来るはずの褒美が義経に集中したり、源家の力が、平家のように強大になってしまうことを畏れ、何らかの牽制力が働いていたということだろうか。私はおそら く両方の力(頼朝の嫉妬と御家人の嫉妬)が微妙に作用して、あのような義経に対する理不尽な仕打ちがなされたと思うのである。

武士の世界だろうが、官僚の世界、サラリーマンの世界、親子、兄弟、姉妹、友人の間でも、人が二人以上集まれば、 嫉妬という感情は、自然にわき上がってきて、それがある局面で重要な力となって作用するということである。一見、嫉妬という言葉は、個人的感情で、歴史と はかけ離れたようにも見える。しかしこの「嫉妬」という「情動」を、歴史心理学という言葉で改めて捉え直し、義経と頼朝の場合のように、個別の歴史的事実 に即して分析してみれば分かることがある。それは歴史というものが、案外「嫉妬」というような個人的な感情(情動)によって突き動かされて構成されている ということである。

2005.10.26 Hsato

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