新幹線開発物語

技術者魂のすごさ


 

泣けた。技術者魂に泣けた。NHKのドキュメンタリーシリーズ「プロジェクトx」の「執念が生んだ新幹線」を観た。これは余り知られていない新幹線開発秘話であると同時に、新しい技術開発賭けた男達の執念の物語である。

今や「新幹線」と言えば、そのまま英語で通用してしまうほどの20世紀の鉄道史に残るプロジェクトだった。今、東京駅に行ってみれば、夢の超特急と言われた新幹線が、まさに山の手線並の数分単位で、ひっきりなしに北に南に走っていく姿を目の当たりにすることができる。しかしこの新幹線誕生には、ちょっと訳ありな技術者達の執念の開発秘話があった。

新幹線プロジェクトは、三木忠直という戦争当時飛行機の設計開発に携わっていた男の執念によって、進められたと言っても過言ではない。実は三木は戦争当時、桜花という特攻専用のただまっすぐに敵艦に飛んで行って体当たりするための飛行機も設計させられた経歴を持つ航空機設計のエリート技術者だった。もちろん技術者としては、苦渋の仕事だったに違いない。帰ってくるための補助車輪も燃料も積んでいない飛行機など、およそ心ある技術者ならば、作りたくないのは当然だ。でも状況は、彼にそれを造らせることを強いた。その結果、多くの戦友達を死なせてしまったことを、彼は悔いていた。やがて勝ち目のない戦争が終わった。彼は働き盛りの30代だったが、戦争責任の問題もあり、なかなか就職は叶わなかった。やがて国鉄の外郭団体である国鉄鉄道技術研究所に職を得て就職し、今度は、本当に日本人の役に立つような技術開発に携わる決意で仕事を探した。

新幹線開発を思い立ってはみたが、当時の国鉄には、内部に正式の技術開発部門があり、そこには国鉄生え抜きの技術者連中が、蓄積した技術力を持って、鉄道開発をリードしていたのである。要するに国鉄鉄道技術研究所という機関は、当時の国鉄では外様のような存在でしかなかったのだ。

もっとわかり易く言えば、研究所とは、名ばかりで、不況で食えない技術者達を吸収する組織だったようである。しかし当時の国鉄は、発展する航空旅客産業の発展により、危機感を募らせていたことも確かだった。三木はそこに活路を見出していた。特に基幹線の東京大阪間は、7時間もかかる有様で、航空機の圧倒的なスピードに、国鉄幹部は、敗北感を募らせていた。確かに7時間と1時間30分では、勝負は目に見えているように思われた。

そこで三木らは「東京―大阪3時間への可能性」という銘打った一大プランを打ち出し、昭和33年7月、遂に国鉄総裁の前で、その現実可能性を力説することにした。三木はその席で情熱を込めて、新幹線開発の必要を説き、最後にこう語った。
これは現実的なプランであり。国鉄が今後航空産業に負けずに生き残って行くためには、絶対に不可欠なプロジェクトです。また開発には絶対の自信を持っています
国鉄総裁は、この三木の鬼気迫る迫力に圧倒され、ついに「新幹線プロジェクト」にゴーサインを出すこととなった。

開発には、航空機開発の技術が余すところ無く注入された。まず第一に空気抵抗の少ない流線型の車体が、粘土細工によって、幾度となく試作された。木は常々部下に言ったと言う。
格好のいい車体を作りなさい。格好の悪いのは駄目だ。
この開発に当たって、三木の脳裏には、自分が作った急降下爆撃機「銀河」の流線型のボディが常にあったという。

こうして時代を先取りした新幹線の先進的フォルムは完成の運びをみたのである。しかし世界最高水準の250キロを超える超高速での走行には、車体の揺れを防ぐ技術開発が必要であった。そのため戦時中史上最強の運動性能を持つと言われた名戦闘機ゼロ戦の機体の揺れを制御技術を確立したひとりの技術者が、画期的な油圧式バネを考案し、車輪の台車を完成。こうして見事に超高速での振動を克服した。さらに難問がのし掛かった。安全面を重視する時、電車が近づいた時や地震があった時など、安全装置が働いて、自動で新幹線が停止するような仕組みが必要とされた。やはり軍で信号技術を研究していたひとりの技術者が、「自動列車制御装置」(ATC)の実験に取り掛かり、この問題も解決していった。

また新幹線が画期的なのは、安定走行の為に線路の巾を少し拡げ、しかも在来線のレールを使わずに、新幹線用のレールを独自に造り上げたことだった。もし在来線をそのまま活用するという方針が堅持されていたなら、おそらく現在のような新幹線の姿はなかったはずだ。そうした面では、国が国家的プロジェクトとして認め、膨大な予算を惜しまずに注入できた成果であった。さてこうして瞬く間に五年間が過ぎた。いよいよ試作機も完成し、新しい新幹線用のレールの上を、新幹線が颯爽とお目見えする瞬間が近づいていた。三木はつくづくと思った。
私の持っている技術のすべては出し尽くした

そして三木は、周囲を唖然とさせる結論を出したのだった。何と国鉄への辞表の提出だった。もちろんこのプロジェクトの事実上の最高責任者の辞表である。許されるはずがない。しかし三木は侍(さむらい)だった。一度口にしたことを簡単に翻すような柔な人物ではなかった。
そして上司にこういったと言う。
この新幹線には絶対の自信を持っています。必ず成功します。安心して下さい。もう私の出る幕ではないのです

そして昭和38年、当時の列車のスピード世界記録二五五キロをうち破る試験走行の時が来た。見事な純白の新幹線が富士山の前を通過して、徐々にスピードを上げて行った。しかしこの列車の中に、三木の姿はもうない。三木は、自宅のテレビで、わが子の晴れ姿を見守っていた。油圧バネを開発した人物が、三木のあとを引き継いで、この実験の総指揮を執った。100キロ、150キロ、しかしこの辺りから、徐々に車体が振動に包まれていった。運転手の額にも緊張の汗が滲む。200キロを超えた時、みんなが、この責任者を見ていた。もう無理だ。止めた方がい。危険だ。これでは脱線転覆の危険もある。彼の前には、停止を運転手に命令する大きなブザーボタンがある。みんなは思った。きっとボタンを押すに違いない。しかし彼の指はぴくりとも動かなかった。彼の頭の中には、ひとつの確信があった。「私の計算に狂いが有るはずがない。絶対この揺れを、油圧バネが吸収するはずだ…」もちろん周囲には何も洩らさなかった。でも新幹線に危機が迫っていることは確かだった。運転室では、副運転手が慌てて停止のレバーを押そうとして、運転手にその手を制止された…。

ついにスピードメーターは時速230キロを越えた。そして240キロ・不思議な事が起きた。みんなの心配を余所にいつしか新幹線の振動はぴたりと止んでいた。あの油圧バネが吸収したのだろうか。ともかく振動は消えて、不思議な静寂が車内を包んでいた。時速は250キロ。251、252、253,254,255キロ。ついに当時の列車のスピード記録に並んだ。そしてあっさりと新幹線は、その記録をうち破って、256キロの世界記録を更新した。

その瞬間、車内のどこからか、自然に歓声が湧きあがり、やがてそれが拍手に変わった。銘々が顔を見合わせて、微笑みを交わして、手を握りあった。世界の鉄道技術者の誰もが成し遂げていない未踏の領域に、ついに彼らは足を踏み入れたのだ。技術者としてこれ以上の喜びがあるだろうか。しかも数年前までまったく列車など知らなかった航空機の技術者達が、わずか五年で、世界最高水準の超高速列車「夢の超特急新幹線」を完成させたのである。感激もひとしおのはずだ。

その時、一人テレビ映像を見ながら、手に汗を握っていた男が居た。もちろん三木忠直である。彼は成功を確信しながらも、祈るような気持ちでテレビを見ていた。成功の瞬間が来て、三木はテレビに向かってひたすら拍手を送り続けた。誰に対しての拍手かは分からない。とにかく自然に手を叩いてしまっていた。それはおそらく自分を支えてくれた多くの同僚や後輩達、そして支援してくれた人々に対する感謝の拍手だったのだろう。

暫くして、三木の家の電話が鳴った。
三木さんですか。やりました。おかげで実験は成功しました
その声は、わずかにうわずっていた。
それに対して三木は次のように応えて言った。
いや、おめでとう。テレビで拝見していましたよ。良かった。本当に良かった
それ以上の会話は必要なかった。二人はそれだけで分かり合えるまさに同士であった。

それからわずか一年後の昭和39年(1964年)十月、東京オリンピックの開催に合わせる形で、東海道新幹線は、開通の運びとなり、東京?大阪間を当初の目論見通り三時間半で走破する夢の超特急は最高速度210キロの営業を開始したのであった。この技術は、オリンピックで世界中から集まった人々の賞賛を浴び、日本の科学技術の水準の高さを内外に示すと共に、日本経済の飛躍的な発展の原動力ともなっていったのである。

* * * * * *

新幹線が開通してから、2000年の今年で三十五年の歳月が流れたことになる。その間、新幹線は、三木達が当初から計画した通り、一度の大事故も起こすことなく、世界でもっとも安全な乗り物としての評価を不動のものとしている。新幹線の技術は、その後の超高速列車の基本モデルとなり、世界中から目標とされる存在であり続けていることは周知の事実である。

さて当時、若かった三木も早、九十歳の翁となった。今や国鉄は、民営化してJRとなり、新幹線は改良を重ねながら、東海道線だけではなく、縦に長い日本列島を貫く形で北に南に幹線網を広げている。もしも新幹線が完成しなかったら、日本人のビジネスも旅行も大きく様変わりしていたに相違ない。それほどのインパクトをもたらした新幹線開発チームの三木ら三人が、数十年振りに再会をして、旧交を温めた。

さてドラマは終章に近づいていた。その三人が多摩川縁をゆっくりと歩いていく。すると彼らが心血をそそぎ込んで作った新幹線「ひかり号」が轟音を轟かせて、鉄橋を走り抜けていく。誰も振り返り彼らを見る者はいない。誰もその三人の老人達が、あの新幹線の生みの親達だったとは、気づかない。それも当然のことだ。走り去る新幹線の彼方には夕日に染まる富士山が聳えている。静にカメラが引いていき、やがて夕日の中に三人の影と新幹線がひとつになった。そこで静にクレジットタイトルが流れる。新幹線開発に賭けた技術者達の物語・・・。

目頭がジーンとした。そして私も5分ばかり拍手を送り続けた。もちろん画面の彼方に消えた三木忠直翁を中心とする三人の技術者の美しいき技術者魂に。佐藤




これはNHKの「プロジェクトX」を忠実に再現したものではありません。
再放送を観て何だ全然違うじゃないか、と言われても責任を負いかねます。

 


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2000.5.12