現代「心中」気質にもの申す 寓話付
-どこかおかしい日本1-
どこかおかしい。最近の「心中」記事を見ながら、首を捻ることが多くなった。本来、「心中」と言えば、近松門左衛門の浄瑠璃に登場する道ならぬ恋を想像しがちだ。それほど日本人は、心中というものに強烈なイメージを持っている。近松が描くのは、封建社会において、不倫やら、身分の違う恋愛によって落ちて、行き場の失った男女が、恋愛というエネルギーの力を借りて、死出の旅へと向かう熱い熱い物語であった。 ところが、最近は顔も素性も知らぬ者同士が、「共に死にたい」と言っては、車の中に練炭を引き入れて、二酸化炭素中毒によって、死ぬのが、一種のブームのようになっている。人の振りを見て、自分の行動を決めるのは結構だが、このような稀薄な理由で、死ななくてもいい人間が、どこかの温泉に行くような気分で死なれては、周囲の人間、特に親はたまったものではない。このような実に軽薄で無機的な心中は、あえて心中とも呼びたくすらない。 昨今、日本人において「死」というものの哲学が、薄れているのをつくづくと感じる。このような心中とは、言えない軽薄な自死は、いったいどこから来るのであろう。宗教というものが、稀薄な時代となって、人間の命の尊さというものが、教育の中で、議論されなくなったのも、一つの原因だろうか。それとも古来より、人の死というものが、自宅の中で、厳粛に行われていた時代とちがって、死は病院というある種の非日常的な場所の中で、機械的に行われてしまうために、「死」というものの現実感が失われているのだろうか。それとも、もっと単純に、少しでも世の中が、自分の思い通りに行かなければ、誰でも良いから、この人間と手を携えて、死んで、また生まれ変わってくればいい、とでも思っているのだろうか。 気がつくと私の頭の中で、こんなストーリーが浮かんだ。 もしも、仮にあの世というものが、あったとする。心中した者たちは、気がつくと、自分の横に誰かがいるのを不思議に思ってしゃべり出す。 「あれあなたは、誰でしたっけ、お名前は?」
そこにエンマさまの家来がやってきて、こんなことを言う。
突然、暗闇が来て、何も見えない。すると、遠くに光が見えた。
宗教心なき曖昧な死への逃避
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2003.5.7