死について考える

最新の死事情

 死は怖いものである。怖いからいい。

もしも死が楽しいもの、胸躍るようなものであったら、死は世の中ので正しく機能することはない。死の機能は、法律以前の絶対的規範である。したがって殺人罪は、人間社会の最高刑となる。死は、人間の尊厳のそのものであり、人は死ぬべき存在だからこそ人の命は、金貨の如く貴重で重い。人は死ぬことで、生者に、死者になる覚悟と、生の尊さを教える。人間の歴史は、数え切れない死の歴史でもあった。だから四谷怪談に象徴されるような怪談話も実は、生の尊厳を、生きている人々に理解させるという使命を負っている。要するに人間にとって、死は極めて重いものなのである。

ところが最近、死の意味が極めて軽くなってしまった。テレビゲームでは、ますますリアル化する擬似人間たちが、いとも簡単に倒れ死んでいく、そこには血しぶきも飛ばなければ、何ら悲惨な死という光景はない。殺す者も殺される者も、ひたすら美しくかっこよくストーリーされている。死はこのように簡単に扱われるべき題材ではない。時に死は、厳粛で、重く、壮絶で、悲惨で、恥辱にまみれ、汚く、嘔吐(おうと)を誘うものだ。

かつて日本人が、中国南京で村中の人を虐殺するすさまじい光景の写真を見たことがある。またナチスドイツが、アウシュビッツ収容所で次々にユダヤ人を殺害した写真に度肝を抜かれたことがある。それは口にするのも、はばかられるほど気持ちの悪いものだった…。

しかし最近の日本のテレビでは、悲惨過ぎるというので、戦争をテレビゲームのように美しく報道しすぎてしまう傾向が強い。先のイラク爆撃でも、ニュースになると、死者や負傷者はそっちのけで、まるでシュミレーションゲームのように戦闘機に搭載された暗視カメラが、ピンポイントで狙ったところを正確に射止めるシーンがかっこよく映し出されていた。人の死はどこへ行った。これでは戦争はまるで新しいテレビゲームではないか。

最近、中学生が、一晩中テレビゲームを楽しんだあげく、近所の一人暮らしのお婆さんをめった刺しにしてお金を奪うという凶悪な事件が起きた。おそらくこの中学生にとっては、現実とテレビの中でゲームの殺人が同一化してしまったのかもしれない。「ゲームセンターにいくお金が欲しかった」逮捕された後、平然と少年は言ってのけた。

青酸カリの宅配という「ドクターキリコ事件」も時代を象徴する事件だ。たかだか三十前の若者が、自殺志願者を募るようなホームページ「ドクターキリコ」を作成し、自分がかってに頭で想像しているだけの死を軽く語った。すると死の意味も知らぬ若者たちが、そのホームページに興味本位で群がり、死に甘い幻想と勝手な興味をもつようになった。

おそらく人間が本来持っている死の衝動(タナトス)のプログラムが働いてしまったのだろう。青酸カリを購入した、都内在住の二十四才の女性が、おっかなびっくり、「えいっと」ばかりに飲んで、命を落としてしまった。送った本人の「ドクターキリコ」も電話で女性が飲んでしまったことを電話で問いただされると、「あれ、ほんとに飲んじゃったの」と軽口を叩いた後、自分も青酸カリを飲んで、全身けいれんを起こし、嘔吐物にまみれながら、ぶざまな死を迎えた。この死に対する軽薄な態度は、人間の尊厳を侮辱する行為以外のなにものでもない。たとえ誰であれ、これほど意味もなく、自分の命にピリオドを打っていいはずはない。

死は重い。死は人間の尊厳そのものだ。昨今死に対する価値観を持たない若者が増えていることは、日本という社会そのものの危うさの象徴する事件だ。死を重く受け止めよう。その上で、初めて生の素晴らしさが理解できるようになる。死に意味のない幻想を持っているだけでは、死の意味など、死んでも理解できないというものだ。佐藤


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1998.12.28