白洲正子 感性の秘密

白洲正子はいかにして白洲正子となったの?


旧白州次郎・正子邸「武相荘」

旧白洲次郎・正子邸「武相荘」
(07年3月3日 佐藤弘弥撮影)

世の中 に花の名所は数あれど武相荘こそ物狂ほしけれ ひろや


1 白洲正子の感性と父親

白洲正子(1910−1998)さんという日本の文化に大変精通した女性がいる。平成十年(1998)に、お亡く なりになった方である。ある時、「西行」という著作に触れて以来、のめり込むというほどのことではないのだが、妙に気になり、ひとつひとつ本が溜まって いって、ついにはわが家の書斎に白洲正子コーナーができてしまったのである。

白洲正子さんの凄さは、その感覚にある。とかくインテリというものは理性の方が勝ちすぎていて、理詰め理詰めで息 が詰まるようなところがある。しかし白洲さんは、それがまったくない。何故このような彼女独特の感性が身に付いたのか。少しばかり考えてみたくなった。

結論から先に言えば、白洲正子さんの場合は、生まれっぱなしの潜在的な才能が、祖父や父親をはじめとする様々な人 物と知り合うことで、その一流の感覚をひょいともらってしまうというか、盗んでしまうようなようなところがあるのではないかと思うのである。

まず、第一に父である樺山愛輔(かばやまあいすけ:1865-1953)を考えてみる。彼は貴族院議員や枢密院顧 問として政界で活躍し、後に実業界に転身して、日米協会の設立に尽力するなどの多彩な国際人だった。正子はこの父によって、日本人としての素養を養うよう な教育を受ける。学習院の初等科に入ると梅若流の能を学び始める。しかも師匠は、梅若流二代目を襲名した梅若実という人物だ。

「正子自伝」に、父によって、能という新しい世界に誘(いざな)われた時の様子がリアルに記されている。

ある日、幼稚園からの帰りに、靖国神社へ連れて行かれた。そこで、奉納能が行われるというので ある。もちろん私はお能なんて何のことかわからず、着いた時には夕方になっていて、薄暗い舞台の上で、全身真赤っかな妖精みないなものが二匹で蠢(うご め)いていた。お経のような合唱につれて、疳高(かんだか)い笛の音と鼓がその間を縫う。何だか変なものだと思って見ている間に、こっちは一向その気がな いのに奇妙にひきいれられて行く。そのとたんに電気が消えた。暗闇の舞台の上では何事もなかったように依然として音楽が鳴っている。これでも演出のうちか と思っているとそうではなく、停電で電気が切れたのであった。間髪を入れず、舞台の四隅と橋掛に紙燭(しそく)がともされ、そこに夢のような世界が現出し たのである。・・・その能が「猩々(しょうじょう)」と呼ばれることを知ったのは後のことで、(中略)たぶん舞ったのは当時の名人であった梅若万三郎・六 郎(後の実)兄弟で、度々いうように子供は美しいものを一生覚えているものだ。が、あの時もし電気が消えなかったら、それほどお能に熱中したかどうか。そ う考えると不思議な気がしてならない。」(「白洲正子自伝」平成6年(1994年)新潮社刊)

わが子とはいえ何も知らない幼稚園に通う女の子をいきなり能を観に連れていくという父親の感性が面白い。この説明 のなさ、 理屈以前に、体で覚え込ませるということについては、樺山家の教育方針があったのだろう。樺山家は、薩摩藩出身で戊辰の役や西南戦争、日清戦争で功があ り、海軍大将、海軍大臣、初代台湾総督、伯爵となった樺山資紀(かばやますけのり:1837−1922)より始まる。

愛輔自身も、十三歳でアメリカに留学。後にはドイツに移って、国際的な感覚を、体で身に付けた人物だった。鉄は熱 いうちに打てという言葉があるが、樺山家では、子供には、理屈よりも前に、体でぶつかっていくことを家風としていたと思われる。これは薩摩藩で、行われた 「郷中」(ごうじゅう)という教育システムの影響かもしれない。郷中は、藩士の子弟が七、八歳から稚児となってこれに加わり、二十歳過ぎまで、この中から 生まれるリーダーを中心とした自主的な教育により、徹底した文武両道の教育がなされたのである。

このリーダーの中から明治維新を牽引した西郷隆盛(1827ー1877)や大久保利通(1830-1878)も 育っていったのである。ちなみに正子の祖父資紀は、西郷より十歳年少であり、当然顔見知りだったはずで、西南戦争での西郷翁と敵味方として相まみえたこと が胸につかえていたようだと、正子自身も自伝に記している。

能以外にも父愛輔は、正子に漢文や古文など、当代一流の家庭教師を付けて彼女を指導させたのである。そして正子 は、十四才(1924)になり学習院の初等科を修了すると、アメリカの全寮制の女子校に送られ、欧米流の厳しい教育によって鍛えられるのである。

ここまでは、樺山家も正子の人生も順風満帆に見える。しかし人生は思い通りに、すいすいと進むものではない。正子 は十七才(1927)になる。当然、彼女は、アメリカの大学に進学して、もっと学びたいとの考えていた。しかし折から日本経済は、金融恐慌(昭和恐慌)が 起こり、父の関係していた銀行が倒産をするという事件が起こる。正子も大学どころではなくなってしまった。永田町あった洋館の豪邸も父のライバル銀行三菱 銀行の会長に手放さざるを得なくなったのであった。

正子は、父愛輔を、才能豊かな人だとは思っていないようだ。それよりも、アメリカでのピューリタン的な教育で培っ た生真面目さや馬鹿が付くほどの正直さに人間としての影響を受けたと思われる。愛輔は、幼少の頃より、正子にはごく自然な形で薩摩藩流の英才教育を施し、 正子の感性という種子に雪解の水のような栄養を与えたのである。

物静かなで全ての面において控えめな父愛輔は、第一銀行を興すなど日本資本主義の父とも言われる渋澤栄一 (1840-1931)と同じく、次々と企業を興し、軌道に乗っては、それを手放すというようなことをした私欲のない人物であったが、彼の死に際に、正子 は父という人間の凄さを見せつけられることになる。それは死の床で意識朦朧の中で、父愛輔が一切を英語で話し始めたというのである。それを周囲に正子が通 訳をしたそうだ。正子の父の世代、日本人はそれこそ一命を賭すような覚悟をもって、海外に留学をし語学を身に付けた。それは何も自分の立身出世のためなど ではない。日本という国家が、世界の文明に遅れをとっていることを痛感し、英語を覚えなければ、日本という国家のステータスを上げることは叶わない、と愛 輔は必至で英語をマスターしたのである。

おそらく、正子は震えるような思いをもって、父の無意識から発する言葉を魂から発するものと感じ入ったはずだ。父 親という存在は、叱るばかりが能ではない。何よりも時において、自分の生き様や考え方を、ほんの少しばかり、ただし毅然として示せばそれで足りるのであ る。それよりも、正子の感性の栄養を与えた「能」の稽古のきっかけ作りや十四歳での留学 の差配は見事であったと思うのである。


2 運命の人白洲次郎と逢う

人の一生というものは、長い目でみれば、どれが不幸でどれが幸せなのか、分からないところがある。正子の場合もそ うであった。アメリカで沢山の友人ができた正子は、彼女たちと、アメリカの大学で学ぶものと当然思っていた。父もそのように思っていた。ところが、天変地 異のように、昭和恐慌(1927〜1930頃)が起り、正子の夢は断たれることになった。

翌年の1928年、アメリカのハイスクールを卒業した正子は、ともかく相当な失意をもって東京に帰ってきた。しか しめげてなどいなかった。彼女はその思いを振り払うように幼少の頃から習ってきた能の稽古にいっそう精を出すのであった。能というものは、男の社会の芸術 である。女性が能舞台に立つなど当然御法度である。ところが、どのような経緯があったかのか、正子は、女性として初の能舞台に立つことになった。

それにしても、「禍福はあやなす縄のごとし」ということわざがあるが、人の運命というものは、分からないものであ る。アメリカで学んでいるはずの正子が、失意を抱いて、東京に帰って来ることで、逆に生涯のパートナー(伴侶)白洲次郎にめぐり逢うことになったのだか ら・・・。

白洲次郎の生家は、兵庫県芦屋にあった。何でも白洲家は、九鬼藩で儒学を伝えた名家で、次郎の祖父退蔵は、家老の 要職にあった。父文平は、ハーバード大学に留学し、後に綿貿易によって、巨万の財産を築いたとされるエリートだった。大金持ちの息子であった次郎は、17 才で、イギリスの名門ケンブリッジ大学に留学する。それから九年間、自由奔放にイギリス流の思考方法を身につけていく。しかし運命のいたずらか、1928 年、恐慌のあおりを喰らって父の経営していた「白洲商会」が倒産し、急遽日本に帰国することになった。時に白洲次郎二十六歳であった。

十八歳の正子は、実兄の紹介により、この若き俊才と出会うことになる。この出会いであるが、元々正子の父樺山愛輔 と次郎の父白洲文平は、共に同時期ドイツのボンに留学経験があり、旧知の間柄だったこともあるようだ。

正子は、この出会いと結婚について自伝にこのように記している。

・・・何でもいいから何かしたい。その何かがわからないので内心いらいらしていた。そうかと いって、お嫁に行く自信もない。せめて二十五歳までは、結婚するのは無理だ、と自分にも言い聞かせ、人にもそう言いふらしていた。もちろん縁談なんか見向 きもせず、両親を困らせていた。そこへ忽然と現れたのが白洲次郎である。『ひと目惚れ』というヤツで、二十五歳まで遊ぶことも、勉強も、目の前から吹っ飛 んでしまった。・・・次郎も私と同じように、恐慌のために留学先の英国から、日本へ帰された若者の一人である。彼の場合は、もっと切羽つまった境遇にあ り、父親が破産したため、家族を養って行かなければならない。」(前掲書 「自伝」)

こうして、正子と次郎は、ともかく伴侶となったのである。人の運命の不思議を感じる。誰かがシナリオを書いている ようなカップルである。さて白洲次郎という人物がどのように正子の感性に関わったのか。まず白洲次郎という人物について、少しばかり世間は、この人物の天 才性について、理解しているように見える。私は百年後には、現在の幕末のヒーロー坂本竜馬に匹敵するような歴史的人物という評価がなされているかもしれな いとさえ思っている。

第一に彼の颯爽としたルックスと国際的な視野。第二に破天荒であっけらかんとした性格。第三に誰も日本とアメリカ が戦争することになると思わない時期に日米開戦を予期し郊外の農家を購入して農業をはじめた先見性。第五に吉田首相のブレーンとして日本国憲法制定に深く 関わる過程でGHQと激しく渡り合ったりしたこと。第六にその後、貿易庁長官を最後に政治の一線から退き、東北電力会長ちして実業の世界に転身したこと。 第七に八十代までポルシェを乗り回すなどの粋な生き様。等々。

どうしてこのような人物が戦後の混乱期に現れたのか、本当に不思議な気さえする。今後、白洲次郎という人物像に焦 点が当たり、この白洲次郎を主人公とする優れた小説が何冊か書かれるだろう。そしてその時に、映画化か、現在の大河ドラマのようなものがあれば、間違いな く彼の生涯はドラマ化されるはずだ。

私の見方からすれば、骨董の達人となった白洲正子の最初の目利きは、伴侶であるこの白洲次郎ではなかったかと思う のである。骨董とは、自分の判断で、誰もが注目していないものを発掘し、これはホンモノであるというお墨付きを与えることである。

正子自身「ひと目惚れ」をしたと夫次郎について語っているが、私の見方からすれば、これは雷に打たれたような閃き である。もちろん当の正子は、目の前に現れたこの「白洲次郎」という若者が、将来において、日本の政治史の中で一角ならぬ業績を上げる人物とまでは思わな かっただろが、彼女の第六感にビビッと響いたのである。


3 
稀代の畸人(きじん)青山二郎と出会う

白洲正子が白洲正子の感性を得るために、あるいは決定的な影響を与えたかもしれない人物 がいる。この人物に、正子が知遇を得たのは36歳の時だった。名を 青山二郎(1901−1979)という。白洲正子の骨董の師匠ということもあってか、最近次々と彼の著作が出版されるなどしている。

この白洲正子の感性についての論考を書きながら思うのは、白洲次郎にしても、この青山二 郎にしても、ほとんどの日本人が知らないということである。それは 歴史的評価の問題であり、人の評価というものは、「誰かがあの人物はホンモノだ!」と言いだし、そこで擦った揉んだの論争などが起こり、歴史的評価が定ま り、彼は凄い天才だ、ということになるのである。

実に面白いものだが、多くの人が、自分の価値判断によって、好き嫌いを決定するのではなく、誰かの評価を横目で見て、「あれはいいね」と言っているに過ぎ ない。これをほとんど無意識で行っているために、自分の判断と思っている人も少なくない。テレビというのは、その最たるもので、たかだか、「キムタク」ク ラスの二枚目でも、日本一の美男と刷り込みがなされると、そんな気持ちになって、「キムタク素敵」と目がハートマークに変わるのである。要は人間は、自己 評価のできる眼というものが備わっていないのが、普通である。

青山二郎という人物は、偏屈な変わり者である。自分で創作するような構想力はない。その変わり、ギリシャ神話のミューズのごとく、才能豊かな詩人に霊感を 与えて、人々を感動させる詩や音楽を創造させるのである。

正子の自伝によれば、正子が青山を知るきっかけは、文芸評論家の河上徹太郎(1902−1980)や小林秀雄(1902−1983)を通じてだったようで ある。当時青山は、伊豆に住んでいて、周辺には、先の二人や中原中也(1907−1983)、三好達治(1900-1964)、中村光夫(1911- 1988)、宇野千代(1897-1996)、大岡昇平(1909-1988)など、戦後日本の復興期の日本文化を担う俊才たちが集まっていた。これは凄 い話しである。まるでイギリスのリバプールという港町に、不良だったジョンと音楽好きのポール以下の天才たちが、一堂に集まって「ロックで世界に挑戦しよ う何かをやってやろう」と息巻いていたのと似ている。

伊豆の青山の別荘には、いつの間にか、サロンが出来き、若い俊才たちは、
「祖国日本をこ のままで終 わらせない」、「荒廃した日本をどう当て直すか。」とい うような熱気が燃え上がったのであろう。青山二郎は、その風変わりな風貌からは想像できないのであるが、俊才たちにとって、ギリシャ神話の女神(ミューズ) そのものだったのかもしれない。このミューズは、自分では何かを創造するものではない。しかし詩人たちの発想を助け、酌めども尽きな いイマジネーションを授ける役割を担った。このサロンを、「青山学院」と称したのは、戦争文学の最高傑作との評価を得ている「野火」(1951)を執筆し た大 岡昇 平であった。

そこで、これほどに俊才たちを魅了した「青山二郎」とは何者なのか、ということをテーマに、少しばかり考えてみることにする。

青山の職業は、一応装丁家ということになっている。確かに小林秀雄の単行本の装丁など生涯において400点ほどの作品を遺しているようだ。ただどうも装丁 家として、生活ができるほどの収入を得ていたとは思われない。それよりも何よりも彼は骨董をこよなく愛し、あらゆる森羅万象について興味を持ち、そこに美 を発見することに、無上の生きがいを感じて一生を送ったようだ。こうなると彼は、風流人(好事家)と言ったら聞こえはいいが、ある面では大変な浪費家であ り、得体の知れない変人にも見えてくるのである。


そんな青山二郎が盟友関係にあった小林秀雄と対談した記録が残っている。『「見える」こと 「書ける」こと』(昭和二十八年 小林秀雄著 「真贋」世界文 化社 2000年刊 所収)  という題だが、二人の関係性や青山二郎の性格がよく表れていると思うので、ダイジェストで、追ってみる。

青山 さっき来る歩きながら考えたのだが、小林が画(え)のことをボツボツ書いているだろ う。・・・あれは僕がついて歩いて一緒に見ていたら、小林の見 方というものもきっとモットつかまえられるし、普段座談になると・・・そういうものが出て来ているんだ。だけど小林の文章の中にそれが出て来ないのだよ、 雪舟でも、ゴッホでも・・・。

この文を読むと、青山は、はじめから小林に苦言を呈している、というか、ケンカをふっかけているように見える。お前の書いた雪舟やゴッホなどの絵画の批評 には、小林秀雄の見方というものが感じられない。座談で聞いている分にはできているのに、いったいどうしたんだ?!というのである。

それに対し、小林は、あっさりと、青山のジャ ブの挑発をかわすように、
そうかな、座談とは別だからな。」と言う。

青山は、エスカレートしてズバリと指摘する。
青山 小林の文章だと何か終いには画は要らないというふうになっちゃうんだよ。画家(えかき) のことが主要な問題になっちゃう。だけどクローデルだとか リルケは、画が見えてくるように書けているね。その見えて来るというところが、普段の小林の座談になると生き生きと出て来る。書く時そいうものをみな端 折っているね。」

小林 それは俺が至らないところかな。

しかし青山のボルテージはますます上がって、
青山 だけどあれを読む人は、やはり小林が見たという生々しい眼の感じがほしいのじゃないか ね。・・・小林は画家を本意にして画を忘れているだろう?

小林 そういう癖はあるだろうな。・・・今度はひとつそんな具合にやってみるかな。もっとゆっ たりした呑気な文章にしたら書けるのかな。

ここまで読むだけで、青山は一方的で粘着質である。骨董を通して、モノを見る眼というものを、小林に伝授したという過去の経歴が、二人の間に絶対的な関係 性となって存在しているのがよく分かる。すでに小林にとって、青山二郎は、逆らえない絶対的な存在にまでなっているのである。もしも仮に、小林が、青山に 対して、「それは違う。お前の見方が甘い。誰かに聞いて見ろよ。」と言えば、逆上して、もっと強い言葉で、小林の審美眼について、自分の土俵に引き込ん で、 小林をコテンパンにやっつけることになる。小林にはその光景が見えている。だから、小林は、「青山はこういうタチの人間」と認識した上で、ジャブを交わし て、売られたケンカをしないのである。一方、青山は、そんなことは分かっていない。とにかく、小林の絵画の批評が、作品よりも、人物に焦点が当たっている ことが、とにかく我慢できないのである。青山からすれば、人よりも、人が創作した個々の作品にしか興味がないのである。いやそれよりは、個々の優れた作品 のイメージが生きは生きと脳裏に浮かび上がって来ないことが我慢できないのである。

この二人の人物を恋愛に例えれば、分かれたい女性(小林秀雄)に我が愛に自信満々の男性(青山二郎)という構図になる。はっきり言って、小林秀雄は、もう 青山二郎という男に飽きてしまっているのである。ところが、青山は、3年前と少しも変わらず、同じ言葉を吐いて、それが愛だと感じている。かつて、小林 は、伊東の青山の別宅で、衆目の前で青山にやり込められ、涙を流したということである。小林は青山を通じて骨董というものの本質に触れ、見ることの何たる かを学んだ。しかも小林は、自分の志したフランス文学から、もうひとつの審美眼を構築し、青山を越える自らの思想とも言える眼を養ったのである。この対論 の時点において、もう小林には、青山の助言も感覚も必要ない次元にまで、審美眼を飛翔させていた。それが青山には分からない。二人には別れを予感させる何 かがある。

それで、二人の対話はゴッホ論に移る。

いつしか、立場は逆転し、小林が饒舌になり、 青山を圧倒するにようにしゃべり出す。これは青山の心の動きを見抜いて、小林が自分の土俵にテーマを移動した結果かもしれない。
小林 ・・・実感なんてものはね、人間が瞬間しか味わわれない恵みなんだよ。僕はそういうふう に見る。・・・僕が今度ゴッホで書きたいほんとうのテーマはそれだよ。・・・

色々の言葉の応酬があって、小林はほとんど決 定的な発言をする。
青山 そうすると小林にとっては、ゴッホの画というものは軽蔑すべきものになっちゃうね。」
「そうじゃない。ただ「あーあ」と思うんだ よ、・・・だから絵から歓喜なんか感じることができないのだ。・・・あなたはそういう生活感情・・・生きていた り、味わっていたり、そういうことに大変な信仰を持っているからだ、そういう眼からものを見るからだよ。だけど私の持っているペシミズムだって同様に真実 だ。ただ人間には皆それぞれの運命があるだろう、・・・僕はこの頃は自己主張というものは認めないから・・・

この対話から三年後の1953年(1953)、洋行帰りの小林秀雄を迎えに行った青山二郎に、「過去はもうたくさんだ」という言葉を放ったという。まるで 男女の恋愛にも似た残酷な話しである。小林は、骨董の目利きの目線で、世の中を見る、青山から解放されたかったのだろう。

その過程を、白洲正子はすべて知っているはずである。正子は二人の間に割って入って骨董というもの学ぼうとした。しかし青山は、正子になかなか骨董のこと に ついて、懇切丁寧に教えるようなことはしなかったようだ。それでも正子は、青山に食らい付いて行って、酒の大好きな青山と朝までつき合ったりした。下戸 だった正子 は、酒の飲み方から覚えなければならなかった。青山との付き合いの無茶が祟って、正子は三度も胃潰瘍になったというのは有名な話しである。ある時には原稿 を見てやると言われ、青山に見せると、無駄が多いと、半分以上が削られ、しばらくの間、原稿が書けなくなったこともあるそうだ。

青山自身の文章はと言え ば、正子は「それは隅から隅まで醒めた文章で、よけいなものの一つもない、骨だけで 見せたような文体であった。その範囲において申し訳なかったが、文章も 生きものであることを、ジィちゃんは忘れていた。」(白洲正子著「遊鬼」所収「何者でもない人生 青山二郎」より 新潮文庫平成十年刊)と やんわり批 判している。

骨董を学ぶとは、案外、そんなものかもしれない。教室にいて、マニュアルを覚えるのとは違う。自分の肉体と目を財布を投げ出して、時にはとんでもないニセ モノを掴まされ、泣いたり笑ったり、苛められたりしながら、いつの間にか身についている類のものであろう。

青山が亡くなった時の白洲正子は、熊野奥にいたらしい。寝たきりになって三年、正子は見舞いに行かなかった。そして熊野で訃報を聞いた時には「何故かほっ とした。これは自分でも不思議であり、申しわけないことに思ったが、今でもほっとしていることに変わりはない。」(前掲書「遊鬼」)と正直に記している。

この心境をどのように捉えるべきか。元気な時には、悪態をつき、夜の銀座を連れ回し、正子を鍛えた骨董の師匠青山二郎であったが、心のどこかでは、正子の 中にも、小林秀雄に似た無意識があったのかもしれない。人間は、自分を徹底的に排撃し、自己の眼を唯一絶対のものとして、押しつけてくる圧倒的な存在に対 しては、心のどこかで、機会があえば、そこから解放されたいとの心理がある。悲しいがどこかで「ほっとした」という正子の気持ちは、よく分かる。結局、青 山二郎は、白洲正子の心の眼を開かせる役割を果たした人物ではあったが、実は実体のない幻影(あるいはヌエ)のような人物であったのかもしれない。要は彼 は、小林秀雄や白洲正子の心の眼を開かせるためにこの世に生を受けたのである。

結論である。青山二郎とは、河合隼雄流に言えば、日本文化の一側面を反映した日本文化そのものの「影(シャドウ)」だったと思われる。その意味で「何者で もない人生」という白洲正子の評価は、正鵠を得ていると思われる。最初にその青山の幻影性を見抜いたのは、青山二郎のサロン「青山学院」の第一期生小林秀 雄だった。


4 能の師匠梅若実を通して世阿弥に触れる

大正13年9月1日午前11時58分、突如として大地震が関東地方を襲った。「関東大震災」である。たまたま地震発生時刻が、お昼時だったこともあり、特 に下町では、台所の火が引火し火事となり、火は東京中を焼き尽くし、死者9万9千人、行方不明4万三千人、負傷者10万人を数える大災害となった。

その時、十三歳の白洲正子は、家族と共に富士山の麓の御殿場の別荘にいた。実に運がいい。その日は、たまたま箱根で能の会があり、出かける矢先に、グラグ ラと来たようである。まあ煎じ詰めれば「能」というものが、正子とその一家を救ったということもできる。

東京の特に下町地域が、あれほどの被害に見舞われた原因は、町の構造にも問題があったこ とは明白だ。都市論の立場から言えば、人災という見方もできる。墨田や台東区のような下 町地区は、狭い路地が幾重に迷路のように連なっていて、たちまち延焼し、人も家も火に呑まれてしまう構造になっていた。一旦火が付くと、止めようがない状 況があったのである。地震の揺れも、もちろん怖いのだが、それよりも、二次的に起こる火事がもっともっと怖いものだ。最近でも、平成9年(1997)1月 17日早朝に起こった神戸大地震の後に発生した大火事の映像が、脳裏に残っているが、本当に怖ろしい光景だった。この関東大震災の教訓が、その後の東京の 町造り に生かされたとは言い難い。それは昭和20年(1945)3月10日に起こったアメリカ軍による無差別爆撃「東京大空襲」の時の下町地域の被害の甚大さを 見れば一目瞭然である。大型爆撃機B29により下町に集中的に落とされた爆弾は、東京を焼土と化し、死者の数は、関東大震災や広島、長崎を凌ぐほどで、 10万人を越える人間が命を失ったのであった。

正子は、一ヶ月後、災害に遭った人たちを見舞う気持ちで下町に向かう。その時でも、周辺では死体の焼けた臭いが立ちこめていて「目も当てられぬ有様だっ た」と自伝に記している。

正子が能を学んでいた梅若家の能舞台は、隅田川に架かる浅草廐橋(うまやばし)付近にあったが、これも焼失し、蔵だけが残り、梅若家の人々は、隅田川につ かって難を逃れ、渋谷にある京極家の舞台に避難をして、そこで休むことなく、早速お能の稽古を始めていてのである。正子もこの稽古に参加する。本来なら本 格的な舞台には「女人禁制」のルールというものがあり、正子が舞台に立つことは許されない。そこは大震災の混乱もあったのだろう。能によって、救われた正 子は、震災から一年後の春にあの能楽堂の舞台に立って「土蜘蛛(つちぐも)」を舞ったのである。

正子の感性というものと、父愛輔が出会わせた「能」の思考というものは、切っても切り離せない。能は、能役者が面をつけて舞うことが多い。この面あるいは 西洋風に言えば「仮面」はラテン語の「ペルソナ」とも言われ、その本来の意味は「人」あるいは「人格」となる。ユング心理学では、ペルソナは、重要なキー ワードのひとつである。それはひとつの「元型」(アーキタイプ=人間が本来持っている普遍的な無意識)であり、一人の人間が社会と対峙する時につける仮面 (例えば作られた個性とか肩書きのようなもの)を意味するのである。

白洲正子にとって、「能」そのものが、この「ペルソナ」に当たるものかもしれない。また別の言い方をすれば、発想の源泉という言い方が相応しいかもしれな い。おそらく、正子がモノをやヒトを見る時、能の感覚が最初に直観として働くのである。究極の言葉にすれば、「世阿弥だったら、これをどのように観る か?」ということになる。

正子の師匠であった梅若実(1878−1959)について能のことを聞き書きした「梅若実聞書」(1951「能楽書林」刊)というものがある。その最後の 方で、このような下りがある。

・・・すべての事に盲目とならぬかぎり能の完成は覚束(おぼつか)ない。さぐり、さぐり、触感 一つできめて行く。覚えてゆく。手で物を持たず、指さず、腕でするというのも同じこと。扇は手に握るものではなく、既に肉体の一部である。昔ある名人が能 を舞った後面をはずそうとしたら、ぴったりくっついて取れないで、無理に取ったら肉ごとめりめりはがれたという。」(白洲正子著「お能/老 木の花」所収「梅若実聞書」より 講談社文芸文庫 1993年刊)

「すべての事に盲目になれ」、心で「さぐり」、身体で「さぐり」、心や手で触れた感覚で、イメージを作り、自分の能を完成させてきた、と正子に師匠梅若は 言うのである。盲目とは、無になって習得に励めということである。目で見て、知るのではなく、盲目の人となり、手や足などの身体のすべてを使い、心で感じ て覚えろ、というのである。とかく、私たちは現代人は、すべてのことをテレビという小さな窓から社会を見て物事の善悪や良否などの判断をする。しかしそれ は非常に危険なことだ。何故ならば、テレビメディアは、ひとつの思考を持ち、色を持って運営されているからだ。つまりそこには「盲目性」がない。誰からの 思考という色眼鏡が、既についている。そこで、白洲正子であれば、「世阿弥フィルター」のような感性が、その色を無意識に取り去って、事の本質はこんなこ とだろうと、正確な判断をすることが可能となるのである。

感性ということは、知識とはまったく別次元の領域にある。どんなことかと言えば、知識を持っていても、お利口でない人は沢山いる。確かニーチェの「人間的 なあまりに人間的な」という著作があるが、その中で、「記憶力がいいために哲学者になれない歴史家がいる」という趣旨の箴言(しんげん)があったと記憶す る。いくら知識が豊富でも、哲学的感性がなければ、その歴史の本質を自分なりに解釈することはできないのである。

正子は、わずか4歳の頃から、梅若実について、能を舞っていた。この4歳という年齢が肝心だ。彼女が能を舞うことは、知識から入ったのではなく、「舞」の 稽古は、無(盲目)の行為である。その後、正子にとって、「お能」は、習い事以上の習い事になった。能にすっかり魅了された正子は、十四歳でアメリカに留 学する時に、「お能と別れるのが辛くて、身を引裂かれる思いであった」 と自伝にも記しているほどだ。

この頃、正子にとって、世阿弥の「花伝書」は、愛読書となっていた。世阿弥の「花伝書」
(正 式には風姿花伝という)は、一般の人々の読書に供するために書かれた書物ではない。それ は能芸の神髄(エッセンス)を、後を引き継ぐ者のために、書き記した「秘伝の書」である。しかしこの花伝書であるが、実はそういうものの存在が能楽の宗家 と称する家に伝わっていると考えられていたが、実際に発見されたのは明治16年(1883)になってからである。

今では、この書は、古典と言われるようになり、日本人の考え方や日本文化の神髄を伝える芸術論として、一般にも広く読まれるようになったものである。これ を読みと、至るところに「花」の文字が表れてくる。「花」とは、まさに世阿弥の伝えたい本音を象徴する言葉であり、野に咲く「花」などでは断じてないな い。世阿弥の言う「花」とは、正しい稽古と修練の果てに、舞台において能役者が自ら美しくい花となって咲くその姿をいうのである。

世阿弥は、この花伝書の最後の方の「花伝第七別紙口伝」において、「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」 と言っている。ここからこの花伝書は、「秘すれば花の芸術論」と言うこともできるのである。ただ今私が行っているように、花伝書を説明すれば、誰でも「何 だ、そん なことか」と理解した気持ちに陥りやすい。しかし実際のところ、この花伝書が教えている論理を、自分の感性の領域まで、引き上げて来て、世阿弥の心と一体 になり、世の中一般や芸術を見渡し語ることは極めて難しい。要は頭で考えるようでは、世阿弥のいう「花」は咲かないというか、見えて来ないのである。これ は自戒の念を込めてそういうことだと思うのである。この世ならぬ「真の花」が見えて来るためには、それこそ、梅若実が述べた ように、一切の思いを断ち切り、「盲目」となって、心と身体全体で、触感しなければ、モノの本質は一向に見えて来ない。つまり「花」が咲くことはないので ある。

さて驚くべき事がある。実は正子の師匠である梅若実は、花伝書を手にとって読んだことがなかった。その経緯について、「梅若実聞書」の冒頭部分で、梅若実 は、このように語っている。

いえ、そういうけっこうな書物がある事は聞いておりましたが、未だ拝見したことはございませ ん。芸が出来上がるまで、決して見てはならないと父にかたく止められておりましたので。・・・しかし、(ちょっと考えて)もういいかと思います。が私なぞ が拝見して分かりますでしょうか

この言葉を聞いた瞬間、正子は、自分の無神経に深く恥じ入ったという。花というものは、本来字面で伝えられる類のものではない。それは故観世寿夫の名著の 題ではないが「心より心に伝ふる花」(白水社 1979年刊)なのである。それは正子が習ったように、読みながら覚えるというようなものではなく、それこ そ舞台に立ち、身体を動かし、床に足をすり、見にくい能面の眼孔から、舞台全体を感じながら、覚えていく類のものである。

梅若実は、「わた しなぞが拝見して分かりますでしょうか」 という言葉をポロリと述べたが、それはけっして謙遜などではなく、彼の正直なところであるだろう。しかしすべての世阿弥的なるものは、彼の芸と魂の中に生 きているのであって、それはまた、厳しい稽古によって、次の世代へと引き継がれて行く、ひとつの感性なのである。この時、正子は四十一歳であった。梅若実 に幼い頃より、鍛え抜かれたきた白洲正子であるが、現代の世阿弥のごとき師匠に向かい花伝書をかざして、「花伝書をお読みになりましたが。これこそ本当の芸術論というものでございます」 とやった軽はずみな行為が、たまらなく恥ずかしくなった。しかしこの師匠に対する恥じ入る行為を、この師匠に捧げた著作の冒頭に持ってくる辺り、白洲正子 は、やはりただ 者ではない。きっと幾度も幾度も冷や汗を掻くような経験を重ねながら、正子の感性は、その都度、豊かに豊かに磨かれて行ったのだろう。

つづく

資料写真 白洲次郎・正子邸「武相 荘」の春

紀行文  鶴川・武相荘訪問記
2007.3.6 佐藤弘弥

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