やがて「愚かしい戦争」は終わり、氏は虚脱感が襲ってきて、「もう東洋の姿は、どこにもなかった。」(同書 P34)と感じたのであった。
戦後、今度は強力な民主化が進められることになった。戦前派の人々は、立命館大学でも排除されるような流れができ、戦争協力者でもない氏の敬愛するK教授
が事実をわい曲される形で追放されるなどした。「これが戦後の民主主義であった」(同書 P39)と氏は苦い思いを込めて当時の風潮を回想している。
こうした中で、1954年(昭和29年)、氏は立命館大学文学部教授となり、ますます漢字研究に没頭していくのである。私からみて、いささか言葉は悪い
が、その姿は「漢字の狂いの鬼っこ」の面もちがある。その頃の氏の面相には、何人も、たとえそれが国家であろうと、妖怪変化であろうと寄せ付けぬ強靱な学
者魂というべきか学究への執念のようなものが外に滲み出ている。おそらく氏の研究室における勉学へ没頭する姿を見れば、誰しもが畏れを抱き、モノを言える
ような雰囲気が消え失せてしまうのである。
氏の有名なエピソードに、1968年(昭和43年)の全共闘がバリケードを敷いた中をバリケードを乗り越えて自分の研究室で学究を続けたという話がある。
氏は左翼の学生たちからは、戦前派で保守の固まりとして見なされていた経緯ある。またその頃は、戦後の荒廃した日本人の精神を立て直す試みとして「孔子
伝」を書き上げようとした時期と重なっていた。中国でも文化大革命が起き、孔子という人物は紅衛兵たちから、保守派の親玉のような人物として攻撃されてい
た。しかしながら、そのような世界的な左翼運動の昂揚の折にでも、氏の姿勢は変わらなかった。そして、バリケードを乗り越えながら、連日研究室に通ったと
いうのである。「何人も私の学問研究の機会を奪う権利はない」という強い思いに押され、さすがの学生たちも、手出しができなかったのであろう。
余談になるが、この時期の少し前、立命館大学文学部には、当時気鋭の中国文学研究者で小説家の故高橋和己(1931ー1971)が講師をしていた。在職期
間は、1960年4月(昭和36年)〜1964年12月(昭和39年)の時期だった。
このことについて氏は、やや苦々し気に短く回想している。
「高橋和己君
は、かつて私が吉川幸次郎博士に請うて、私の専攻に迎えた人である。学術にすぐれた才能をもつ人であったが、作家的な自己衝動を抑えきれず、
『邪宗門』執筆中に辞職された。」(同書 P62)
この後、東京に居を構えた高橋は、小説を書く一方、明治大学で教鞭を取るなどした。再び京都に戻り、1967年(昭和42年)高橋和巳は京大助教授となっ
ていたが、翌年(1968)全共闘運動が京大にも拡大すると、これに共感を示し、「わが解体」などを発表。次第に教授会からも孤立した高橋であったが、学
生たちの間ではカリスマ的な存在となっていた。そして翌年には、京大助教授の座を辞職せざるを得なくなる。
高橋は、その著「我が解体」で、立命館大学に職を得た恩師である白川氏を「S教授」として触れている。
「・・・立命館
大学で中国学を研究されるS教授の研究室は、京都大学と紛争の期間をほぼ等しくする立命館大学の紛争の全期間中、全額封鎖の際も、研究室のある建物の一時
的閉鎖の際も、それまでと全く同様、午後一時まで煌々と電気がついていて、地味な研究に励まれ続けていると聞く。団交ののちの疲れにも研究室にもどり、あ
る事件があってS教授が学生に鉄パイプで頭を殴られた翌日も、やはり研究室には夜おそくまで蛍光がともった。内ゲバの予想に、対立する学生たちが深夜の校
庭に陣取るとき、学生たちにはそのたった一つの部屋の窓明かりが気になって仕方ない。その教授はもともと多弁の人ではなく、また学生達の諸党派のどれかに
共感的な人でもない。しかし、その教授が団交の席に出席すれば、一瞬、雰囲気が変わるという。無言の、しかし確かに存在する学問の威厳を学生が感じてしま
うからだ。たった一人の偉丈夫の存在が、その大学の、いや少なくともその学部の抗争の思想的次元を上におしあげるということもありうる。」
(河出文庫 1997年刊 P16)
きっと白川先生のエピソードが、「もの凄い学者が立命館にいるぞ」として、京大の高橋まで聞こえてきたのだろう。白川先生がゲバ学生に殴られたという下り
を読みながら、私の脳裏には、西行法師が老骨にむち打って、焼失した東大寺再建のための勧進に奥州に下ろうとしていた時のエピソードが浮かんできた。それ
は静岡の天竜川の渡しで西行を突然襲ったアクシデントであった。ある日、西行と供の僧がたまたま渡しの舟に乗った。しかし舟が定員オーバーだったようで、
沈みそうになった。西行より先にこの舟に乗っていた武士が、「そこの坊主降りろ。早く降りろ」と、エラい剣幕で西行をしかりつけた。西行は、こんなこと
は、よくあることと、そのままでいると、怒った侍が、ムチで西行の顔面を、しこたま打つと、西行の顔面から夥しい血が噴き出した。供の僧はびっくりした
が、西行はその侍に恨みじみた視線を送ることもなく、平然と舟を降りてしまったというのである。
西行は元北面の武士であり、文武両道の人物である。もしも武士の時であれば、たちまちその無礼な相手を一刀両断に切り捨てていたであろう。しかし西行は、
この一時の不幸な事件を耐えて、相手を撃退することなどしなかった。びっくりしたのは供の僧の方で、「情けない。悲しい。」と、涙を流していると、西行は
その僧を教え諭すように、平然とこう言い放ったのである。
「都を出た時から、こんなこともあろうかと思っていた。それが来ただけだ。たとえ手足をもがれ、一命を落とすとも、武士の頃であったなら別だが、こうして
僧侶となったからには、少しも恨みなどもってはならんのだ。忍の心で相手と向き合えば、仇の心もたちまち消え失せるというものだ。お前も私も菩薩の道を目
指しているのだからな。この位でへこたれていてはいかん。」(西行物語 講談社学術文庫 1981年刊 P114ー115 佐藤弘弥意訳)
奥州に向かい東大寺再建の勧進をするという崇高な目的の前には、一時の感情に任せて高ぶった相手と事を構えるなど愚かなことだ。西行はそのように思って、
武者の無礼を堪え忍んだのである。その天竜川を越えた西行は、現在の静岡県掛川市に当たる小夜の中山において、有名な、「
年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」という歌を詠んでいる。
これは数多い西行の歌の中でも十指に入る絶唱と言われている。年老いた西行が命を削りながら、自らを菩薩と感じつつ一歩一歩山中を越えている姿がひしひし
と伝わってくる。きっと全共闘に学内を占拠されていた当時の白川先生も、理不尽な若者の暴力を浴びながらも、不要な対立を避け、自らの菩薩の道である研究
そのものに専念していたのだろうと想像するのである。
同じ中国文学研究者でありながら、高橋と白川氏の生き様は対照的である。若き研究者は、有り余る才能を持ちながら時代を流離うように悩み揺れ続
けるのに対し、一方壮年の研究者は、時代をじっと見据えながら、敬愛する孔子然として頑としてその場を動かず自己の学問的研鑽に没頭するのである。ふたり
の違いは余りにも鮮明である。
白川氏は、きっと心のどこかで高橋の才能を認めつつ、「そんなに生き急いでどうするの?」と、彼の中に危ういものを感じていたのではなかろうか。しかし
ながら考えてみれば、元々文学とはそうした危うい部分も抱えているからこそ文学なのである、結局1971年、高橋和巳は、生き急いだ三島由紀夫(1925
−1970)の後を追う
ようにして癌によって40歳の若さで亡くなった。
その翌年の1972年 (昭和47年)、白川氏の主著のひとつである「孔子伝」は刊行された。
その中の「第二章 儒の源流 天の思想」の中に次のような下りがある。