大河ドラマ「新選 組」第四話での井伊直弼

-歴史的感性の欠如- 

大河ドラマ「新選組」第四話を見た。一話から、さっぱり良くならない。脚本家の歴史観がみえない。出演している人間の目がギラギラしていない。生きる目標を失いかけている感じで 現代の若者のようだ。維新の時代の若者には、何とかしたいというギラついた熱狂があった。まして、昨日登場したのは、広岡千子治朗(ひろおかねのじろう) だ。彼は時の大老井伊直弼を桜田門外に襲撃した18名の志士の一人だ。当時、21才であったが、画面では随分老けていた。それに殺気がない。とても明朝、 自己の信念に基づいて暗殺事件を起こすようにはみえなかった。あのような事件を起こす時、人間は正気を棚上げして、「狂」の世界に身を浸すものだ。その狂 がない。若い三船敏郎や中村錦之助(萬屋)のような、こいつならホントに人でも喰ってしないそうだという狂がない。

ましてや、遊興にふけり、切り取り(取り立て家)に追われるというシーンであるが、その 生き急ぐ姿に共感が持てない。シナリオの構成がそうなっていない。まったくのリアリティ不足。この取り立て家(新選組三番隊隊長山口一?)も、こんな奴に 金なんか返すかという具合で表情に凄みがない。おそらくこれも創作であろう。第一年齢が合わない。山口は、沖田よりも若いのだから、この時は、一五才か一 六才である。とても、取り立てなどをやる年齢ではない。そもそもこのような創作をやる意図が分からない。

それより何より、一番気になったのは、桜田門外の変のシーンが、妙なモンタージュ的な カットの積み重ねでイメージ的に処理されていたことだ。本来のモンタージュは、迫力を増すものだが、このシーンは小綺麗でリアリティが全くない。夢のよう なシーンで終わっている。少なくても、先に広岡の遊興をシーンに盛り込んだのなら、彼が激しく打ちかけて深手を負うシーンは在ってよい。彼は桜田門から辰 口まで行って、そこで自刃絶命したそうだが、そこで切腹前にこんな辞世を詠んでいる。

「ともすれば月の影のみ恋しくて心は雲になりませりけり」
(佐藤訳:何も分からなくなってしまった。日は昇っているのに、月の光ばかりが恋しいのだ。自 分の心は、月の光を見たさに雲なって、その光を探しているのだよ)

歌から言えば、この歌は、非常に屈折した心情を物語っている。他の一八人の志士たちが勇 ましい「君がためつもる思ひも天つ日にとけてうれしきけさの淡雪」(首謀者のひとりの斉藤監物の辞世の歌)というような、清々しいまでの歌を詠っているの に、彼は、もしかすると、生にというものに対する未練があったと思える。その心の葛藤を描かずして、ドラマツルギーは発生しないと思うがいかがだろう。

もっと残念なのは、井伊直弼の顔すらも出なかったことだ。井伊直弼は、とかく評判の悪い 人物だが、私は、日本が明治維新で、独立を保ちながら、何とかこれたのは、彼の命を賭けた決断があってのことだと評価する。開国を迫られながら、何だかん だと、その返事を引き延ばした日本人の政治的体質は、残念だが今も引き継がれている。(彼について以前こんなことを書いているので参照して欲しい。)

http://www.st.rim.or.jp/~success/naosuke_ye.html

安政の大獄の首謀者という観点から、彼を見るのではなく、彼の苦渋の決断を現代の為政者 たちは、見習う必要がある。彼はけっして、生まれながらのエリートではない。井伊家でも14男坊である。つまり家督の順位でいえば14番目のどうでもよい 男に過ぎなかった。しかしながら本人の資質と努力や様々な運命の変転によって、藩主となり、欧米列強が強行に開国を迫る時期に大老職に就いた。彼は茶人で もあった。茶の湯の哲学が、彼の決断の源泉だったかもしれない。その意味で、この時期の大河ドラマとしては、井伊直弼の生涯も格好の題材ではないかとすら 思う。歴代のNHKの大河についていえば、とかく歴史的人物の再評価に繋がるような冒険はしてこなかった。歴史の事実を積み上げて、真相に迫れば、井伊直 弼という人物が背負った苦悩と責任が垣間見えるはずだ。それこそ現代人の人の決断を教えるドラマとなるであろう。

そんな維新の重要人物が暗殺されるシーンが、夢のシーンのようにさらりと流されては、た だただ首を傾げるばかりだ。

佐藤

 


2004.2.5
 

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