渋沢龍彦の「金色堂異聞」を読む
  

佐藤弘弥

渋沢龍彦(1928ー1987)という作家がいる。鬼才と言われる博学のもの書きだが、彼の著作に「金色堂異聞」と いう短編がある。

このテキストを読みながら、才能というものを考えてみたいと思う。
まず筋立てを簡単に分解してみる。
主人公はおそらく作家自身。昭和五十四年五月の連休が終わった頃に平泉旅行の一人旅に出る。

宿泊先は、厳美渓の旅館。翌朝、観光タクシーに乗って、平泉観光に出る。そこに来た60がらみのタクシー運転 手に不思議な威風を感じる。まずタクシーは、達谷(たっこく)の巌(いわや)にゆき悪路王伝説で有名な西光寺をみる。

その時、運転手が、最北の磨崖仏を見ていると、
「この仏さんは、源頼義が矢じりで刻んだといわれているが、あんな無教養な男にそもそも仏像など彫れるわけがない」 と言う。

そこからタクシーはまっすぐに毛越寺に向かう。そこでも運転手は、私が浄土庭園に立って「いい寺だ。何もない からこそいい」と言っていると、ニヤニヤしながら、
「基衡のやつは、なにがなんでも中尊寺を凌駕しようと躍起になっていたようです」と言った私は一瞬、確信ありげな断 定的口調に腹がたったが、不思議な魅力を感じ始めていた。

次にタクシーは、毛越寺から平泉駅に向かう。町は驚くほど静かで様々な花が咲いている。運転手は、今度は西行 の歌で有名な束稲山を見ながら、
「あの山の桜を植えたのは、吾妻鏡では、安倍頼時ということになっていますが、実は私がすべて植えさせた」と言い放 つ。

私はこの運転手は狂っているな、と思ったが、それも面白いと思って、このまま平泉観光を続ける。運転手は、駅 のトイレに向かう。その後ろ姿を見ながら、漠然と「あなたは清衡さんではありませんか?」と言う。しかし運転手は答えない。運転手はファスナーを上げなが ら、「散位藤原朝臣清衡です」と名乗る。

こうして奇妙なストーリーの全段部分が明らかになる。この短編は、平泉を造った初代藤原清衡を現代に蘇らせ て、案内させるという奇想天外な発想の元に書かれているのだ。この発想こそが、渋沢龍彦の鬼才たる本質である。おそらく、渋沢は、このストーリーを思いつ いたのは、観光タクシーの運転手のエミシ的な風貌を見て、この奇妙な物語を着想したのであろう。

この着想が思いついた後は、ストーリーは自然に進む。渋沢の渋沢たる所以はここにある。才能とは、この通り、 他人とは、異なる発想法をもって、己を表現することである。人のマネをせず、ストーリーを自由に飛翔させることが、才能であるとしたら、自分の発想法を持 つことが、才能開発の一里塚ということになる。
 

この短編の奇抜さについて考えてみる。まあ確かに渋沢の発想は面白い。誰が金色堂の須弥壇の中央に眠っている 清衡が、現代の平泉を案内する観光タクシーの運転手に転生していると考えるだろう。いやこの場合は、転生者ではなく、900歳を越えた清衡ということにな る。東北には、元々人魚の赤い肉を食べて不老不死になり、平泉の滅びた当時をほつほつと語る清悦という怪人物の伝説が残されている。

これは「清悦物語」(1775年頃に成立)というものに出てくる話だが、義経の家来だった常陸坊海尊だった (?)と名乗る清悦という男がいて、高館が陥落して、義経が自害する前に、平泉を脱出した話などを、まるで見てきたように語るというものである。この人物 の語る話が余りにも、リアルなので、新しく奥州の覇者となった伊達政宗も興味をもち、側に呼んで話を聴いたという、少し眉唾臭い話さえある。

人間は、心の中ではウソと思っても、面白い話を聞きたいのだ。清悦という人物に関して、日本の民俗学の父であ る柳田国男は、「東北文学の研究」の中で、確か「清悦」の「悦」の名から、目の不自由な語りの者の話が、北関東から東北に広く分布していることを指摘して いたように思う。要は平家物語も目の不自由な語りのプロによって伝承されてきた傾向があるが、伝説などという考えてみれば荒唐無稽な話も、人の想像力を刺 激する語りのプロの話術によって、長い長い時間をかけて形作られてきたものである。

渋沢の幻想文学もまた、巧みな発想を駆使しながらも、読者の潜在意識にある荒唐無稽な面白い話を聞いてみたい という感性に強く訴えかけてくる。つまり彼の発想の奇抜を、読み手は、欲していることになる。一種の文学的魔法が、渋沢の紡ぎ出す文学にはある。もちろん こんなことは、文学の歴史も上では新しいことでも何でもない。むしろ伝統的な手法である。

でも、藤原清衡と自称する男が、実に平然と、900年の平泉の歴史を淡々と語り出したとしたら、伊達政宗でな くても、騙されてもいいから、じっと耳をそばだてたくなるであろう。実際、そんなことが起こったら、平泉に数々ある謎が、一挙に解けることになり、わくわ くすようなことだ。

例えば、何故平泉のような山峡の昔の関が置かれていた狭い地域に都を造ったのか。
何故金色堂は創建されたのか。
何故いとも簡単に平泉は、鎌倉の軍門に下ってしまったのか。
何故軍事の大天才源義経は、平泉でその才能を見せることなく、自刃してしまったのか。平泉に遺された財宝は、首都滅 亡後、どのようにして散逸してしまったのか…。
など、数え上げたら、それこそきりがない程になる。

中でも、かつて関山と呼ばれ、衣の関が置かれていた山頂に金色堂という小さな御堂を創建したことの謎は、一番 知りたいことである。

作者は、わくわくしながら、「あなたが、清衡公だとしたら、金色堂のミイラ、失礼ご遺体は誰ということになる のですか?」と聞く。
 

名を明かした清衡は、どこまでも自信満々で、焦らすようにこう答える。
「まあお待ちなさい。ゆっくり歩きながらお話ししましょう。・・・あなたは鎌倉のお方だそうだが、私は鎌倉にはなん の遺恨も抱いてはおりませんよ。歴史の必然に逆らうのは愚の骨頂というものです。むしろ平泉に抜きがたいコンプレックスを感じていたのは、頼朝をはじめと する鎌倉武士のめんめんではなかったのですか・・・。まあそんなことはどうでもよいことです。私は、私のもっとも重大な秘密をあなたにお伝えしましょう」

私には、ここに渋沢の歴史観が見える。
「歴史の必然に逆らうのは愚の骨頂」という箇所だ。果たして歴史は必然だろうか。歴史は、多くの可能性の中で、起 こったひとつの結果に過ぎないという考え方もある。その考え方によれば、平泉が滅び、鎌倉が栄えた理由は何か。地政学で言えば、より鎌倉の方が、京都に近 かったということになる。社会構造の面から見れば、依然として古代の律令的支配体制下にあった平泉に対し、関東は武士たちが、自らの荘園をどんどん開拓 し、経済的には既に中世社会への扉を開いていたことが大きかった。軍事的には、前九年後三年の役(1051〜1087)の長い戦乱をくぐり抜けて、奥州の 覇者となった清衡の悲願がなって、平泉は百年に及ぶ平和の時代を享受していたのに対して、鎌倉方は、関東に土着した平氏の血流が、形の上だけは、源氏の頼 朝を旗印に、平清盛一門との戦に明け暮れていた。要は軍事的にも、経験の差、武者としての心の持ちようが、平泉と鎌倉では違っていたのだ。

藤原清衡が敷いた平泉建設構想の動機は何だったのか。清盛が起草させたものとされる「中尊寺落慶供養願文」によれば、それは浄土思想によって奥州全土を巻き込んだ 「前九年の役・後三年の役」によって傷つき疲弊した奥州の大地と民を浄化し、亡くなった者たちの御霊を極楽浄土に送ろうとしたということである。清衡が、 豊田の柵から直線にして二十キロばかり北上川を下った平泉の地に、新たな御所を建設した時期は、ほぼ西暦1100前 後と推定される。この時、清衡は、戦乱に傷ついた奥州を希望の国にすべく、平和都市の建設を思い立ったと思われる。元々平泉一帯は、エミシと呼ばれた奥州 の先住民族と大和から来民族が対峙する境界に位置し、そこには関が設けられていた。中尊寺は「関山中尊寺」と呼ばれるが、そもそもが軍事境界線に建てられ た寺だったのである。清衡は中尊寺を表向きには、鎮護国家を唱い御願寺(天皇や院の発願で建てられた寺の意味)として建設しながら、実は まったくに違うことを考えていた。つまり一見、京都の朝廷に、恭順を尽くす姿勢を保ちながら、実は奥州を朝廷公認の独立国のような地域にしようとした。そ の経済的な背景には、良質な砂金があった。ある面で清衡は、豊富な金の産出によって、急速な経済発展を奥州に全域にもたらし、精神的には平和を旨とする仏 国土の建設を成し遂げようとしたのかもしれない。清衡以降、奥州はゴールドラッシュの真っ直中にあった。そしてヒト・モノ・カネが平泉に向かって集中的に 流入し始めたのである。

そこでこれまで兵士として戦に明け暮れていた男たちは、自らの適正や能力によって、官僚となるもの。僧侶とな るもの。建都の土木作業員となるもの。あるいは職人となるもの。そのような形で、軍事的なエネルギーを平和都市建設のエネルギーとして変換しながら吸収し ていったのである。

こうしてほぼ40年に渡って、軍事的エネルギーとしてばかり放出されていた奥州の人々のエネルギーは、清衡と いう天才的な政治家によって、一挙に平和都市建設にむかったのである。そして平泉は、奥州の人間ばかりではなく、都に住む芸術家や職人など多くの人材を魅 了し、あっという間に引き寄せたのである。金商人として有名な金売吉次の伝説は、平泉のゴールドラッシュが伝説と化したひとつの例に過ぎない。あらゆる階 層の人々が、黄金の国平泉を目指して次々と訪れることになった。

ちなみに統計分析で、当時の人口を推測すると、全体の人口は1千万人位で、京都の人口が、16万で平泉は15 万の人々であふれかえっていたという信じがたい分析もある。(佐貫利雄著「都市盛衰ランキング」)この説は、少し大げさとしても、およそ10万に近い人々 が、平泉という数十年前は、エミシの地、辺境の地と呼ばれたところにどこからか移住してきて、暮らしていたことになる。

そのことを端的に証明するようなエピソードがある。平泉に入った頼朝が、中尊寺の大長寿院(二階大堂と俗称さ れる)の偉容に驚いて、鎌倉に帰った後、その寺を模して永福寺(ようふくじ)を、建設し、奥州合戦で亡くなった人々を弔ったという話だ。明らかに当時の鎌 倉は、平泉に比べると人口も含め文化的にも劣っていたことになる。永福寺ばかりではない。今日の平泉と鎌倉を比べると俄には信じられないが、実は鎌倉とい う中世都市のモデルが、実は奥州の地に忽然と現れた平泉という宗教都市だったのである。
 


しかし歴史というものは、不思議なもので、文化的に劣っていたものが逆に栄えるということがまま起こるものだ。もち ろんそれには軍事力の相対的優位という条件いる。誰でも平和な社会の方が良いに決まっているが、これは歴史の冷厳な事実だ。

平泉の軍事力は、明らかに建都百年の間に、どんどんと低下していった。平泉に住む人間たちは、戦というものに 対して、一種のトラウマがあって、平和の思想に固まっていた。広く世界の歴史に目を向けても、文化が高度に発展した国家であっても軍事力が相対的に乏しい 国家というものは、文化のレベルは低くても、軍事力にまさる国に攻め滅ぼされてしまう例は幾らでもある。奥州平泉に比べ、関東に一円に土着した平氏の豪族 連中は、戦だろうが何だろうが、手段を選ばず自分の一族の領分を拡げるという強い領土意欲に満ちていた。

清衡の後を継いだ二代基衡は、兄弟同士の抗争を経てその地位についた勇猛な武将だったが、父の建都の構想を貫 いて、毛越寺を建設し、平泉を更に都の貴族もうらやむような栄華をほしいままにした。三代秀衡は、政治家として、優れた逸材だった。しかし彼もまた、祖父 以来の平和の楽土建設に躊躇はなかった。ただ彼は、日本が関東武者と関西の平氏の間で、大戦争になっていることを鑑み、いざと言う時には、義経を錦の御旗 にして、三国志の魏・蜀・呉の時代のように「天下三分の計」(蜀の軍師である諸葛孔明の考えた力のない蜀が生き残るための策)天下ということをどこかで構 想していた可能性がある。東北大学の入間田宣夫教授も「藤原秀衡の平泉幕府構想説」を唱えておられるが、秀衡ほどの政治家ならば、当然その位のことは考え るであろう。

ところがこの日本中世の「天下三分の計構想」(京都・鎌倉・平泉)も、秀衡の死と義経の自刃によって潰(つ い)えてしまう。秀衡はおそらく、軍事バランスを考えながら、平家滅亡後の軍事バランスを考えるならば、勢いづく鎌倉を打ち破ることは難しいと思っていた はずだ。そこで、秀衡は、我が子たちと義経を自室に呼んで遺言をする。
「義経公を立てて、鎌倉に備えよ。兄弟は仲良く」秀衡は、みなに起請文を書かせて、固い約束をさせる。ここに秀衡の 深い思慮が伺える。すなわち秀衡は、義経の軍事的天才とその貴種性をもって、平泉の独立を守れと言っていることになる。

そこで陰険な策謀家の頼朝は、死人に口なしとばかりに、四代泰衡とその背後にいる祖父の基成という凡庸な後継 者を硬軟織り交ぜた戦術で籠絡することを実践に移す。度あるごとに、義経の首を差し出せとある時は褒美をちらつかせ、またある時は、高圧的に脅しかける。 そしてついに、頼朝が、自分の京都の公家人脈を駆使し、朝廷の宣旨(せんじ:天皇の命を伝える公文書)を受けるに及んで、びびった泰衡と基成は、ついに文 治5年4月30日(1189)義経を衣川館に襲って、自害に追いやってしまう。こうして完全に軍事的バランスは崩れた。もう奥州には、大政治家秀衡もいな ければ、軍事的天才義経も存在しないのだ。結局、奥州平泉は、丸裸状況となり、信じられないほどあっけなく滅び去ってしまうのである。
 

平泉駅から900歳の清衡は、作者の渋沢龍彦を乗せて、右折すると、伽羅御所に案内をする。この館は、秀衡の 館の跡と言い伝えられてきた。とは言っても今は人家の中に埋もれて、白い立札に黒字で「伽羅御所跡」とあるだけで、往時の栄華を思わせるものは何もない。

次に清衡は、柳の御所に車を着ける。北上川の西岸の段丘状の原野である。ここは藤原三代の政庁の跡と言われて いる場所だ。この北西には一層小高くなった高館山と呼ばれる場所がある。あの源義経終焉の地と呼ばれる館跡である。直ぐ下を大河北上川が雄大に流れてい る。かつてこの清龍の如き大河はもっとずっと東方を流れていたと伝えられている。まさに北上川は、太平洋から海の幸を運ぶ大きな海の道であったのだ。そこ から目を東に移せば、あの西行法師が、「聞きもせじ束稲山の桜花吉野のほかにかかるべしとは」と感嘆した束稲山が巨大な屏風のように聳えている。

次に作者は、清衡に連れられて、無量光院に着く。しかし今、そこには田畑とそこそこに太い数本の松以外には何 もない。この無量光院は、清衡の孫の秀衡によって造られた鶴翼の寺である。そのモデルとなったのは、宇治の平等院鳳凰堂ということになっているが最近の調 査では、鳳凰堂よりもスケール大きな建造物だったことが明らかになっている。よく見れば、田圃の形状は、往時の中島をそっくりそのまま留めている。要は田 圃はそのままこの無量光院を取り巻いていた池だったのである。かつての平泉の住人たちは、建武四年(1337)に野火で焼け落ちた御堂を再建することは叶 わなかったが、いつか再建する日が来ることを夢見て、この浄土の池の形状をそのまま田圃として使用してきたのだろう。見れば、近くで農夫が腿まであるゴム 長を履き耕耘機を使って田圃を耕している。

畦道を辿って中島に足を運べば、人五人分の重さがあるような巨石が、三つ四つと並んでいる。きっとここに朱色 のアーチ型の橋が御堂に向かって延びていたのであろう。ここからは平泉のモニュメントともいうべき金鶏山が見える。この山は、秀衡によって富士山を擬し て、築山された100mにも満たない山だ。山上には、秀衡が平泉の鎮護のために雄雌の金鶏を埋めたとされる。また地元の言い伝えでは、衡漆一万盃に黄金一 万を混へて土中に埋蔵したとも云われている。夏至の時には、この山の頂上に日が沈む。西方浄土を観想するために完璧なまでの配慮が働いていた。ただ残念な のは、この無量光院を掠めるように東北本線が敷設されて北に向かって伸びていることだ。

そこで突然、清衡が、自分の秘密についてこのように明かす。
「シカイということをご存じでしょうか。」
もちろん、作者は分からない。
「蝉が殻を抜け出すように魂が肉体を抜け出すことを、神仙思想では尸解(しかい)と申します」

尸解とは、道教の術で、魂だけが、神仙となって去ることで、肉体は生前と変わらず残ることである。ここで清衡 は、自己の神仙思想により73歳の時に尸解の術を用いて魂が抜け出したことを語るのである。

そして昭和25年の中尊寺金色堂で大々的に行われた学術調査の折りに、清衡の棺から出てきた32グラムの金塊 は、その術の時の名残であったと吐露するのであった。さらにまた金色堂の中に横たわっている遺骸は、実は術によって、舞草刀であるというようなことを云う のである。そして話は奇想天外な方向に進む。

二人は、無量光院を離れ、高館山に向かう。もちろんこの地は、源義経の最期の地と伝えられ、松尾芭蕉が、義経 死後500年の後に「夏草や兵どもが夢の跡」と詠んだ平泉一の景勝地である。おそらく作者は、実際には、この高館には、訪れていないと思われる。行ったこ とのある人間ならば、すぐにわかることだが、汗を切らして登ったとあるが、記しているが、現在の高館は、高さは50mにも満たないものだ。汗を掻いて登る ほどのところではないのだ。おそらく時間か何かの関係で、この高館をショートカットして、中尊寺に向かったのではあるまいか。

それでも、作者は、高館からの景観をこんな風に表現している。
「この丘の上から眺めた景色は、まことに雄大で美しかった。眼下には北上川がゆるく蛇行しながら、北から南へ向かっ て流れている。その向こうには坦々たる水田が拡がり、やがて斜面になって、そのまま地形は束稲山の起伏につながるのである。反対側を見ると栗駒山から焼石 岳にいたる奥羽山脈の山々が、雪をいだいて陽に輝いている。」

この描写にも少し無理がある。高館から栗駒山を見ることは、角度的に云って難しい。

歴史的に云って北上川が、度々洪水を起こしたことによって、高館の姿は大きく変わってしまっているはずだ。お そらくかつての高館山は衣川の近くまであったと推測される。現在は、高館の北側は断崖になっていて、その下を北上川が悠然と流れてゆく。芭蕉が登った頃 (1689)の頃には、もう少し北側にせり出していたであろうが、現在とはそんなに変わるものではなかったようだ。きっと芭蕉は、断崖の斜面から北上川の 岸辺に向かって、夏草が茫々と命をみなぎらせて生い茂っている姿に強い寂寥感を覚えたのであろう。
 
 

ところで清衡が何故、この平泉の地に都を遷したのか。先ほど、3のところで、浄土思想によって疲弊した奥州を 救おうとしたという崇高この上ない建都精神については触れた。もっと清衡の個人的な心情のレベルで、もう一度居住地を移した理由を考えてみよう。

このことについて、諸説はあるが、ひとつの仮説を提示しよう。お そらく清衡が、その地から、平泉に都を遷した理由は、豊田の柵での、辛い戦争体験があったからだと推測される。豊田の柵は、この柳の御所から北上川を遡る こと20数キ ロの上流にある。そこはかつてエミシの血脈を受け継ぐ俘囚長の安倍氏の婿となった実父藤原経清が、居を構えていた館である。かつて後三年の役の時、先妻と 愛児たちを、清衡は敵襲によって焼き殺されている。清衡は、目の前で、自らの妻子を見殺しにした。その悲しい思い出から少しでも遠ざかりたかったのではな いだろうか。

考えてみれば、「豊田の柵」は、あくまで「柵」であるから、砦の発想である。しかし平泉に建てたのは、まず 「中尊寺」を 中心とした宗教施設とその東側に位置する平泉館であって、これは軍事的側面の強い「柵」から宗教施設を含む政治的な意味合いの強い「御所」になっている。 つまり「柵」という単なるベースキャンプのようなものから、「京都」をモデルにした「都」への質的な転換が図られていることは明白である。

ところでかつて安倍氏の政庁やら一族の館は、平泉から北上川の支流のひとつである衣川を隔てた衣川の地にあっ た。清衡が、生まれた のは、まさに前九年後三年の役という長い戦争が始まったばかりの1056年で、物心が付いた時には、彼の前で多くの人間や獣たちが戦のために死んで逝くの をみていたはずだ。900年以上も前に、多感な少年の目には、衣川を隔てて、対峙する父経清たちの安倍軍と源頼義、義家親子の激闘がどのように映ったのだ ろう。

その時、彼は衣川にあって、遠く異境となった平泉を見ていたことになる。おそらくその時、安倍氏の血を引く母 からは、「この奥州の地は、昔は平和で、みんなが仲良く暮らす美しいところだったよ。」と聞いて育ったのではないか。川ひとつ隔てた青くかすむ平泉を見な がら、いつか大きくなったら、この川を越えて、みんなが昔のように平和に暮らす極楽のような地を創りたいと思ったのではなかろうか。

事実、かつての平泉も衣川もみな誰のものでもなかった。みなそこに昔から暮らしていた人々の憩いの土地であっ た。春には川に鮎が上り、秋には鮭が銀鱗を輝かせて泳いでいた。また野山には、山の神の化身としての狼がいて、熊が居て猪がいて、鹿がいて、馬がいて、猿 たちが、誰に媚びることなく、生き生きと命を満喫していた。

しかし愚かな人間は、奥州の野山に黄金が出ると見るや、目の色を変えて、山河の開拓に明け暮れてしまったので ある。京都に都を置く、大和朝廷の末裔たちは、情け容赦なく、この地に踏み込んで来て、柵を次々と北進してきたのである。かつて現在中尊寺のある辺りは衣 の関が置かれていた。その前には福島の白河に関があった。つまり大和朝廷とエミシの国境は、どんどんと北に向かって進んだのである。すると大和の末裔たち は、その国境の周辺に西から東から、屯田兵として農民たちを、移住させてきたのである。

今同じ事が、チベットやパレスチナの地で行われている。チベットでは元々チベット密教に深く帰依するチベット 族が、宗教国家のような国を形成していたが、そこに覇権主義の大国中国が、突然侵入してきて、漢民族を次々と移住させている。そのために、代々チベットの 長となって統治していたダライ・ラマは、今現在もインドに亡命したままの生活を強いられている。パレスチナの地は、2千年に渡って、パレスチナ人が住んで 居る地であったが、1948年、イギリス・アメリカのリーダーシップによって国連がイスラエル建国を決定したために、自分の居住地を奪われる形となった。 これが現在のイスラエルとパレスチナの紛争の原点であるが、イスラエルは、国連が決めた以外のガザ地域などに侵攻してこれを占拠し、そこに世界中から移住 してきたユダヤ人を植民してしまった。こうして元来住んでいたパレスチナ人は、故国を失ってしまったのである。人間とは、何と愚かなのだろう。それにして も同じ過ちを何度繰り返せば、人間は自らの愚かさに気づくのであろう。
 

作者は、流石に、鬼才と云われた作家でだけのことはある。清衡が平泉建都の思いを連綿と綴った中尊寺供養願文 について、その内容の核心部分を紹介しながら、説明を加えている。これこそが、清衡の平泉への熱い思いの神髄である。

中尊寺落慶供養願文の中心思想について、簡単に触れておこう。

かつて、鐘樓(しょうろう)に掛かっていた釣り鐘がにこんなことが彫られてあった。

「この鐘の一音が及ぶ所は、世界のあらゆる所に響き渡り、苦しみを抜き、楽を与え、生きるものすべてのものに あまねく平等に響く。(奥州の地では)官軍の 兵に限らず、エミシの兵によらず、古来より多くの者の命が失われました。それだけではありません。毛を持つ獣、羽ばたく鳥、鱗を持つ魚も数限りなく殺され て来たのです。命あるものたちの御霊は、今あの世に消え去り、骨も朽ち、奥州の土塊となっています。この鐘を打ち鳴らす度に、罪もなく命を奪われしものた ちの御霊を慰め、極楽浄土に導きたいと願うものであります。」 (中尊寺落慶供養願文現代語訳佐藤)

清衡が起草した供養願文の本意は、この鐘にあった。単なる人間中心主義ではなく、ここに並んでいる言葉は、命 あるすべての生き物に対する慈愛の情である。表向きは、朝廷の御代を讃え、鎮護国家を祈るとあるが、実はこの清衡の到達した思想は、ブッダが説く大きな慈 愛であり、平和への祈りである。

また清衡は、願文の最後で、こんなことを語っている。
「縁があって、私は東北のエミシの酋長に連なる家に生まれました。幸いにも白河法皇が統治される戦のない世に生れ逢 い、このように長生きをして平和の時代 の恩恵に浴してきました。(中略)ところが私清衡は、既に「杖郷の齢」(じょうきょうのよわい:60才)を過ぎてしまいました。・・・与えて戴いたご恩に 報いるために、善行を積む以外にはないと思い立ちました。そこで・・・残っている財貨を洗いざらいなげうって、吉と占いに出た土地に、堂塔を建て、純金を 溶かして、佛経経典を書写させ、 経蔵、鐘樓、大門、大垣などを建て、高い所には築山を施し、窪地には池を掘りました。このようにして(平泉の地は)、「龍虎は宜しきに叶う」という「四神 具足の地」となりました。エミシも仏善に帰依することになり、まさに、この地は、諸佛を礼拝する霊場というべきではないでしょうか。(中略)鉄の牢獄から 地獄の世界に至るまで。犬畜生と生まれ、虫けらとなり輪廻の苦しみにあるものさえ、善き報いを受けて、限りない利益と恩恵を得ることでありましょう。 敬 白。」(中尊寺供養願文現代語訳佐藤)

清衡は、平泉を造営するにあたり、この地をまさに戦のなき極楽浄土にしようとした。長い戦乱が続いた奥州の人 々に、つくづく平和というもののありがたさを実感して貰おうとした。その後の奥州は、基衡、秀衡と八〇年に及ぶ平和な時代が花開くのであるが、この間、文 治5年(1189)に、秀衡亡き後に、鎌倉の頼朝が、平泉を滅ぼすまで、基衡の時代に相続争いが若干あった他は、戦らしい戦は、ついぞ存在しなかった。ま た泰衡は、自らも、平泉を戦場にしないためにか、奥州の政治資料のある館に火を放っただけで、平泉の中心街や寺社の堂塔などはそ のままにして、北に逃れたのであった。これはやはり初代清衡の平和都市建設の祈りが、孫子の代までよく語 り継がれていたためであろう。泰衡は、初代清衡の思いを忘れなかったというべきだ。すなわち平和の聖地としての平泉では、戦をしてはいけない。そんな暗黙 の了解が、奥州には連綿としてあったというべきだろう。(つづく)



 



2003.6.27
2003.10.27 Hsato

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