撰集抄

はじめに

昨今、骨寺は、中尊寺一切経蔵領として、二枚の古地図の研究から、その村の景観が明らかになりつつある。そこで、必ず論議に出されるのが、ここに、抄出する「撰集抄」第二巻第六である。その中のに、骨寺村の名の由来と言われる「慈恵大師」にまつわる仏教説話がある。これをデジタル化し、同時に現代語訳してみようと思う。周知のように「撰集抄」は、少し前まで、西行法師の著と信じられてきた。しかしその研究が進み、西行著者説は、否定されている。この箇所を読むにつけ、奥州というものを、京に住む人々が、「むげになさけなき里」(ひどく情愛の薄い里)として、いかに蔑んでみていたかが分かる。内容もかなりいい加減である。中国の故事も、唐の話が、秦の書物に載っているというのだから呆れたものだ。もしも西行という人物が、このようなレベルの僧侶であったならば、中世人の魂の叫びとも言えるような「山家集」のような瑞々しい歌集を詠むことは不可能であったはずだ。撰集抄のこの段を貫く、辺土としての奥州のイメージは、残念ではあるが、大方の京に暮らす知識人たちの平均的な認識であったことだろう。

2003.3.

佐藤弘弥


撰集抄

巻二

第六 奥州平泉郡女人法花経授事 (一四)略本なし

過(す)ぎぬる比(ころ)、陸奥(みちのく)平泉の郡(こほり)、■(てへん+列)(れつ)と云(いふ)里に、しばし住(す)み侍りしとき、そのあたりみ(かみ)侍りしに、さか柴山といふ山あり。木の生(を)ひたる有様(ありさま)、岩(いは)のすがた、水の流(なが)れたる體(てひ)、繪にかくとも筆(ふで)もおよびがたき程(ほど)に見え侍り。

里をはなれ十餘町もや侍りけん。あちこち徘徊(はひくわひ)し侍るに、川ばたに高(たか)さ一丈あまりなる石塔をたてたり。くぎぬきしまはし、草(くさ)はらひなどして、めでたく見え侍りしかば、是はいかなる事にかと尋(たづ)ね侍りしに、ある人の申(まふ)ししは、「中比(なかごろ)、この里に猛将(まうしやう)侍り。其むすめにありける物、法花経をよみたがり侍りけるが、教(をし)ゆべき物なしとて、朝夕(あさゆふ)なき歎(なげ)きてすぎ侍りけるに(と)、あるとき、天井のうへに聲(こえ)ありて云やう、『なんぢ経を求(もと)めて前に置(を)け。我ここにて教(をし)へむ』と聞(きこ)ゆ。あやしく思(おも)ひながら、経をえて前(まへ)に置(を)き侍るに、天井のうへにて、床しき聲(こえ)にて教(をし)へ侍り。八日といふに皆(みな)ならひ果(は)てぬ。そのとき此むすめ『いかなるわざならん』と言(い)へども、あやしくおぼえて、天井を見侍るに、しろくされ、苔(こけ)おひたるかうべに、舌(した)のいきたる人のごとくなるあり。此白骨の教(をし)へ侍るにこそとおもひ驚(をどろ)きて、『こは誰(たれ)にてかましますらん』と、あながちに尋(たづ)ねきこゆるとき、『我は是、昔延暦寺の住僧、慈恵大師のかうべなり。なんぢが心ざしを感(かん)じて、きたりて教(をし)へ侍る。又、いそぎ我をさか柴(しば)山におくれ』と侍ければ、あはれにかたじけなき事、たとふべき物なんなくおぼえて、なくなく此山に納(をさ)めて、かくのごとく塔婆なんどし侍り。此比(ごろ)迄も山中に、貴(たつと)き御経の聲(こえ)する事侍りき。扨(さて)、此女(おんな)は尼(あま)になりて、此山中に庵(いほり)むすびて、おもひすまして侍りしが、この二十餘年のさきに往生して侍るなり。その庵のかたちは今(いま)にあり。見よ。」と申侍りしかば、かの人とともなひ、山の奥(おく)にいりて見るに、口三間(げん)なる屋の、かみさびて、かたばかり残(のこ)りしかば、かきくらさるる心地(ち)して、いまさら物も覚(おぼ)えず侍りき。

かかるさま、げにありがたく侍りき。まづ御経ならふべき人もなき邊土(へんど)の境(さかひ)にうまれたる女(おんな)の身にて、あけくれ御経をよみ奉らまほしく覚(おぼ)えて、寝(ね)てもさめても、此(この)事をのみ歎(なげ)きをれりけん、心の中の貴(たふと)さは、つたなき筆にはつくしがたく侍り。しかればこそ、慈恵大師の白骨の現(あらは)れて、さづけ給(たま)ひけめと、かたじけなく侍り。唐のむかしこそ、まづしき男(をのこ)の経を得(え)よまざるとて、おもひ歎(なげ)き侍りけるに、いづくの物ともなくて、みめよき女(おんな)のきたりて妻(つま)となりて、一部さづけ終(おは)りて、後には観音とあらはれて、失(う)せ給へりきと、秦の『明記』にのせて侍れと思(おも)ひいだされて、くりかへし貴(たふと)く侍り。

又、上代はさる例(ためし)あまた侍れど、世くだりては、げにも覚えぬわざなり。又、さまかへて思(おも)ひすまして侍りけん、ことにうらやま(山)しくも侍り。今(いま)はいづれの浄土にか生(むま)れぬらんと、かへすがへす床(ゆか)しく思(おも)ひやられ侍るぞや。われらがなまじひに家を出でて、衣(ころも)はそめぬれど、はかばかしき信心をもおこさず、み山に思(おも)ひすます事もなくて、年のいたづらにたけぬる、そぞろに悲(かな)しく侍り。

さても、慈恵大師の、遠國の仏法まれなるさか柴(しば)山に跡(あと)をたれて、無佛世界の衆生を度(ど)したまはんとかや。御経の音(おと)のきこゆなるは、是にもなほ(を)おどろかぬ心(こころ)どもにて、殺生闘諍(せつしやうとうじやう)のさかりなる里にて侍る悲(かな)しさよと思(おも)ふにつけても、何として浮(うか)むべき衆生どもと覚(おぼ)えて、そぞろに歎(なげ)かしく侍り。なほ(を)、此女(おんな)の名字(みやうじ)もしらまほしく、その姓(しやう)その流(なが)れも尋(たづ)ねたく、年(とし)月もかんがへたく侍しかども、つまびらかに知(し)りたる人なくて、しるすにおよび侍らず。此所はかやうの事、むげになさけなき里にて、二十餘廻のさきの不思議(ふしぎ)をも、たしかに知(し)らず侍り。あはれその弟(をとと)なんど云人もながらへてもや侍らんと、尋(たづ)ねあはまほしくて侍り。
 

現代語訳

昔、奥州平泉の柳という里に、一時庵を結んだ時、その辺りには、神さまが棲むという逆柴山という山がありました。木の生い茂る様、岩の姿、清水の流れるなど、絵にも描き尽くせないほどの美しい景色でありました。

里の中心から、十余町(1町はおよそ109m)離れ所だったでしょうか、あちこちを尋ね歩いていると、川端に高さが一丈(3.03m)ばかりの石塔が建ててありました。柵を廻らせ、草を刈って、立派に見えたので、「これはどんなことを記念した石碑なのですか?」と尋ねますと、ある人がこのように答えました。

「少しばかり昔に、この里に勇猛な武将が住んで居りまして、その娘が法華経を勉強したいと言い出しましたが、この里には、教えることの出来る者が居りません。そんなことで朝から晩まで嘆いて暮らして居りますと、ある晩の事、天上から声が聞こえて参ります。『これ娘、法華経を持って来て、前に置け。私がここで教えてやろう』怪しいと思いながらも、娘はお経を持って来て、前に置きました。すると天上から、たいそう心が惹きつけられる声で、講義が始まりました。そして八日間で、法華経の講義は全て終わりました。その時に、娘が『どんな仕業なのですか』と聞いたのですが、答がありません。不思議に思って天上に上って見れば、白けて苔が生えているのに、舌だけは生きている人のような感じのされ頭があったのでした。娘は、このされ頭に教わっていたのか、と思って驚いて、『これはいったいどなた様でございますか』と一方的に尋ねますと、『私はな、昔延暦寺で僧をしておった慈恵大師の頭である。お前が、何とか法華経を学びたいという心根に感じ入って、ここに来て教えたのじゃ。では急いで私を逆柴山まで、送ってくれ』と申されますので、何と有り難い事、にわかには信じがたい事と思いながら、涙を流しつつ、逆柴山にこの頭を納めまして、この場所に墓などを建てたということです。最近でも、山の中で、貴いお経を読む声がすることがあります。さて先の娘は、尼となって、この山中に庵を結びまして、心静かに暮らして居りましたが、もう20数年前に亡くなってしまいました。その庵は、今でも形を留めています。ご覧に入れましょう」と、言うので、この人を伴い、山の奥に入って見れば、間口が三間(一間は、約1.8m)ばかりの家屋が、古びてしまいやっと形を留めている様を見るにつけて、私はどうしようもなく心が暗くなる気がして、もう分別の心を無くしておりました。
 

この話は、実に有り難い話です。まずお経を教えるような人もいない田舎に生まれた女性が、寝ても覚めても、お経を習いたいと思い、嘆いて暮らしていたというのですからね。この娘の心の尊さは、とても下手な筆では、伝え記すことができません。そこに、慈恵大師の白骨が現れて、法華経の教えを授けたというのも、有り難いことです。昔、中国の唐の国に貧しい男が、法華経を読んでみたいと思って嘆いていると、何処から来た者であるかは分からないが、美しい女が来てその妻となり、一部始終を授け終わると、後には観音様となって、男の前に現れて、消えてしまったということが、秦の『明記』というものに書いてあることが思い出されて、改めて、この逆柴山の話が、貴く思われたのでした。

大昔には、このような話は、たくさんあったのですが、最近では、実に聞かれぬ話です。こんなことを目の当たりにして心が洗い清められる思いがしました。本当にうらやましい限りです。今はただ、何処の仏の国に生まれようかと、つくづく興味がそそられる心地が致します。私どものような者が、なまじっか出家などをして、法衣を染めて着てはみたものの、目立った信心の心も起こさぬまま、山に隠れて心を澄ます事もなく、歳ばかり取るのは、どうしようもなく悲しいものです。

それにしても、慈恵大師が、遠い国の仏法も満足に伝わっていない逆柴山に、足跡を残して、まさに「無仏の世界」の民に仏法を教えようとしたのです。(私なら)この山に、お経の声の聞こえるという話も、仏を信じない民たちがいて、殺生や戦に明け暮れている里なのですから、「悲しい」と思った所で、どうして教えようかと思って、ただ嘆げくばかりでありましょう。更に、この尼となった女性の名字も知りたくなり、その姓やどんな家の流れを汲む者かを尋ね、どれほど前のことか、年月のことも考えようと思ったのですが、詳しいことを知る人もなく、結局、それ以上書くことができなかったのです。この里の事は、ひどく情愛の薄い里で、20数回に及ぶ、先の不思議な話も、確かな事は知らないでいるのです。ああ何とか、その女性の弟でも、長生きをして居てくれないものかと、尋ね歩いてみたくなりました・・・。(佐藤弘弥訳)
 

原文 岩波文庫(昭和45年1月刊) 西尾光一校注 近衛家陽明文庫から翻刻。


2003.3.24 Hsato

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