「悟れ・青き龍」 

ー村山直儀、青龍を描くー

悟れ・青き龍(部分)
(作 村山直儀 2004年 油彩12号 縦60.6cm x 横50.0cm )

義経の如き青龍怒りもて惰眠貪る日本一喝


 
画家、村山直儀から暑中見舞いが届いた。その中に新作の「青龍」の写真が同封されていた。 
これまで、油絵の青龍なんて、存在したことがあっただろうか。実に珍しい。 

それにしても、何故、村山の新作が「青龍」なのか。その答えは、次の言葉に示されていた。 

「只今、世の中暗い事が多過ぎて、ほんとうに何とかしなければとの祈りを込めて描き上げたものです。我々にとって、『平和と幸せ』ということの大切さを今更の如くひしひしと実感している今日この頃です。」 

同感だ。 

この龍は、今、龍玉(りゅうぎょく)を生み出している。インドの神話に登場する龍は「ナーガ」と呼ばれ、中国に渡り、王権を象徴する聖なる存在と見られるようになった。龍は、自らで龍玉と呼ばれる黄金の玉を生み出すと云われる。玉は、宝珠(ほうじゅ)とも呼ばれ、あらゆる夢を叶える威力を持つ。龍は、四神(しじん)の内の青龍であり、東に位置し、河を象徴する。 

村山の描いた迫真の青き龍は、龍玉を生みながら、イラクの混乱やパレスチナの悲劇を悲しみ、新潟や福井などで相次いで起こる豪雨と洪水に、何らかのメッセージを発しているのかもしれない。 

「愚かしい人間どもよ。わが生み出しし玉を取り、その玉をただただ舐めよ。そして悟れ。自然と和することの深き智慧の豊かなるを・・・」 

これまで人間は、好きなように自然の有り様を変え破壊し、征服できる、と信じてきた。ところが、自然の前で人間は無力である。河に敷設された高い堤防は、湿地帯を一気に住宅地に変えた。自由に青龍の大河が、銀の鱗を光らせながら右に左に泳ぎ回っていた大地は、堅いコンクリートで仕切られて、大河の青龍を檻に閉じこめてしまった。 

日本人は、新潟をコシヒカリ故郷と呼ぶようになった。ところが、青龍からすれば、そこは元々彼らの住処(すみか)だった。コシヒカリを生み出す田園は、青龍に対する感謝の念のないまま、新幹線の線路が敷かれ、巨大な札束が飛び交う乱開発の大地となった。福井はどうか。福井には、その安全性が懸念される原発施設が作られて青龍たちの門を塞いでしまった。 

今や、日本人は、青龍への感謝と信仰を忘れて、利便と開発思想を神の如く崇めるようになった。青龍は怒っているのだ。日本人は、もう一度、自分たちの故郷の大地を見直さねばならない。自然は偉大である。今回の新潟や福井の水の災害は、人災の側面が強い。風水に「吉土」という考え方がある。昔、日本人は、都市を造るにも、家を建てるにも、四つの神にお伺いを立て、方位と風土をしかと判断して実行したものだ。 

ところが今は、猫の額ほどの土地があれば、そこが崖だろうが、「凶土」だろうが、家を建て、お金に換えようとする。浅ましいことだ。 

村山の青龍は、自ら玉を生み出している。この意味は何か。それは自力を持って、自らの目を開き、天へ昇れと告げているのではないか。 

考えて見れば、人間は、生まれ落ちた時、みな青き龍の子である。両親は、「いつしかこの子は、龍の如く、天までも昇ってゆくかもしれない」と思う。それがどうしたわけか、いつか、青き龍たちは、戦後日本の愚直なまでの人間平準化の教育制度の中で、平々凡々たる愚か者に変化してしまうのである。実にもったいのないことだ。そこで、この絵の題は、「悟れ青き龍」ではどうか。と村山に電話をすると、「それはおもしろい」ということになった。 

「悟り」とは、理性ではない。それは直感である。理性も大事だが、昨今の日本人に欠けているのは、直感力である。新しいものを生み出す力は、直感あるいは霊感というものだ。目覚めよ。若き人。青き龍たる若き人。村山の描いた青き龍に現代の日本人が失った想像力の源泉を観る思いがした。 了

 

 


2004.7.20

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