光堂を守る鞘堂の美しさによせて 


鞘堂の脇に立つ芭蕉像


歴史というものは兎角に光と影を持つ。歴史に華々しく名を残す者はほんの一部で、多くは歴史という森の中に埋もれてしまうのが世の常だ。いや人ばかりではない。人が造り出すあらゆる造形物だってこれと同じ運命にある。

今年義経公843年祭で、中尊寺を訪れた時に、つくづくとこの歴史の光りと影について、思い知らされた。中尊寺と言えば、すぐに思い出されるのは金色堂だ。中には藤原三代のミイラが眠っている。歴史などは知らない人間でも、この光堂と言われるこの御堂を知らない人などいないだろう。行ってみれば一目瞭然だが、6m四方に収まるほどの実に小さな御堂である。

この御堂が建てられたのは、天治元年(1124年)というから、いまから877年ほど前になる。時代で言えば、平安時代の末期にあたる。初めこの堂は、雨ざらしの状態であった。周知の通り、金色堂は、御堂全体に金箔が貼られている。これが陸奥の風雨に晒されれば、痛みは当然激しいはずだ。時々修理改善を加えなければ、たちまち朽ち果ててしまいかねない。

そこで正応二年(1289年)鎌倉将軍であった惟康親王(これやすしんのう)のお声掛かりによって、雨露によって剥脱した金箔を貼り直し、その上に「覆堂」を建立したのであった。以来713年、この鞘堂は、金色堂を雨露の侵食から守ってきたのである。現在1288年に建てられた旧鞘堂は、新しい鞘堂に役割を譲り、経蔵の北方に移築されている。その脇には、芭蕉のブロンズ像が、立っていて、実に風情のある景観を形作っている。

金色堂は、もちろん素晴しい歴史的遺産だが、私は長い間、この金色堂を陸奥の厳しい天候の変化から守り抜いてきた鞘堂の何の変哲もない姿にそこはかとない美しさを感じるのである。その脇にある芭蕉さんの像には、目には見えないけれども、芭蕉さんを陰になり日向になり支えた曾良という人物の存在を私は感じるてしまう。鞘堂と曾良そして金色堂と芭蕉。歴史というものは、このような光りと影が彩なすドラマそのものなのであろう。私は、金色堂に参詣した折には、必ず経蔵とこの鞘堂の何気ない佇まいの奥にかいま見える歴史の美に触れて帰ることにしている。

 鞘堂と曾良に捧げる三首

炎天の鞘堂の如蕉翁を守る曾良在りて光堂立つ
己が身を風雨に晒し金色の堂を守りて鞘堂は立つ 
ふと曾良の影を見るかな夏草に埋もれし像を振り向きて見る

 


2001.7.26

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