中尊寺鞘堂を讃ふ 
 


 
役割を終えた鞘堂の春
(2004.4.18)


 


古いものが良いとは必ずしも言えないが、私は中尊寺の古い鞘堂(覆堂とも)が好きである。この鞘堂が建立されてから、今年で716年の歳月が経っている。今は、金色堂を風雨から守るという役割を終えて、経蔵の片隅で、芭蕉さんの銅像に見守られながら、第一線から退いた英雄のように静かな余生を送っている。その佇まいが妙に美しいのだ。

話によれば、ある夜、夫頼朝を亡くして尼となった北条政子の枕辺に、甲冑姿の法師が立ってものを言った。夢か現(うつつ)か、ただならぬ気配を感じて目覚めた政子は、その法師が、奥州の覇者と言われた藤原秀衡の亡霊であると思い、背筋が凍る思いがした。

僧侶や陰陽師が呼ばれ、善後策が練られた。結局、奥州の霊場、金色堂が、荒廃しつつあることを嘆いた秀衡の御霊が、政子の前に現れたものと解釈された。これを受け、急きょ修復の命が下される。光堂を奥州の雨露から守るためには、膨大な財政的負担がいる。ほぼ10年か20年に一度は、金箔の張り替えを繰り返さなければいけない。結局、政子死後、50年ほど過ぎてから、光堂を守るためには、これをすっぽりと覆うことが一番経済的という判断が下された。そして正応元年(1288)、現在の鞘堂が建立されたのである。本来であれば、金色堂は、金箔を張り替えながら、金色に輝く姿で、関山の中央に黄金の蓮のごとく、光り輝いているべきものかもしれない。

苦肉の策とは云え、移築された鞘堂を見ると、何か有り難い気分になってくる。それはおそらく、奥州の厳しい冬を716回も越えて、この地にすっくと立ってきた威厳のようなものがあるからだろう。松尾芭蕉は、「五月雨の降り残してや光堂」とこの鞘堂の健気な役割を讃えた名句を遺している。

 役割を終ゑし鞘堂花春に芭蕉おきなと立ち話かな

 

 


2004.4.20

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