石原発言と都民の無意識

差別心理について



石原慎太郎東京都知事の「三国人」発言が、様々な形で波紋を広げている。もしもこの発言が、日本でなく、アメリカやヨーロッパでなされたら、その政治家は差別意識を持った政治家として、世論に抹殺されかねないほどの重大舌禍事件に発展するだろう。

しかし当の本人は、「私は差別意識を持って使ったわけではない。在日韓国人や在日朝鮮人。中国人の人たちを差しているわけではない。不法に滞在し、犯罪行為をし、麻薬を売ったり、テレホンカードを偽造したりしている人間のことを言っているだけだ。もし私の発言が、差別というなら、”三国人”ということを言語学的に説明して欲しい」とまで言って一向に反省するそぶりを見せていない。

差別の根本は、個人の無意識の領域にあるのが、ある日、ぴょこんと顔をのぞかせるような所にある。つまり自分は、差別と思っていないのだが、それを差別と感じる人がいて、その人達が、もしも不快を感じるような言葉であれば、それはりっぱな差別用語であり、使ってはならない言葉と考えるべきだ。

元々「三国人」という言葉は、戦後GHQが使った「THIRD NATIONALl」(サード・ナショナル)という言葉で、その意味は「当事国以外の第三国に国籍のある人々」と解釈される。しかし一般には、この第三国人という言葉は、戦後日本の中で一人歩きを始め、特に在日朝鮮人や、中国人のことを侮蔑する意味で用いられた経緯がある。

つまり既に、歴史的に言って、侮蔑あるいは差別語としての「三国人」という言葉がどのような意味を込めて使われていた世代の石原都知事が使ったことに今回の問題の根深さがあるのである。しかも石原都知事は、言葉をもって表現することのプロ(小説家)ではないか。小説家であれば、その言葉がどのような歴史を負って使われてきたものなのかを、もう少し厳密に意識して使うべきではないのか。ましてや、様々な国からの人々が、行き交う国際都市東京において、自分が「三国人」という言葉を発したら、どんな反応が返ってくるのか、考える位のことは分かりそうなものだ。

逆の立場で考えてみれば今回の発言の意味が分かりやすい。もしも仮に我々が、ニューヨークに留学か、働きに行っていたと仮定しよう。そこでニューヨーク市長が、「アジアからの人間の大量流入によって、もはや我がニューヨークは、非常に危険な街と化してしまった。もしもかつての大停電のような事件があれば「大規模な騒擾(そうじょう)事件が起きないともかぎらない」と発言したら、どうだろう。

もしこの発言に不快でない日本人がいたとしたら、よっぽど鈍感な人である。確かに現在不法滞在者の問題は、一部で大きな問題ではあるが、犯罪を犯す確率から言えば、凶悪事件も含めて、たいがいは日本人によるものだ。

ただ不思議なのは、今この発言に対して東京都に寄せられているという意見の割合である。4月12日の朝日新聞の記事によれば、都に寄せられた意見の合計は、285件ほど。そこで石原都知事に賛成する意見が175件で58%。反対と答えた意見が、113件で37.4%。その他というのが14件ほどあって、4.6%となっているという。つまり何と、東京都の世論はおおむね都知事発言を容認していることになる。テレビ朝日が、非公式に街頭インタビューを行った結果でも、同じような結果が出ているようだ。その意味では、東京都知事石原の発言は、何も石原個人の差別意識の発露というよりは、東京都民の中にある差別意識を持つ人間達の意見を代表しているものとも考えられるのである。

これは非常に怖いことである。いつの間にか、都民の中に、差別意識というものが巣を作り始めだしたのかもしれない。少し話は飛ぶのだが、ヒトラーは何もユダヤ人に対する差別意識を、自分で作り出して、あの大虐殺を産み出したのではない。ヒトラーは、あの時代のドイツ人の中にあったユダヤ人に対する差別意識を巧みに利用して、権力の座に着き、ユダヤ人を600万人以上も虐殺するという20世紀最大の悪事をなしたのである。つまりヒトラーは、ヒトラー自身の資質だけで、歴史の大悪人となったのではなく、あの当時のドイツの民衆の無意識の上に出来た怪物だったのだ。

差別というものは、一人の指導者によって、そんなに簡単に作られるものではない。それは民衆の無意識に巣くっている差別や侮蔑、あるいは被害妄想などの心理を媒介として、癌のように都市あるいは国家に蔓延していく性質のものなのだ。その意味でも、今後の石原発言には、日本人として、己自身の無意識構造を含めた検証の機会として、見守っていきたいと思う。佐藤
 


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2000.4.14