悪路王伝説の里にある垂れ桜

毛越寺からかつて松山道と言われた道を達谷窟のある西光寺に向かう。距離にすればほぼ5キロ弱の道程になる。桜は、ほとんど散りかけていたが、樹齢が400年を越えると言われる見事な枝垂れ桜が、天上から降る花の滝のように垂れていた。

松山道は、かつて「奥大道」と呼ばれていた古道である。その名の通り、中世の大都市「平泉」への高速道路の役割を担っていた。「すべての道はローマに通ず」というフランスの詩人ラ・フォンテーヌの言葉があるが、この松山道の古道の解明は、古代から中世へにかけての奥州の歴史を解く鍵になると思われる。

この道を通り、古くは坂上田村麻呂も義経も西行も奥州にやってきた。義経自害後には、奥州を滅ぼした頼朝もこの道を通り帰って行った。西光寺は、坂上田村麻呂の創建と言われ、あの悪路王伝説が残る古刹である。悪路王について、最近では、田村麻呂との攻防と「アクロ」と「アテルイ」の音から、これを阿弖流為伝説と同一視する見方がほぼ定説化しているが、私は地勢的な位置関係などからこの悪路王伝説は、伊治君呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の事件が伝説化したものとひそかに考えている。

「伊治」(これはり)は、「栗原」(くりはら)と言われ、現在の栗駒町尾松に栗原という小字の「栗原」(地元ではくりばらと濁音で発音)地域がある。「アザマロ」は、この周辺のエミシの族長であったが、大和朝廷に服従し官位を授かっていた人物であった。日頃から、エミシ出身のために侮蔑的な待遇や言葉を腹に据えかねていたアザマロは、ある日、反乱を起こし、多賀城まで南進して、これを焼き討ちにした。不意をつかれた大和軍は、這這(ほうほう)の体で都へ逃げ帰ったのである。悪路王伝説では、都の姫をさらったり、駿河国の清見まで攻め込むなどの話があるが、これはアザマロの反乱の誇張と考えられる。そこで登場するのが、坂上田村麻呂という大和朝廷側の英雄である。

おそらく、この達谷窟付近に追い詰められたアザマロと大和軍が、最後の戦いをしたか、あるいは停戦の合意があって、自らの首を差し出し斬首された場所がこの達谷窟周辺であるかもしれない。この道を南下し、栗駒町に入り、三迫川を渡ると小高い丘に鳥矢崎古墳群があるが、これはアザマロ一族の墓所と伝えられている。

毘沙門堂に入ると、岩窟に張り付いたようにして建てられている御堂の中に足を踏み入れた瞬間、霊気のようなものに包まれて背筋が凍る思いがする。底知れぬ闇に迷い込んでしまったような気分だ。反乱者アザマロの怨念が封じ込められているのだろうか。この毘沙門堂は、二度、火災に遭い、一度は、4百年前に、伊達政宗によって再建され、現在の御堂は、昭和20年に再び火災に遭い、昭和36年に再建されたものだ。平泉が滅んで四百数十年の後、奇しくも奥州の覇者となった伊達正宗は、どんな思いで、この寺を再興したのであろうか。達谷窟の垂れ桜には、悪路王となったエミシの族長アザマロを弔うという正宗の思いが込められているのかもしれない。確かにいつ見ても、奥州人の誇りと威厳のようなものを感じる見事な枝振りの桜である。

佐藤

 


2004.4.26

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