吉野山西行庵の晩秋
(2004年11月20日 佐藤弘弥撮影)
あしひきの吉野の山に分け
入れば西行庵をまず訪ねたき
芭蕉でなくても、西行法師のように、日本中を旅し、人のためになることをなし、それでもけっして恩着せがましいこ
とは言わず、人生を静かに終えたいと思う者は多い。しかし大概の人間は、本物の旅人となることはできずに一生を終えてしまう。原因は人間は、僅かな生涯の
間に、余りに大きな荷を背負ってしまうために、自由に旅立つことができないためだ。
立ち止まり、荷を下ろし、背中にあるものを、よく見てみる。本当に必要な荷であるかどうか。すると背中には、案外二度と読まれることのない三文小説や若気
の至りで感化された思想書などがいっぱいあることに気付く。西行は、ある時、意を決して、その荷を置いた人物だ。それから彼は、吉野山の奥に庵を結び、山
を越えて高野山に住み、高野山で落雷にて根本大塔が焼失したと聞いては再建のため時の権力者平清盛と交渉をし、源平の戦で奈良の大仏殿が燃えたと言って
は、大仏再興のために老いた己の健康も顧みず、若かりし頃に旅した奥州平泉に向かったりもした。西行の人生は、仏道と歌道に精進し、旅また旅の生涯だっ
た。
晩秋の日を浴びながら、吉野奥千本にある西行庵前に立っていると、西行法師の吐息が聞こえてきそうだ。赤々と燃えるような紅葉が西行庵のそこかしこに降
り、旅に明け暮れて旅に死んだ西行の秋の歌にこのようなものがある。
山里に家ゐをせずは見ましやは紅深き秋の梢を
(解釈:山里に家を持たなかったならば、けっして見ることはできないであろう。このように紅葉が赤く染まる秋の梢
など。)
花も枯れ紅葉も散らぬ山里は寂しさを又訪
(と)ふ人もがな
(解釈:花も枯れ、紅葉も散って山里は寂しい風情となった。しかしこの寂しさをよいと言って訪ねてくれる人がいて
欲しいものだ。)
もう直、吉野山の奥には初雪が降り、それから雪は解けることなく、春三月までこの西行庵は、雪に閉ざされることになる。肌を刺すような寒風が庵を通り抜けるが、夜ともなれば、さえ渡るよ
うな月が梢の影から顔を出し、冬の星座が庵の上空を瞬きながら巡るのだ。
中千本から金峰山寺蔵王堂方向を
望む
(2004年11月20日 佐藤弘弥撮影)
欲に毒された人間社会は、西行の時代も今も変わりはない。西行にとって高野山の大塔の再建を約束させた時の権力者平清盛は浅からぬ因縁を持っていた。諸行
無常の人生を辿った平氏の棟梁平清盛は、西行と同じく若かりしむかし「北面の武士」として院のお側に仕え出世を競う間柄だった。しかしながら西行は、エ
リートとしての約束された地位を捨て一介の聖となって旅に一生を捧げたのである。西行と清盛というふたりの人生の大いなる違いのなかに、人生というものの
面白さも怖さも凝縮しているのかもしれない。
松尾芭蕉は、そのふたりから五百年後の日本に生まれた人物である。芭蕉は、西行と同じく、若くして武士としての道を捨て、俳諧の道を選び、旅の人生に憧
れ、西行の歩いた道を志したのであった。その芭蕉に、
「この道や行く人なしに秋の暮れ」(1694年旧暦9月26
日)という句がある。
これは最晩年の芭蕉の胸の内を吐露した心象風景である。細く長く続く道が背後から遙か彼方に続いて伸びている。しかしながらその道に歩く者はなく、人の声
すら聞こえない。何という孤独だろう。この句から数日、芭蕉は病床において、