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西行が平泉にいる風景

 

9 西行平泉を去る

瞬く間に時は過ぎる。いつの間にか北国の平泉にも春の気配が感じられるようになってきた。西行は、いよいよ明日に平泉を離れるというまさにその日、お供の者も付けずに一人北上の大河の畔に足を運んだ。水は満々と有り余る自然の力を誇示して流れ続ける。大河の中程には、雁がその流れに身を任せて、涼しげに泳いでいる。白鳥達は、忙しげに盛んに羽を広げて水面を滑空している。もはや渡り鳥も北への旅立ちを間近に感じて備えに余念がないようだ。西行は、容赦なく流れる時を心のどこかで恨みつつ、あっと言う間に過ぎ去っていった6ケ月を静かに振り返っていた・・・。

仏教徒としてあるまじき姿ではあるが、彼はあえて自分の心が平泉の都と秀衡に愛着していることを止観しようとはしなかった。
”自分は、弱い人間で仏のようにはいかぬ。凡夫である己の心をあるがままに見つめて行くことこそ大事だ”
西行はそのように我に言い聞かせながら、一方ではその時が来なければいいのに…と、まるで幼子のように考えている自分を滑稽に思った。

西行は、まず束稲山を背にして、義経のいる高館をしみじみと眺めた。

今、義経は、頼朝軍を迎え撃ち計画を着々と実行に移していると聞いているが、実際の所、巷で義経の行動を知っている者はいない。もちろん秀衡は知っているのであろうが、鎌倉の冠者があちこちにいることを考えれば、それは当然のことであった。西行は、義経に対する一種の羨望とも嫉妬とも説明の付かないような感情を呼び覚まして、義経の顔を思い浮かべてていた。

そしてこのような設問を己に向けて発していた。

”いったいあの類い希な才を持った人物は、この平泉を何をもたらすのか。それは幸か、それとも不幸か…。もしもあの人物が、その持ち前の才を振るって、鎌倉軍をうち破ったとする。さすれば御白河院は真っ先に奥州平泉政権を承認するに違いない。そうすれば奥州平泉の力は並ぶべきもないものとなり、京の都を越える楽土が、本当にこの奥州の地に実現するかもしれない。…でもそんなことがあるだろうか。平家との戦を経験し、百戦錬磨の鎌倉軍に、ひとりあの義経の軍略の才に頼らざるを得ないこの奥州平泉に、勝ち目というものはあるのだろうか。時代、時代の神…。それはいったい誰を勝者として向かい入れようとしているのか・・・。”

西行は次に加羅御所と呼ばれる秀衡の館に目を転じた。

西行は、最近とみに秀衡の表情に生命力の衰えを感じることが多くなった。もちろん秀衡という男は、他人に自分の弱みを見せることを最も恥とする生来の政治家である。しかし西行の目には、秀衡の日増しに衰えていくその生命力が確かに見えていたのだった。
一度そのことを冗談に紛れ込ませて聞いたことがある。

「秀衡殿、貴殿は確か私より若いはずだが、どうにも老いた馬のようで、一向にいななきませんな」

それに対して、秀衡は、
「何をそんな馬鹿なことを、いななきはしませんが、ほらこの通り、すこぶる元気ですぞ」
と、歳に比すれば太すぎる二の腕に力瘤を作って周囲を煙に巻くのであった。

西行は秀衡の表情を思い浮かべながら、その横顔に死の影のようなものを感じた。

”もしもこの秀衡が、いまこの平泉から姿を消したとしたら、この平泉はどうなってしまうのか…”

それは西行にとって、禁断の想像であった。

”もしもそんなことがあればあの頼朝は、ここぞとばかりに奥州に政治的揺さぶりをかけてくるに違いない。いや奥州の混乱に乗して、いきなり白河の関を越えて来ない、とも限らない。その時あの新しく御館となるはずの泰衡はどのように動くのか。おそらく武略を嫌う基成が、その絶大な影響力を行使して、政治的な決着をしようと試みるかもしれない。その時、義経の才はこの奥州において宙に浮いてしまうことになるのでは…。”

西行の自問は次第に自らを絶望の淵に追いやる契機になってしまった。明らかに彼の脳裏の中では、友人の秀衡と奥州の都平泉の運命に対する不安が漠然と渦巻き始めていた。

更に西行は、基成の館に目転じた。基成の館は、義経の館の左方、つまり奥州平泉の御所である柳の御所と義経の館に挟まれた所に位置している。西行は、慇懃な基成の表情を思い出しながら、”世の中にはどのようにしても好きになれない人間もいるものだな…”としみじみ思っていた。

今となっては、西行にとり、基成は、単なる好き嫌いの対象ではなかった。その存在は、明確なる不安そのものであり、不吉な影のような存在にまでなっていた。しかもその影は日増しに成長し膨らみ奥州全体を覆い尽くし程の大きさにも感じられてくる。

西行はその思いを、うち消そうと頭を垂れて、神仏に念じてみた。心はざわめくばかり、新雪が水となり、大河を下っていく波音が西行の中で増幅し、少しばかり目を開いてみれば、大河の流れの中に、平泉が逆さに映って揺らめいている。やがてその揺らめきの中に、秀衡が現れ、次に基成の横顔が浮かび上がってくるのを感じた。明らかに幻影なのだが、西行はその中に、奥州平泉の将来を握っている人物が、何故か影の薄くなる秀衡と得体の知れぬ基成であることにある種の危うさを痛感せざるを得なかった。

実は西行は二日ほど前に、平泉の界隈を歩いていて、偶然にも町を行く男達の次のような会話を耳にしたのだった。

「どうも御館と基成様は、話が合わないようだな」

「どうもそうらしいのだ。聞いた話では、基成様が”一日も早い泰衡様への御館禅譲を”と、秀衡様に迫ったらしいな」

「いやそれどころではないぞ、基成様に至っては、一向に御館の座を泰衡様に譲ろうとしないことに業を煮やして、秀衡様を調伏しているという噂までたっておる」

「おいおい、めったなことを言ってはならぬ。そんなことがあっては、この平泉の百年の平安が吹き飛んで内乱が起きるやもしれんではないか」

「いや、俺もそこまでは思ってないが、確かに噂は飛んでおるのだ。もしかしたらこの平泉に潜り込んでおる鎌倉の間者の流した噂かもしれぬな」

「そうだとも。この平泉で親子喧嘩が起これば、それで利する人物と言えば、鎌倉殿以外にはないからな。いかに基成様が孫の泰衡様を御館につけたいとしても、そこまでするはずがないではないか」

二人の武士の会話の中の「秀衡様を調伏している」という言葉が西行の耳にこびり付いて離れなかった。

基成という人物は、確かに蝦夷の血を引く秀衡を、甚だしく見下げていることはその言辞や表情からも明らかだった。西行はこの「調伏」の噂を自分なりに考えてみて、それは十二分にあり得ることとの結論を得るに至った。その最大の根拠は、基成の政治的野望だった。現在基成の背後には、二人の人物の影が蠢(うごめ)いている。まずひとりは天下一の大天狗の後白河法王。もう一人はその法王のことを大天狗と呼んだ源頼朝であった。基成の野望は、京都の後白河と鎌倉の頼朝と巧みに政治的駆け引きをしながら、平安京に勝る政治都市に平泉を仕立て上げることだった。基成にはこの奥州平泉の栄華を造ったのは、自分と秀衡の父である基衡なのだ”という強烈な自負があった。また秀衡が嘉応2年(1170年)に鎮守府将軍になり、さらに養和元年(1181年)にの陸奥守になったのも、自分の政治工作の賜物と信じて疑わなかった。

しかし秀衡自身は基成の傀儡(くぐつ)に堕落するような小さな男ではなかった。自分の明確な価値基準と方針を持っており、普段は基成に従順を装いいながら、決して自分の考えを曲げることはなかった。

つい最近の話で言えば、義経の奥州入りである。基成は、頼朝の陰謀によって、反逆者となった義経の奥州入りには、あくまで異を唱えた。しかし秀衡は、一度武士が決めたことは、簡単には曲げられない。それに直に頼朝はこの奥州に攻め込んでくるはず、その時一番頼りとすべきは義経の武の才と、まったく基成を相手にしなかった。それからというもの、基成は心に深く秀衡を恨んで、恩知らずと罵り、秀衡を御館の座から引きずり下ろして、孫の泰衡を新たな御館にしようと躍起となっていたのである。そして基成は己の政治力こそが、この奥州を生かすと端から信じて疑わなかった。「この奥州には二つの宝がある。それはこの基成の政治力と豊富な財力だ」が基成の口癖だった。それを分からぬ秀衡という御館はもはや彼にとって、邪魔者以外の何者でもなかったかもしれない。そのようなことを綜合し、西行はこの「秀衡調伏の噂」をあり得ることと、考えるようになっていた。

西行は、平泉を離れるにあたり、この噂を秀衡自身の耳に入れるか、それとも入れないかで、大いに悩んでいた。
川面を見つめながら、しばらく考え続けた末に、西行は静かに歩き始めた。

西行は、”もう二度とこの大河の辺に戻っては来れぬのだ”と、思いつつ、人の世の無常を、痛切に感じた。
足は自然に決意の方角に向けて進みかけており、もはやそれを静止させることは不可能だった。
何とか、この奥州が内から崩壊するような道だけは、避けなければ…、そんな思いが西行の胸の中で渦巻いていた。

既に日は西に傾き、金鶏山はあたかも仏の白毫(びゃくごう)のように光り輝いている。金色の夕日が、平泉全体を黄金色に染めていく。西行は落日の平泉を、神仏の啓示を受けた聖人の如く歩いていった。空を見上げれば、白鳥とおぼしき細長い影が、北の方角に向かって行くのが見えた。西行は、様々なことを思いながら、一里(当時の1里は、現在の600m位の距離)ばかり歩き通した。

そしてやがて大きな門前で、立ち止まった。
その館の主は、あの藤原基成である。
西行は大声で言った

「基成殿、基成殿はご在宅ですかな。西行でございます」

少しして臣下の男が現れ、西行であることを確かめると、賑々しく挨拶をして、奥へと招き入れるのであった。

西行が通された部屋は、奥座敷の10丈ほどの小さな書斎であった。
奥には、阿弥陀様の軸が掛けてあり、黒漆の机の上には、漢籍やら万葉の時代の書物が無造作に積んである。その一番上には、座右の書であろうか、「韓非子」が置いてあった。しばらくして火鉢が運ばれてきた。

小半時(一時間程)程、待たされた挙げ句、基成が悠然と入ってきた。その時、西行は時を紛らわすように、韓非子を手にとって、何気なく開いた項のある下りの意味を考えたりしていた。

「いや、いやお待たせしまうした。西行殿」

相変わらず、基成は都の政治家らしく含んだような笑みを浮かべながら言った。
おそらくこの半時の間を置いたのも、自分が優位に立って、話を進めるための戦略のようなものだ。
西行はそんな基成の性格を読んだ上で、

「いやいや、こちらこそ、お忙しいところを突然お邪魔立てして、誠に済みませぬ。何しろ明日この平泉を発つこととなりましたので、どうしても基成殿にご挨拶をと思いましてな」

「おお、そうですか。明日ですか。それはお寂しい。西行殿のような都人がいてくださるだけで、私自身、何かと心強く思っておりましたのに、誠に残念ですぞ」

「いや、実は今だから申しますが、私がこの奥州に私が参ったのは、表向き東大寺の沙金勧進ということでしたが、この奥州の行く末を見守りたいとの、個人的な思いを込めた旅でございました。こうして6ヶ月の長き滞在に及んでしまいましたが、今や鎌倉の頼朝殿は、この国を関東の武者の手によって、牛耳ろうとの思いますます強くなるばかりのご様子。この奥州にとっては、実に由々しきことなれども、無力な私には、何ら奥州の力に成れないのが、ただただ申し訳なく心残りでございます」

「有難きお言葉かな。まあ色々な考えがありましょうが、私は力に力で対抗するという発想には組みするつもりはありません。大事なことは、相手の裏をかくこと、相手が武力ならこちらは、知力で戦うまで。また相手が若さなら、こちらは老かいさを武器と致します。そうでしょう。西行殿」

「仰せについてはごもっとも…」

と、西行が言いかけて基成が、畳みかけてきた。本当は西行は、この後に、”されど今回の頼朝の戦略には、注意を払う必要がある。どんなことをしても、奥州を関東の傘下に治めて、天下を我がものにしようとの腹を忘れてはなりませんぬ”と言うつもりだった。基成は、弁論術に長けていて、誰も賛成するような一般論を話し、相手の同意を誘っておいて、その上に持論を展開するのが巧かった。

「そうでござろう。ところが秀衡殿と来たら、今や危険な若武者に尻尾を振っておる。前にも言った通り、あの男は危険じゃ。この平泉を攻める口実を鎌倉に与えたも同然。私が初めから反対したのに、自分が御館であることを良いことに、強引にも義経殿をこの奥州に入れてしまい…この基成の深い読みが今となっては台無しになってしまったのよ…」

「でも、基成殿、秀衡殿と仲違いはいけませんぞ」

「仲違いではない。駆け引きを知らぬ人とは、組めぬのよ。それだけじゃ」
基成は、そのように吐き捨てるように本音を言うと、口をへの地にして苦々しく笑った。

「基成殿、世間では御貴殿と秀衡殿が、”もはや犬猿の仲となって、一色触発だ”と悪い噂をする者もおるようじゃ。このことが鎌倉に入ったらますます事態は深刻になりますぞ。少なくとも、身内は同士がひとつにならなくては、今の板東武者の勢いというものを抑えることは出来ませんぞ」

西行は曲がってしまった基成の気持ちをまっすぐにしようと必死で訴えた。何とか奥州の二人の指導者が同じ方向を向いて欲しかったのだ。実の所、西行は”貴殿が秀衡を調伏しているとの噂がたっておりますぞ”とずばりと、町での噂の真実を聞いてみたい衝動に駆られたが、それを堪えに堪えて、えん曲な言い回しを選んだ。西行は言った。

「だからこそ、私は言うのじゃ。力に力では、勢いがある方が有利。いかに義経殿の戦の才を持ってしても、今の板東武者の勢いを止めることはできないとみます」

そこに、ふいに一人の男が現れた。

「これは、これは西行殿。よくぞお越しくだされた。先ほど、爺様の使いがあり、こちらにご挨拶に見えられたとのことで、駆けつけましてございます」
「おう、泰衡か、よい所に来た。今丁度良き話をしておった所じゃ。そなたも近う参れ」

基成は、百人の味方を得たりとばかりに、一層声高になってこう続けた。

「大体がじゃ、あの義経が来たことで、すっかりと秀衡殿は、変わってしまわれた。軍事の才は、あの源氏歴代の諸将の中でも際立っていることは認めよう。しかしじゃ、国の政治(まつりごと)というものは、軍師があまり表に出過ぎると、その将来には、暗雲が漂うようになる。遠く中国の秦の始皇帝の時代を見られよ。あのように広大な領土を維持せんとして、万里の長城なる柵を延々と築いた軍事国家秦国の末路というものを。あの柵は、軍師が進言によって、異国の敵の侵入を防ぐという名目で、築かれたものだ。その距離は、筑紫国から蝦夷国までの道程を往復しても余るほどだと言う。しかしこの万里の長城も、秦という国家の崩壊の折りは何の役割も果たさなかった。西行殿。博識の貴殿の事だからもうお分かりだろうが、軍事に重きを置きすぎる国家というものは、返って、そのことによって、滅ぶものなのじゃ。ひるがえって、義経殿が、この平泉に戻ってからのこの奥州をしみじみと考えて見ますると、信夫や国見辺りはいざ知らず、栗原のあちこちに館や柵を廻らせて莫大な資金と労力を費やしておる。これはすべて秀衡殿の策であるが、私は反対だ。あの御仁は、『絶対に鎌倉殿は、攻めてくる』と言って私の意見を聞こうとしない。その為には、義経殿の戦の才が必要と言う訳じゃ。そうではない。そんなことをするから危ないのだ。私が言いたいのは、鎌倉殿が、この奥州に攻めてくる口実を取り払い、都の朝廷の威光を持って、この豊かな奥州の国土を維持することだけじゃ。そうではなかろうか。西行殿。秦のように奥州がならない保証がどこにあろうか?」

西行は、しばしの間、腕組みをしながら、どのように答えるか、考えていた。もちろん彼の中では、答えは決まっていた。結論から言えば、「頼朝という人間は、どんなことがあっても、必ずこの奥州に攻め入ってくる。それだけの意志を持った人間だ」と言いたいのだ。ところが余りに理詰めの歴史理論を展開する基成の思考を一挙に変えさせるだけの強烈な言葉を探していたのである。

基成は、西行をじっと見つめている。明らかにじれていた。すると基成は、孫である泰衡の方を見て次のように言った。

「泰衡、そなたは私の意見をどう思う?」

「それは、おじいさまの仰せの通りであると思います。少し父君は、義経殿のことを買い被りなさっておられるように見受けられる。確かにあのお方は、平家を討ち滅ぼした功労者です。しかし私も知っておりますが、余り激情家で居られて、少々危ないお方です。何でもかんでも、『勝つためには先制攻撃。敵に後を見せるな。徹底的に打ちのせ』としか言わない。まあ奥州に来たときから、そうだったが、平家をうち負かしたことで、ますますその信念が強くなって、政治(まつりごと)に携わる人間を馬鹿にする傾向がある。あのような人物を担いで、この大国奥州が、維持で来ましょうか。せっかく京に匹敵する美しき都を建設したのですから、それを維持するためにも、おじいさまの仰せの通り、朝廷の威光を持って、粛々と政治を執り行うべきだと思いまするが」

「さすがは、我が孫じゃ。よく国家の政治というものを分かっておる。西行殿危険なのじゃ。あの義経殿が、この奥州に来てからというもの、奥州の権力に禍が舞い込んできたようにさえ、私には思えるのじゃよ」

西行は意を決して次のように言った。

「基衡殿。それは少し考えすぎではあるまいか。何故なら、義経殿がいようといまいと、この黄金の都平泉は、鎌倉の頼朝殿にとっては、欲しくて欲しくてならぬ領土なのじゃよ。考えても見なさい。板東の武者が、先を争って、平家追討の陣に馳せ参じたのは、何のためであったかろうか。功名であろうか。いやそうではありませんぞ。彼らが、命を賭けても欲しかったものは褒美としての領土であったはずじゃ。武者とは、そうしたものよ。ところがじゃ。どんどんと褒美を与えてすぎたために、領土がなくなってしもうた。だからこそこの奥州の領土も、当然攻め入らねばならないことに必ずなる。それが武者の世の宿命というものかもしれぬ。私は日本中、様々な土地を尋ね歩きました。もはや、この国から美しい秩序も情けも消え去ろうとしているのです。京の都を天子様が、今日は西に、昨日は東にと逃げ回る様を何度も目にしました。これは情けないことです。基成殿、そんな事が何のために起こっているとお思いですか。世の中は、もはや我々が、源氏物語などで読むような美しい雅なものではなくなっているのです。武士達は先を争い、己の私欲と私服を肥やすことのためには命を賭けるが、己が信義のために命を賭ける人は居なくなってしまった。しかしどうですか、あの源義経殿というお方は、信義のためならいつでも命を捨てると公言して憚らない御仁だ。確かに危険な臭いのする人物だか、この際はあの方の戦の才にすがらねば、この美しき奥州は、傍若無人な板東の武者達によって、踏みつぶされてしまうかもしれませんぞ」

それから堂々廻りの言い争いが続いた。結局双方が折れないままに、西行は席を立つこととなった。

西行はその別れ際に、
「基成殿、世の中はすっかり変わってしまったものです。貴殿も私も、もう古の人かも知れませんな。私はもうすぐここを立ちまして、都に戻りますが、わが命の一滴が尽きるまで、美しきものが残っている奥州の安寧と平和を祈って居りまするぞ」と言った。

「西行殿、貴殿を私は分からない。正直貴殿の心が私には、さっぱり分からない。いったい貴殿は、歌人なのか?それとも僧侶なのか?」

「・・・」

「また貴殿は敵なのか、それとも味方なのか。貴殿が何を言おうと、私は己が考える政治(まつりごと)の道を貫きますぞ」

「・・・御身大切に」西行は、短くそう言い終わると、空しい論争を振りはらうように、呼吸を整え、基成邸を後にした。

外に出ると、すっかり陽は沈み、西の空は夕映えていた。

西行は、ふたたび、北上川の畔で足を止め、薄暗い川面をしみじみと眺めた。
そこにはすっかり老いて、老人の面差しをした佐藤義清という人間がゆらゆらと陽炎のごとく存在していた。西行は、しばらく己のゆらめく姿を凝視した。すると心のうちに様々な感慨が湧いて来ては、消えた。

”さて、私の人生とは、いったい何だったのだろう。親の意のままに妻帯し、子をなし、辛い恋に身を焦がして、すべてを捨てて、出家をした。生涯のすべてを御仏に捧げ尽くそうと決意をし、各地を渡り、流離い、その旅の果てに、己の心に深く残るものと言えば・・・ただ人生は、ままならない、という一言に尽きる。それは単なる「空」とか、「無常」という御仏の教えから得た感慨ではなく、「変移」という中に微かに存在する「花」というものかもしれぬ”

西行がそのように思った「花」とは、目に見える花のことではない。西行が見ようとしているのは、その花の奥にある花の真というか、本質のようなものであり、本来人の目には見えないものである。本来それは見るものではなく、感じるものだからである。桜の花でたとえれば、花咲く時期は、ほんのつかの間に過ぎない。しかし桜の木というものは、常に良き花を咲かせ、己の子孫を残すことに心をくだいているのである。だから桜は、夏の暑さに耐え、秋風に耐え、冬の雪の重みにも耐えながら、じっとその時を待ち得るのである。すなわち桜のい花の美しさとは、懸命に生きようとすることの美しさの反映なのである。

西行は、視線をゆっくりと転じて、桜の園「束稲山」に移した。奈良の吉野にも優る桜の木々が繁茂するその山では、桜たちは、固い蕾を日々膨らませているに違いない。もう一度、束稲山の桜の花を見たいという気がないと言えば、嘘になる。しかし西行は、あえて心の中にある束稲山によって、十分だと、己に言い聞かせた。そして神の山である束稲山に手を合わせようとすると、山の上方に十三夜の月が懸かっていた。丁度西行が合わせた手の上に、満ちる寸前の白い月が出ていたので。花を愛し月を愛した西行にとって、その情景は天からの褒美のように思えた。心の中で、西行は神仏に祈りながら、天に向かって、思わず「有難きかな、有難きかな」と感謝の言葉を発した。

こうして二度目の西行の奥州の旅は終わった。西行は、こよなく愛した者たち、そしてもうじき咲くはずの束稲山の桜の開花を目前にして平泉を後にしたのである。おそらくその理由は、西行自身平泉という雄々しく咲いている桜の花が散る姿を見たくなかったに違いない。
 


* * ** * * * * * *

西行がこの地を去った半年後文治三年十月二十九日(1187)、生涯の友である藤原秀衡は、六十八才で薨去した。秀衡は、死に当たって、「義経公を中心にして、平泉がひとつになり、鎌倉の源頼朝の攻撃に備えよ」との内容の遺言状をしたためたが、その死後秀衡の遺言は守られなかった。その後、平泉は基成と孫の泰衡に握られ、頼朝の度重なる脅迫まがいの「義経の首を渡せ」という圧力に屈してしまった。その結果として、秀衡という強力な庇護者を失った源義経は、とうとう、文治五年閏四月三十日、泰衡らの郎党五百名に取り囲まれ、衣川の館に自刃して果てた。

しかしながら、頼朝の腹黒い策謀は、止まるところを知らなかった。義経の首を取って。僅か半年にも満たない文治五年九月三日(1189)、頼朝の鎌倉軍に敗れた奥州の総大将藤原泰衡は、自らの館に火を放ち、北に逃亡しようとした。しかし泰衡は、味方の武将の裏切りにあい、遭えない最後を遂げ、平泉政権は、ここに滅びてしまったのである。基成はもっと悲惨であった。戦の心得などないこの貴族は、鎌倉軍の侵攻にあっても平泉にいて、囚われの身となって鎌倉に送られた。吾妻鏡によれば「さしたる勇士でもないので沙汰には及ばず」と小馬鹿にされ、鎌倉に連行されたまま、その後の行方は分かっていない。
 

西行は、平泉の悲劇の運命について、どのような感慨を持って、その報を聞いたのであろう・・・。悲しい知らせを聞いた西行は河内の国の弘川寺にて、文治六年二月十六日(1190)年、自分で詠んだ、歌の如く(「願わくば花の下にて春死なむその如月の望月の頃」)、亡くなったのである。

 佐藤
 


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