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西行が平泉にいる風景

 

6 義経見参

奥州平泉の冬は長い。駒形嶽(栗駒山)から吹き下ろす風は、年老いた西行の肌を刺すように渡っていく。西行は、束稲山の下に小さな庵を結ぼうとしたが、「歳を考えて」と、秀衡にたしなめられ、秀衡の離れに、宿をとっていた。

年は明け、早一ヶ月が過ぎた2月のある日のことである。西行は、冬の夜空にいたく興を感じて、一片の歌を詠んだ。

  ”花と見る 梢の雪に月さえて たとへむ方も なき心地する
 (解釈:冬の夜空に月が昇った。松の梢の降り積もった雪が、まるで花が咲いたように見える。何と美しい。喩えようもないほどだ)

突然、秀衡の小姓が西行の元に飛び込んで来た。

「西行様、御館(みたち)がお呼びです。すぐ宅の方に来てくれと」

「ほう、何かあったのかなあ」

「私には皆目検討がつきません」

何か、大事件でも起きたのか。もしかしたら、鎌倉の頼朝に何か動きがあったのかもしれぬ。はたまた頼朝が、最近都で噂になっているように、頼朝によって、英雄から一転して、お尋ね者となってしまった義経を、奥州の秀衡がかくまっているという事を根拠として、「奥州を追討せよ」との院宣(朝廷からの命令)でも頼朝に発しられでもしたのか。最近の西行は、どうも悪いことばかりを考えてしまう自分に少々嫌気がさしているところがある。
「まずは、行ってみよう」

西行を見るなり秀衡は、「はやく、こっちに」といって、手招きをした。

「何かありましたのか?」

「いや、うれしいことがござった。西行殿はやはり福の神だ」

西行は、ひとまず安心した。どうやら悪い知らせではないらしい。

「義経殿がついにやって来られた。たった今し方、栗原寺に入ったという知らせが届いたのよ」

「義経殿が来られた。それは目出度い。よくぞ、鎌倉方の追っ手から逃れて、この奥州に入られたものだ。さすがにあの殿は、並のお方ではない。どんな武運を持っておられるのか、検討もつかないところがある」

「西行殿は、初めてか。京でお会いしたことはなかったか」

「いや初めてです。京での義経殿の評判は再三聞いておりました。京の町衆に乱暴狼藉を働いた木曽義仲の軍をことごとく平らげ、平家もまた滅ぼし、京に平安をもたらした功績は、すべて義経殿の手腕によると」

「この秀衡も、あのお若い義経殿があれほどの手柄を立てられるとは、予想だにしていませんでした。私としては、鎌倉勢と、事を構えた時に、旗印として立って頂こうとの考えがあって、奥州にお呼びしたまでのことだったが、この秀衡の手に余る才が、あのお方にはあるようだ。誰もあの人物の器を分かってはおらぬかもしれない。まったく不思議なお方よ」

「そこのところを見抜いておるのは、秀衡様以外には、実の兄である頼朝殿かもしれませぬな。でもともかく秀衡殿、これで鎌倉勢も迂闊(うかつ)に奥州には攻め込めなくなったことは確かじゃ」

「それはそうじゃ。あの義経殿の戦の才は、長い日本の歴史の中でも、おそらく一番であろう」

「それで、今夜平泉に参られるのか」

西行は、義経という人物に異常なほどの興味が沸いた。一瞬にして日本の勢力図を塗り替えてしまうような天賦の才を持った人間とは、どんな面立ちをして、どんな声を発するのか、背丈はどのくらいか。歌は詠えるのか。どんな話し方をするのか。神の化身のような人物の現実の姿が早く見たいものだ。

「いやそれが、今夜は、栗原寺に泊まられて、明日の昼に平泉に入る予定となっておる。西行殿も是非お迎えなされ。当代一の歌詠みと当代一の出会い。この秀衡にとっては、それも大いなる楽しみのひとつ。平泉にとっても名誉なことじゃ」
そう言いながら、秀衡はつるつるに剃った頭を撫でて、笑った。

西行は、中天からやや西の空に傾き掛けた月の光を頼りに宿に戻った。戻るとすぐに心が沸き立つような思いがして、このような恋の歌を詠んでいた。

  ”ともすれば 月澄む空にあくがるる 心のはてを 知るよしもがな
  (解釈:月の顔を見ることは、忌むべきことではあるけれども、折があれば、澄んだ冬空に上っている月(義経のこと)をしみじみと見てみたいものだ。その心の果てに何があるのかは、分からないのだが…)

西行は、まるで乙女に恋した少年のような気分で微睡(まどろ)みながら一夜を明かした。朝方、西行は夢を見た。真っ白な雪の中を、遠くの彼方から疾風のように駈けてくる武者がいる。黒々とした馬に跨り、朱色の甲冑に身を包んだ武者は、まさしく義経殿。西行は夢の中でそう直感した。いったいどこへ行くつもりなのか。どんどん雪を蹴る蹄の音が近づいてくる。西行の鼓動は否応なく高まった。止まってくれ。留まってくれ。そう心の中で念じた西行だったが、その武者は、西行を一目見るなり、目で軽く会釈をすると、黒駒に一鞭をくれて、彼方に駆け抜けて行ってしまった。

「義経殿行ってはならぬ。」

遙か彼方の山河に消えていかんとする夢の中の武者に西行は、自分でも分からぬ言葉を発して目が覚めた。血液が逆流しているように感じ、冬だというのに、体中から汗がにじみ出していた。

西行は、外に出て風に当たると、有明の月が金鶏山をかすめて沈もうとしていた。

  ”世をそむく こころばかりは 有明の つきせぬ闇は 君にはるけむ

(解釈:まだ空には有明の月が懸かっている。長い夜はいつになったら明けるのか。貴方は本当に世間にそむく心を持って、あの有明の月のように尽きせぬ闇の中にいるのか。そのような姿は貴方には相応しくない。)

西行の口から、そんな歌が漏れて、義経との出会いの朝は、とうとうやって来た。
西行が、身繕いを整えて、御所に駆けつけると、御所の前には、既に義経を迎える支度が整っていた。御所から奥州道に連なる道は掃き清められ、今や遅しと義経一行の到着を待っていた。沿道には奥州の武者達が千騎ばかり左右に分かれて整列をしている。その奥である大門の前では、御館藤原秀衡が、どっかと腰を下ろしている。その脇には、秀衡の跡取りの泰衡が、落ち着かないそぶりで目線をそちこちと動かしていた。またその脇には長老である藤原基成がいる。

西行は基成と、会った瞬間からどうも好きになれないような気がしていた。都育ちを鼻にかけたようなところがあり、その貴族的な雰囲気もどうも鼻につくのだった。一方基成の方も、西行を異様なほど意識しているらしく、「北面の武士でありながら、世を捨ておって、挙げ句に歌など歌いおって鼻持ちならん」と、孫である泰衡に洩らしていた。

西行は、頑固そうな白眉毛の基成と目線を会わせると、形ばかりの会釈を交わして、秀衡に向かって手を上げた。そこにはいつになく地味な服装をした秀衡がいた。いつもの秀衡なら、客を迎えるとなれば、銀に金糸の刺繍の派手な衣を身につけているところだが、義経に対しては、臣下の礼を尽くしたのか、藍染めの僧衣に赤糸で織った袈裟を身に纏っていた。

秀衡は、西行を見つけると、

「いや、西行殿、こっちへ」と言って、息子の泰衡をどかして自らの隣に座らせようとした。

「いやいや、ここで結構」と西行は、端の方に座ろうとした。

「何を、西行殿こちらへ」泰衡は、素直に横にずれようとしたが、基衡は露骨に嫌な顔をして、大きな咳払いをくれて、義理の息子である秀衡を睨んだ。

秀衡は、笑いながら、
「これは、これは、舅殿、申し訳ないが、西行殿と義経殿は、面識があるのでな、すみませぬな」と言った。

西行は、「面識がある」という秀衡の方便を聞きながら、さすがに秀衡殿の人あしらいのうまさに感服した。
そんなことをしているうちに、義経を出迎える為の太鼓が鳴り始めた。
次第に太鼓の音は激しくなり、やがてその音が、地鳴りのような蹄の音にかき消されてしまった。
奥州路を横にそれて数百騎の馬がこちらに向かって、ゆっくりと走って来るのが見えた。粉雪は騎馬たちの勢いに大空に舞い上がり、銀の粉となって輝いた。

思わず方々でため息のようなものが漏れた。沿道にいた女達が、一目も憚らず、「義経様」という歓声を上げた。やがてその一団は、正装の武者達が作る人垣を割って大門に悠然と入ってきた。先頭には秀衡の長男武勇で名高い藤原国衡がいた。その後ろには、泰衡と同じ母を持つ三男忠衡が務める。忠衡の妻は、あの秀衡が一族、信夫の庄司佐藤基治が息子佐藤継信、忠信兄弟の妹である。
その後ろを、武蔵坊弁慶以下、もはや伝説の英雄と成りつつある一騎当千の強者達。その十名余の義経主従のまわりには、栗原寺の荒法師姿の僧達が、一世一代の名誉とばかりに胸を張って、脇を固めている。

国衡は、馬から下りると、その大きな体を、もどかしそうにくねらせて、御館秀衡の前に進み出た。そして片膝を付き、声を上擦らせながら言った。

「御館、ただ今、源九郎判官義経殿をお連れいたしました。この国衡、名誉にも源九郎判官義経殿を、栗原の庄栗原寺より、お連れ申せとの、ご命令を頂き、今ここに、その大役を無事務めることが出来ました。九郎判官殿より、昨夜様々なお話を受けたまわり、この国衡涙を止めることが出来ませんでした。御館のお言葉をお伝えしたところ、九郎判官殿もお喜びになり、今日のこの良き日と成りましてございます」

すると秀衡は、喜びを抑え切れぬような風情でこのように恭しく口上を述べた。

「これは、これは、源九郎判官義経殿。今やその武名は、日本国中に轟き、並ぶ者とて、見あたらぬ有様、にも関わらず、遠路遙々この奥州平泉の地まで、よくぞこの藤原秀衡をお忘れなく、参られました。心から厚く御礼申しまする。思えば、治承四年九月御殿は、兄君源頼朝公の平家追討のお心に賛同なされ、この平泉の地をお出になってから、早七年の歳月が経っておりまする。ここにおります者みな、九郎判官殿を主としてお迎えすべく、一日千秋の思いでお待ち申しておりました。もはやこの平泉の地、奥州は御殿の地であり、我々一同九郎殿下につき従う者、どうかそのもつもりで、幾久しく、ごゆるりとなさってくださいますよう」そして、深々と頭を下げた。

その言葉を聞くと、烏帽子を冠した源義経は、馬上から、さっと身を翻して、雪の大地に舞い降りた。すぐに金地螺鈿(らでん)の太刀を、白い房を靡かせながら抜くと、周囲から再びため息が漏れて、人々は白銀の地に金糸で桜をあしらったその衣に釘付けとなった。その衣と太刀は秀衡が、もしも義経公が、再び平泉の大地に来られる時には是非とも着ていただこうと、特別に仕立てさせていたものだけに、義経の都慣れした立ち居振る舞いと相まって、得も言われぬ雅な時空を形成した。義経は、臣下の礼を取る秀衡にうながされて、奥に設えてある座に着いた。

義経は、静かに落ち着いた声で語った。
「このようにご丁寧なるお出迎え、誠にもって、かたじけなく思いまする。皆さまご存じのように、この九郎義経は、反逆者の汚名を着せられた父義朝とは、幼少の頃に死ぬ別れ、十六でこの平泉の地に来て、初めて父と申すべき秀衡殿に巡り会い、青臭い男であったこの九郎を時には叱り励まして頂き、はたまた鎌倉の兄君の御出陣にうながされて奥州を立つ時には、佐藤継信、忠信他御一族の屈強の者どもを家来として、つけて頂き、数々の困難を凌ぎながら、今日弓馬の道に適う者との最高の褒め言葉までそちこちより頂戴し、武士として男として、誰も未だに知らぬはずの戦の術を思いもかけず毘沙門の神より夢の中にて授かって、今日ここまで生きながらえて参ったのです。申し訳なくも、忠義と勇気の士、継信と忠信は、私の身代わりとなり、見事な最後を遂げられた。本日ここには、彼らの家族の者がおるとのこと。この九郎申し訳なく思っておりまする…」

義経は、この言葉を言い終わると、はらはらと涙を流し、言葉につまって、立ち往生をした。

人々は涙を拭いながら、義経の一挙手一投足を逃すまいと目を見張った。丁度この場所に、継信と忠信の妹である忠衡の妻、楓が二人の兄を思いだしたのか、一目も憚らずにそばの女御に抱きかかえられるほど大泣きに泣いた。

西行は、この時、この中にこそ義経の真の姿があるのだと感じた。色の白い義経の瓜実顔が、涙で赤らんで、まるで桜の花びらのように見えた。この人は、何て優しい心を持っておられるのか。しかし一旦戦となった時には、どんな非情なことも厭わない武勇の鬼。この相克の見事さに、西行は神の奇跡をみて、背筋が寒くなった。

 ”なべてみな 君がなさけを とふ数に 思ひなされぬ ことのはもがな
  (解釈:おしなべてみな、あなた様の苦労と嘆きを、心の中で数えていることでございましょう。私も又、あなた様の口からまったく予想だにしない過去を語る言葉をまだまだお聞きしたいものです)

義経は、自分で心を立て直して、再び話し始めた。
「再びこうして奥州の地に身を置いたからには、秀衡殿と一族の為、また数多の奥州人の静かな生活の為に、この命も捧げる覚悟。おそらく兄頼朝は、この地奥州を、郎党どもに分け与える褒美として考えているに違いござらぬ。猪の如き鎌倉武者を焚きつけて、この奥州に攻め入って来ることは火を見るより明らか。そうなれば、この九郎義経を、皆さまにこの命を捧げ尽くし、その先頭で戦いましょう」

この下りに来た時、あの白眉毛の基成が、露骨に嫌な顔をしたのを西行は見逃さなかった。基成は、平泉の地に、義経を火種の元の到来のように感じ始めたのかもしれない。傍にいる孫の泰衡を肩肘で押し、なにやら耳打ちをした。

基成が義経の到着を快く思わない理由の第一は、もちろん戦の危険の増大である。基成は平泉の栄華を造り上げたのは、自分の政治的手腕によるものだと強烈な自負がある。自分の人脈があったればこその秀衡ではないか。平泉の平和ではないか。という思いがある…。そこに飛び込んで来たのが、戦の化身のような義経である。

「これでは鎌倉の頼朝に平泉攻撃の口実を与えてしまうことになる」そう言って、溺愛の孫である泰衡にこの数日間、何度となく、義経の平泉入りに懸念を表明していた。
そこの所に持ってきて、昨日は秀衡が、基衡の住む「衣川館」(衣の館)に恭しく参上してこのように言った。

「これは舅殿、今日はご相談があって参りました」

「何かな?」基衡は怪訝な表情で、秀衡の顔を覗いた。

「いや、実は本日早朝、あの九郎義経殿が、無事に栗原寺に到着されたという知らせが入り申した」
秀衡は基衡の目線を笑顔でかわしながら言った。

「何、九郎義経殿が、参られたと…」基衡は白眉毛を忙しく動かしながら言った。

「そこでなのですが、舅殿。高館を、義経殿の住まいとして考えたのですがいかがでしょうか」

「何じゃと、秀衡殿」

「高館を、義経殿の館にと申しました…」

衣の館は、平泉の柳の御所の西方にあって壮麗な造りの館であった。その見事さは、秀衡の住まいである伽羅御所をも遙かに凌ぐものである。秀衡の側近達からは、「何故、御館が、伽羅で基成殿が、衣の館でござるか、納得が行きませぬ」と言われている。その度に秀衡は「まあ良いではないか。あのお方は、あそこがたいそう気に入っているのじゃ」と至って気にしている様子は見られなかった。事実、大らかで気取りのない秀衡にとって、誰がどこに住むなどは問題ではなかった。一方気むずかしく気位の高い基成にとって、衣の館にいることは、平泉を実質的に支配していることの象徴として極めて大事な事であった。衣の館のもっとも小高い所に造られているのが高館であり、その時基成は、御所のすぐ傍の東の館に住んでいて、当然高館は使用していなかったはずなのに、義経が住まわせる、と聞いた瞬間に一遍に臍(へそ)を曲げてしまった。

「他にも場所はあろうに、何故高館なのじゃ」

「やはり源家の御曹司。格式は重んじなければなりませぬのでな」

「秀衡殿、はっきり申そう。そもそも私(みども)は、義経殿を受け入れることには反対なのじゃ。何故そのことがそなたには分からぬかのう。頼朝に口実を与えることになるではないか。そうではござらぬか」

「舅殿のお気持ちは、もちろん分かって、おりまする。でもあの腹黒い頼朝のこと、どうあってもこの奥州に攻め入ってくることは必至。あの九郎殿の戦の才が必要なのでござる。この奥州を守るために…」

「私はそうは思わぬ。これまでも私がやってきたではないか。院が何を考えているかを考え、その院の口上を持って、鎌倉を封ずることはできる。これが戦わずして勝つ、という兵法の奥義ではないか」

「もはや、非戦論は現実的ではありません。舅殿。あの後白河院は、自らの孫であられる幼い安徳天皇をも、見殺しにするほどの非情のお方。何の縁もない、この平泉に逆賊汚名を着せることなど平気であられましょう。あの清盛殿の失敗に学ばなければなりませぬぞ。舅殿」

「そなたには政治の駆け引きというものが分かっておらぬ。もはや分別も付く歳であろうに、そのように青臭いことを言っておられるとは、この平泉も先が思いやられるわ」

「舅殿には、悪いようにはいたしませぬ。分かってくだされ。ここは御館として、お願い申し上げまする」

秀衡は、両手をつき、深々と頭を下げて、しばらく顔を上げようとしなかった。その間、基成はじりじりしながら、秀衡が頭をもたげるのを待った。しかし一向に秀衡は姿勢を戻そうとはしなかった。そこで我慢仕切れなくなった基成が、

「秀衡殿、そなたが御館。好きなようになさるがよい。だけど私の考えは変わらぬ。義経殿は、平泉にとっては災いの神だ。そこの所を秀衡殿、忘すられるなよ」基成は、そんな捨て台詞を吐いて、その場をさっと立ち去っていった。
 

義経は、奥州の人々の拍手と歓声の中にいた。
西行はその表情の端々に、武将としての義経の並々ならぬ決意を感じとっていた。

秀衡は、懐より目録を取り出し、読み始めた。

「源九郎判官義経殿に申し上げます。一つ今日よりその御所として、衣川の館の中の高舘月見御殿をご使用いただく事、お願い申し上げます」

その時、群衆の中より、驚きともどよめきともつかぬ歓声が上がった。高舘月見御殿に住むことはたとえ象徴的な意味と入っても、奥州の最高の玉座につくことを意味した。思えば源家は後三年前九年の役の頼義、義家以来、奥州の玉座に就くことを宿望のようにしてきた。その宿望がこの若き義経によって、実現の運びとなったのだ。もちろん秀衡には、秀衡の深い考えというものがあった。こと戦にかけては、歴史の中でも並ぶ者とてないほどの天才ではあるが、情にもろく信義に厚く、政治的な野心というものはほとんどない。そんな与し易い人物が、財政豊かな奥州にいてくれさえすれば、それだけでたとえ勢いに乗っている鎌倉とて、容易に攻め込むことは不可能である。秀衡にとって唯一の心配は、忍び寄ってくる自らの老いだけであった。

「一つ、直轄領として、桃生郡、牡鹿郡、志太郡、玉造郡、遠田郡、を献上申し上げます」

奥州でもこの領地は特に豊かな土地であり、奥州を総括するものとの意味を込めた拝領であった。しかしこの案には前日、普段はおとなしいはずの泰衡が猛烈に反対していた。

「御館それでは、我々兄弟の領地というものが、ほとんどなくなるではありませぬか。それでは兄弟の不満は抑えられませぬ」
しかし父は断固としていった。「何を言うか泰衡、おまえ達には、それ以外の奥州のすべての土地を分け与えておる。たった五郡ほどで不満など漏らす出ない。義経殿は、奥州とおまえ達を助けてくださる神のようなお方なのだぞ」心弱い泰衡は、父の眼光にたちまち降参をし、祖父基成の元にで不満をまくし立てたのだった・・・。

秀衡は続けた。
「一つ、義経殿の御臣下の方々にも、胆沢郡、江刺郡を献上申し上げる」

この時、お供をしていた武蔵坊弁慶以下の臣下達は、余りの突然の出来事にただただ驚き顔を見合わせて、秀衡という人物の、器の大きさに感心するばかりであった。その他に、秀衡は義経に対して、傍にいる侍を150人、女御、下女、召使いなど50名。名馬百頭。その他にも鎧兜、弓矢などを惜しみなく与えた。
 

(続く)佐藤
 


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1999.12.01 Hsato