義経伝説ホームページへ

目次へ

西行が平泉にいる風景

 
5 秀衡との再会

やがて西行は、いよいよ、平泉に近づいた。秀衡は、自ら馬に乗って、平泉から六里(二〇キロ)ほどの距離にある栗原郡の栗原寺まで西行を迎えに出ていた。

「やっと、会えましたな。西行殿。よくぞ、そのお歳で、この奥州まで参られた」

「何をお歳などと、秀衡殿と大した変わらぬ歳ではないか」

二人は高笑いを浮かべながら大いに旧交を温めた。

「さあ、この馬で」秀衡が、西行に馬を用意していた。

「かたじけない」西行は、さっと馬上の人となると、二人を先頭に百騎もの兵士が、蹄の音もけたたましく、一路平泉へと駈けていった。

こうして西行が、奥州に着いたのは、文治二年の十月十二日であった。つまり鎌倉を八月十六日に出立してから五十八日目に当たる。おや、と思う人があるかもしれない。何処かで見たような数字…。そうである。これは若い頃、友の秀衡を頼りに奥州に初めて入ったあの日と同じではないか。実はこれは私の新説である。

私はその時の歌を、最初に接した時、以下のように解釈した。

  ”とりわけて 心もしみて さえぞわたる 衣河みに きたるけふしも
(解釈:言うべき言葉も見あたらない。衣川にきた。とりわけて心に沁みてくる。この寒さは。何と心が冴え冴えとしてくるのだろう。まさに今日私は、衣川にまたきてしまったのだ。この老いらくの身で、)と。

私には、この歌が、二度目にきた時に、衣川に懐かしさを込めて詠んだ歌にしか、どうしても思えなかったのである。もちろんこれは私の直感である。この歌には、長い詞書が添えられており、それほどに西行がそれほどの思いを込めて詠った歌と解釈すべきではなかろうか。また若い西行では、「とりわけて」というような変則的な入り方はできなかったはずだ。

西行は馬上から、大声で秀衡に叫んだ。

「秀衡殿、まず衣河に行きたい」

「ああいいとも、お主の好きな所であったからな」

「あそこから束稲山や大河北上を見てみたいのだ。昔と少しも変わっていないであろうなあ」

「ああ、もちろんだ。変わり様がないではないか。いつまで経っても奥州は奥州さ」

西行と秀衡は、38年前と少しも変わらぬ若者のような心持ちで、街道を駆け抜けて行った。折から激しい風が吹き、みぞれのような雪が二人の頬を容赦なく打ちつける。しかしもはや西行にとって、そんな厳しい奥州の天候すら愛しむべき対象でしかなかった。こうして気を許せる友がいて、大好きな奥州の大地を自分は駆け抜けている。そんな思いが、西行の心を、暖かく包んでいた。

二人を乗せた馬は、毛越寺を過ぎた。伽羅御所(きゃらのごしょ)の前では、今や遅しと秀衡と西行の到着を待ちかまえていた家臣たちが、二人が疾風のように目の前を過ぎて行くのを見ながら、
「御館(みたち)どこへ行かれますのか?」と叫ぶのが精一杯だった。

「すべては、西行殿のお心のままよ」と訳の分からないことを言ったと思うと、二人は高笑いを浮かべて、やがて家臣たちの視界から風雪の中に消えていった。

衣河の前に、二人は黙って立っていた。
秀衡は、声を掛けかねていた。たたずむ西行には、奥州の覇者秀衡ですら近づきがたい威厳があった。秀衡の目には、西行がじっと目をつむって、川の音を聞いている、そんな風に映っていた。

西行は38年ぶりに衣川に立ち、自分の波乱に満ちた生涯を振り返っていた。
十八歳で北面の武士として立った頃、あの頃は自分の人生は大海のように開けている気がした。そこには前途揚々たる青年佐藤義清がいた。二十三歳にして甘美な道ならぬ恋を知った。その時、自分ではどうしようもない運命の糸があることを知らされた。考えた抜いた末の出家を決意し、妻子を辛い目に合わせてしまった。

何という人生だったのだろう。結局、自分には歌という道しか残っていなかった。歌の才を磨くための長い長い道を一人で歩いてきたような気がした。歌で癒され、歌によって生かされた人生だった。慕い続けた能因法師の後を訪ねて奥州に旅を思い立ったのは、愛する人が、出家をした後、病をこじらせて急死なさった翌年だった。

そこには無二の友秀衡がいて、奥州の山河があった。それから日本中を流離い歩いた。多くの友は旅立ち。その中には北面の武士の時代の友平清盛もいた。きらびやかな栄華に包まれていた清盛は、西行に会った時、このように言ったことがある。

「義清殿、そなたがわたしはうらやましい。本当にそう思う。もう我々も若くない。私はいつも自分の一門の事ばかりを考えていなければならぬ。夜も寝れないことだってある。何が太政大臣だ。無冠のそなたが一番だ。そなたは自由に好きな所へ飛んで行って、歌を詠う。いい人生だ。そなたのように生きれたらどんなに豊かな人生が送れたことか。まるで大空を舞う白鳥ではないか。」

その時、西行は、清盛に何か不吉な影を感じたが、その場では何も言わずに笑ってやり過ごすしかなかった。あの時の、孤独という悪魔に魅入られたような清衡の目が、焼き付いて、しばらく西行の脳裏から離れなかった。その後、清盛は、熱病にうなされ、苦しみ抜いた末にこの世を去った。享年六十四歳。あれほど清盛が心配していた平家一門は、彼の死後、わずか四年にして滅び去ってしまった。

この日、西行は、会った瞬間から、秀衡の中に清盛と同じ不吉の影を感じとっていた。そのことを目を瞑りながら、あれこれ考えていると、実に心が冴え冴えとしてきて怖くなる西行であった。
 
その頃、平家一門を滅ぼした張本人義経は、勝手に院より官位を受けたとして、頼朝の怒りを買って、平家追討の英雄から一転追われる者となっていた。頼朝にすれば、背後に秀衡という後ろ盾を持つ、義経の戦の天才ぶりを見るにつけ、「これは早めに手を打たなければ、秀衡の持つ経済力と義経の武の才が一つになった時には、鎌倉とてどうなるか?」と危機感を募らせたはずだ。

義経は、武蔵坊弁慶他わずかな手勢を従えて、吉野山中から秀衡のいる平泉を目指して歩いていた。白河の関を越えれば、たとえ頼朝とて、もう手出しはできない。はやく白河をこえるのだ。義経はそう思いながら、初冬の北陸道を北へ北へと向かっていた。

悲しい話がある。義経の愛妾だった白拍子の静のことだ。静は義経とはぐれ、吉野山中を彷徨っているところを捕まって、鎌倉に贈られた。しかもこともあろうに憎き敵である頼朝の命により、鎌倉鶴ヶ丘八幡宮境内で、舞を舞わされる羽目となった。文治二年四月八日のことである。再三拒否した静だったが、一緒に捕まっていた母の助言に従って、次のような義経を慕う歌を歌いながら凛々しく舞った。

   ”吉野山 みねの白雪ふみわけて いりにし人の あとぞ恋しき
   (解釈:吉野山の白い雪を踏みしめて、山に分け入っていったあの人足跡が長く延びている。ただあの人が恋しい)

   ”しつやしつ しつのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
   (解釈:しず布を巻くおだまきのように、「静」や「静」と、何度も愛しい人が、私の名を呼んだくれた昔が、今に甦ってくれればいいのに・・・。)

いずれも恋しい人を、一筋に慕い続ける恋の歌である。見ている者は、みな涙を流したという。ただ一人頼朝だけは、「なんで私の前で、義経を慕う歌など歌って舞うのか、けしからぬ」と今にも取って喰うような激怒ぶりだった。しかし頼朝の妻政子は、「何を言っているのです。私がもし静の立場だったら、同じことをしたと思いますよ。貴方が平家打倒に立ってからというもの、いつ私が逆の立場になったとも限らないのです。静は女性の鏡。貞女ではありませんか」といって頼朝をなだめ、その場を納めたのであった。

静かにはさらに悲しい話がある。鶴ヶ丘八幡宮で舞った時、静のお腹には、義経の子供が宿っていた。「もしも女子なら命は助けるが、男児だったら、生かして置くわけにはいかぬ」頼朝は冷たくこう言い放った。そして文治二年七月二十九日、静は、はからずも義経の男児を生んだ。泣いて我が子を抱いて離さない静だったが、頼朝は許さなかった。男児はすぐに殺され、由比ヶ浜に捨てられた。これは西行が鎌倉に現れる15、6日前の出来事だった。

そのことを西行はこのように秀衡に告げた。

「秀衡殿、頼朝は非情な男だ。自分は清盛殿の深い思いやりによって、命を長らえたにも関わらず、一旦敵と思った者には、情け容赦のない攻撃を加える陰険さを持っている。すでに平家追討第一の功労者、義経殿は罪人にされ、その愛する者たちも責め立てられ、その子は殺され、鎌倉の浜に捨ててしまう残忍さを見せている。縁者の人々も次々と捕らわれている。母の常磐殿や妹君も捕まっていると聞く。奥州は明らかに頼朝が第一に狙う所。注意なされよ」

「もちろんだ。今年の四月には、その非情を絵に描いたような男から文が届いてな。これからは京に届ける貢ぎ物については、全部鎌倉を通してやるようにと言ってきた。何様のつもりかは知らぬが、実に無礼な男だ。」

「それにしても今、義経殿は今どの辺りにいるのだろう」

「うーむ、それがつかめぬのよ。白河の関を越えれば、問題はないのだが、いかに才気のお方とて、気になるところよ。ご無事で戻ってくれるといいのだが・・・」

「秀衡殿、もはやこうなったからには、頼朝と一戦交える覚悟をしなければ、なるまいぞ」

「おお、望むところよ。義経殿を旗印として、我が息子たちが一つになり、奥州十七万騎が背後にあっては、いかに頼朝とて、これをうち破るのは不可能。逆に鎌倉を攻め滅ぼして見せましょうぞ」そう言って拳を握りしめて見せた秀衡だったが、西行はその拳にある無数の老人班を見逃さなかった。
 
 
 
 

(続く)佐藤
 


この文に関するご意見ご感想は掲示板にお願いします

 義経伝説 掲示板


義経伝説ホームページへ

更新記録

1999.11.30 Hsato