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西行が平泉にいる風景

 

4 いざ平泉へ
 

老境の西行は、それこそ一歩一歩と自分の命を削る思いで奥州平泉へ向かって行ったに違いない。一刻も早く、秀衡殿に会いたい。

西行は、武蔵の国に入り、やがて利根川の渡しに着き、こんな歌を詠った。
 

   ”霧ふかき 古河(こが)わたりの わたし守 岸の舟つき 思い定めよ
解釈:利根川に霧が立ちこめている。古河の渡し守よ。大丈夫か?気合いを入れて舟をしっかり岸に着けてくれよ。私には大事な使命があるのだからな)

この時、すでに西行は、文を平泉の秀衡に向けて送っていた。そのため秀衡は、友西行が平泉に着くのを一日千秋の思いで、待ちわびていたに違いない。

秀衡は、孤独だった。語る者と言えば、藤原基成や中尊寺や毛越寺の老僧たち位なものだ。すでに同世代の清盛は亡く、何の利害関係もなく心を許してすべての思いを吐露できる西行に会いたい。秀衡は心の底からそう思っていた。しかも自分と奥州に向けられる頼朝の執念深い攻撃。いったい自分の亡き後、この大奥州はどうなってしまうのか。不安は日増しに、西行と語り合いたいという感情に転化する。無理からぬことだ。

西行は、何とか無事に白河の関を越え、奥州に入った。白河からやがて信夫の里(福島)を越えて名取(宮城)に着く。名取郡笠島に来た時、西行は偶然にも、歌人藤原実方の墓を発見する。

この藤原実方という人物は、源氏物語の光源氏のモデルともいわれる人物で、ふとしたきっかけで時の御門(みかど)のご勘気(かんき=いかり)にふれて、奥州に赴任させられた人物である。ここにこの墓がある理由は、出羽国の千歳山という所にある阿古耶(あこや)の松という歌枕にある松を見てきての帰り道、このそばに道祖神を見つけた土地の者が、「この神様は霊験あらたかな神様だから、どうか馬を下りて、礼を尽くして通りましょう」と言った所、「構わぬ。取るに足らぬ女神であろう」と言って強引に通ろうとした所、馬が突然倒れて、その下敷きになった実方は、

  ”みちのくの阿古耶の松をたずね得て身は朽ち人となるぞ悲しき

という歌を詠ってなくなったと伝えられる。定説ではこの歌は、最初の奥州の旅の時に詠んだ歌とされているが、私はそうは思わない。六九歳の西行であるからこそ、生きるのだ。
その西行も、実方の辞世の歌を念頭においてこのように詠った。

   ”朽ちもせぬ その名ばかりを とどめ置きて 枯野のすすき 形見にぞ見る
(解釈:実方殿、聞こえますか。あなた様の名は決して朽ちてはおりませんぞ。あなたの形見は、ほれこうして枯野のすすきがりっぱに努めておるではございませんか)

実方が死して189年の後、実方の思いは見事西行に受け継がれて歌となったのである。
 
 
 

(続く)佐藤
 


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1999.11.29 Hsato