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西行が平泉にいる風景

 

2 晩年の西行と奥州

それから38年の歳月が瞬く間に過ぎた。

西行は、戦乱で荒れる京の横目で見ながら、日本中を放浪し、庵を結び、多くの歌を残した。その結果、当代最高の歌人との評価を不動のものとした。その証拠に、彼の死後編纂された新古今和歌集(1205年:元久二)では90余(94)の歌が入集して、これは全歌人中第一位の入集数である。

一方の秀衡は、奥州藤原氏の三代目として、豊富な資金力を背景として、着々と奥州の基盤を固め、院にも一目置かれる存在となっていった。特に平氏の平清盛などは、秀衡の力を利用して、当面のライバルである関東の源頼朝を押さえようとまでした。
まさに1180年代に入ると、時代は「京都―鎌倉―平泉」という勢力関係が自然に出来上がりつつあった。その「三国志」的な微妙な力のバランスの中で、政治家秀衡は、見事な舵取りを見せるのだった。まず彼のしたたかさは京都の鞍馬山に匿われていた平治の乱の敗残者源義朝の九男義経を鞍馬山より招いて、いざという時のための切り札(旗印)として利用することまで画策した。

ところが秀衡の計算に、二つの大きな狂いが生じた。

すなわちその第一は、最後の切り札として使うつもりでいた義経が、兄頼朝の挙兵に感動し、平泉を出て行ってしまったことだ。結果として義経は、平家を壇ノ浦で滅ぼし、鎌倉の頼朝政権の建設の第一の功労者となってしまった。この平氏の滅亡は、奥州を巡る三国志的軍事バランスが大きく崩れたことを意味した。

策士頼朝からすれば、当面の敵であった平氏があっさりと滅び、次は奥州平泉だ。という思いがしていたはずだ。もはや頼朝の目は、弟義経ではなく、秀衡の動勢ただ一点に集中されていた。いやもっと冷酷な言い方をすれば、秀衡の老いていく姿を見ながら、奥州をわが手に支配するタイミングを計っていたとみるべきである。頼朝が注意していたことは、秀衡のカリスマと奥州の資金力、それと義経の軍事的天才が結びついてしまうことだけであった。頼朝は、奥州の間者(スパイ)を放って、とりわけ秀衡の健康と義経の動向を報告させていた。もはや凡庸な泰衡や戦好きの國衡など、頼朝の眼中にはなかった。

このように考えてくると、まさに義経という存在は、秀衡が頭書から目論んでいたように奥州の手駒に収まっているような小さな人物ではなかった。彼の存在は、むしろ歴史の歯車を前に回すために時代という神様に遣わされてきたような西洋で言えば、アレキサンダー大王やナポレオンのような人物だったのかもしれない。もちろんその自覚は当の義経自身にはない。そこにこそ義経の悲劇の本質が眠っているといえるのではなかろうか。

こうして政治家秀衡の発想は、徐々に時代に取り残されていくこととなっていった。秀衡は古い人間である。国家というものを、彼は古代的な地縁血縁を中核としてまとまるもの、という発想しか持ち合わせていない。しかし鎌倉の武士達は違っていた。頼朝を中心に集まった関東の武士には、もはや氏や素性を基礎にしてまとまろうなどという古くさい感覚はない。彼らを気概を支えているものは、頑張れば報われるという関東流の合理精神であった。そこには平氏も居れば源氏もいる。問題なのは、褒美だ。つまり鎌倉では、すでに地縁や血縁を越えた地頭を頼朝が任命するという新たな中世的な主従の関係の時代に入りつつあったのだ。時代はすでに秀衡の頭の遙か頭上を猛烈なスピードで動き出していたのだ。

第二計算の狂いは、どんなに優れた人間も寄る年波には勝てないということだ。もちろん政治基盤が盤石ならば、問題はないのだが、彼の跡取りは次男の泰衡であり、その気の弱さや凡庸さに危惧を感じつつもさすがの秀衡も、兄弟仲良くして、義経公を旗印としてまとまれというのが精一杯の遺言であった。しかもさらに決定的なのは、平氏追討の戦を経験し、頼朝を旗印にする関東武者が、意気が奥州とは比べ物にならないほど高揚していたことだ。一方の奥州平泉は明らかに平和ぼけしていた。後三年の合戦以降、本物の戦を肌で知っているものは、もはや奥州にはいなかった。後の鎌倉勢との最初で最後とも言うべき阿津賀志山決戦で、國衡率いる奥州があっさり負けてしまうのも、経験(戦慣れ)の違いを指摘しないわけにはいかない。

1186年(文治2年6月)、晩年住んでいた伊勢から六十九歳の西行は、奥州の同族であり友秀衡の危機を感じ、東大寺大仏殿再興の勧進を口実に、病気を押して決死の旅に出かける。そして富士の山を見ながら、次の二首を詠んだ。

   ”年たけて またこゆべしと 思いきや 命なりけり 佐夜の中山注1
   (年を取りこの佐夜の中山を越えて、再び奥州へ行こうとしている私だ。ああそれもこれもこの命が保ってくれてのことだなあ)

この歌には次のような詞書(ことばがき=歌の趣意を説明する前文)がつけられている。
「あずまの方へ、相知りたる人のもとへまかりけるに、さやの中山見しことの、昔になりたるける、思い出でられて」
(解釈:関東の方へ、よく知っている人物を訪ねていく途中、佐夜の中山に差し掛かって、昔見たことが懐かしく思い出されてきて詠んだ歌)
 

    ”風になびく 富士の煙の 空に消えて 行方も知らぬ 我が思いかな
     (風になびいていた煙が、いつの間にか富士の空と混じって消えてしまった。我が思いも同じだ。それはどこから来て、どこへ行ってしまうのだろうか)

この二首の歌で、西行は、どこか自らの命のそう長くないことを自覚しているようにみえる。彼はこの世の無常なることを百も承知で、忘れ得ぬ秀衡のために、また東大寺の勧進のために、こ一肌脱いでいるのだ。この西行の行動は、その全てが他人様のためで、自分のためということは微塵もない。そう断言しても差し支えない。全ては友のためであり、世のためである。彼にとって大事なのは、自分らしく生きることであって、けっして自分のためではないのだ。そこが西行の西行たるゆえんではないか。
 
 

(続く)佐藤
 



 

[注1]佐夜の中山:(さやのなかやま)
遠江国の歌枕。現在の静岡県掛川市付近にある小坂。
 


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1999.11.25 Hsato