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西行が平泉にいる風景

 
1 西行若き日の平泉紀行

西行(1118―1192)はその名を佐藤義清(のりきよ)といった。平将門の乱で功を上げた俵藤太秀郷(藤原姓)から九代目の武家の家に生まれた。したがって同じ秀郷流である奥州藤原氏と西行は遠縁にあたる。その頃、時は源氏と平氏が相争う時代となり、どこかきな臭いどこかに厭世的な(無常観?)が世間を覆いはじめているような時代だった。

北面の武士(注1として、エリートの道を歩いていた23歳の義清は、保延元年(1140年)六月のある日、当然妻に出家をすると言って、すべての役職と家族を捨てて家を出ようとした。その時、彼の一人娘が、「行かないで」と彼の足にふりすがって、泣いたというが、無情にもその娘手を振り払って、何があったのか、義清は全てを捨てて荒野を目指した。いったいエリート義清になにがあったのか。今となっては知る由もない。永遠の謎である・・・。

でもまあ、そんな堅苦しく考える必要もあるまい。世を捨てたのだから、ブッタと同じ道を目指したと、ここでは素直に考えておこう。出家するに当たり、主人の鳥羽院に対して、このような別れの歌を奏上した。

   ”惜しむとて 惜しまれぬべき このよかは 身を捨ててこそ 身をも助けめ”(万代集所収)
   (解釈:惜しむというありがたい言葉を賜り、光栄に存じます。私はそんな惜しまれるような人間ではありません。
       この上は身を捨てて出家することだけが己を救う道であると思っています)

その後、名を西行と改めた義清は、日本中の荒野を彷徨う。しかし西行が、ブッタのように悟りを開いたという話は聞かない。聞くのはいがいにも情けないような諸国に残る伝説ばかりだ。西行物語は、その崇拝者が西行を偶像化する意図で書いた節ががあり、かっこよすぎて信用できない。だからその伝説を私なりに解釈し直すと、西行はこのような結構我々凡人が共感できる人物となる。

ある時、西行は、大峰山に登って、修行に励んでいたが、「その構えが出来ていない」と言って、先達の坊主にこっぴどく罵られて、大泣きをしたらしい。また天竜川(静岡)の渡りの船に便乗した時には、一人の武士に「おまえがいては船が沈む、降りろ」と言っては殴られて、頭から血を出しながら、情けなく降りたという、実に情けないエピソードばかりが伝説として伝わっている。要するに歌にうつつを抜かす変わり者である。ブッタの道なんて到底歩けるような人物ではない。大体が、地位や家族は捨てられたが、和歌という執着は捨てられなかったではないか。むしろ西行は、能因法師の跡を追って、和歌の細道に分け入った人物で、ブッダの道を行こうとした人ではないようである。

西行が30歳前後(26歳とか27歳という説もある)だから、久安三年(1147年?)の頃、その和歌好きの変わり者は、新しい時代の能因法師を気取ったのか、若い西行がもっと若い頃に親戚のよしみで面識のあったはずの藤原秀衡(注2)を訪ねて、奥州平泉に旅立って行く・・・。

白河の関を越えるにあたって、奥州に入った西行は、能因法師の、かの有名な歌(都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関)を意識して、

   ”都出て あふ坂越えし 折りまでは 心かすめし 白川の関
   (解釈:都を出て、逢坂の関を越えるまでは、心をかすめるほどだったのに、思いが次第に募ってきて、やっと今白河の関に今着いたのだなあ)と詠んだ。また、
 
   ”白河の 関屋を月の もる影は 人の心を とむるなりけり
   (解釈:白河の関屋をもれてくる月の光は、なんと人の心を止めてしまうのだろう)と詠った。

次に信夫の里(福島市)から名取(宮城県)に入った西行は、河岸にある紅葉を見つけて

   ”なとり河 きしの紅葉の うつる影は おなじ錦を 底にさへ敷く
  (解釈:名取河の岸にある紅葉が、川面に映っている。そうしてよく見れば、川底にも紅葉の影が沈んでいるように映っているぞ、まるで錦を敷いているようだ)であった。

こうして秋の奥州路を歩いていった西行は、ついに、十月十二日、平泉の都に着く。そこで若き詩人西行が見たものは、黄金に飾られた北の都の栄華だった。おそらく秀衡が、迎えに出て、大いに旧交を温めたことだろう。この辺りの経緯が辻邦生の小説「西行花伝」では甘い。あたかも既に26歳の秀衡が奥州の御館(みたち=頭目)に就いていたように書かれてあるが、彼が否応なく、父基衡の急死により御館となるのは、十年後の保元二年(1157年)である。辻氏はもう亡くなってしまわれたので言いようもないが大作家がその主著となるべき本にして、こんないい加減な歴史検証(書き方)では困るというものだ。

とまあ、大作家への愚痴はさておき、西行は、再会した秀衡にこんな風に語る。
 「おい、秀衡、平泉という所は、平安の都よりも、美しい街ではないか。想像以上だ。実に驚いた」

 「ああ、そうだろう。いい歌が生まれそうだな。結構俺も気に入っている。ところでどうしてまた、
  出家なんかした?出家をしなく立って、歌は作れるだろうに、妻子がかわいそうだ。
  まったく冷たい男だ。お前という奴は」

 「まあ、いいじゃないか、そこの所は、一度決めたことだからな。実感のある歌が歌いたかったのよ。少しやっかいになるよ」

 「ああもちろんだ。好きなだけいればいい」

 「ああそうさせてもらうよ。この辺りの景色も気に入ったしな」などと、言ったとか、言わないとか。

この日平泉は、たまたま雪が降り、嵐は激しく、最悪の天候だった。それでも西行は、心惹かれる思い捨てがたく、衣河に向かった。彼がそこで見たものは雨粒に霞む奥州の山河だった。そしてこのような歌を詠む。

   ”とりわけて 心もしみて さえぞわたる 衣河みに きたるけふしも
   (解釈:何と心に沁みてくるのだろ。何と心が冴え冴えとしてくるのだろう。今日まさに衣川を私は見たのだ)

いい歌だ。一字一句に無駄がなく表現が素直で実にみずみずしい。複雑な縁語による技巧もまるで気にならない。でも何がいいかと聞かれたら、私は疑いなく「実感がこの三十一字の一字一句に込められているからいい」というだろう。都にいて、歌枕を頭の中でひねり回している歌人の歌とは明らかに違う。西行が西行たるゆえんは、このように自分の実感に基づいた感受性を素直に歌にしている点だ。普段の西行は伝説にあるように結構お茶目でひょうきんな一面を持っている。しかし、一旦歌を口ずさむとなると、人が変わったようになる。誰も近づけないような世捨て人特有の孤独の凄味がその表情に突如として現れる。おそらくこの歌を詠んだ時も、西行はただ一人、嵐の衣河に一人たたずみ、しかもその目は深く閉じられていたはずだ。だからこの歌は、実感を通して得た「イメージとしての衣河」を詠んだ歌である。この歌によって、西行は己の心の奥底にけっして消滅する事のない平泉という景色を焼き付けたのだ。彼の目には、もはや衣河も北上の大河も束稲山もない。そして雨の彼方に永遠の都「平泉」を見ていたのかもしれない。でもこんな歌、凄味のある枯れきった歌を三十前後の男が詠えるのだろうか・・・。

ともかくこの後しばしの間、西行は、平泉に草庵を結び、平泉の山野を散策することとなる。
平泉の冬はとびきり寒い。都育ちの西行が、修行と称して小さな庵でどんな思いで暮らしていたかは想像がつく。おそらくすることもなく、寒風に晒されながら、白い雪景色を眺め、押しよせる郷愁と前年に亡くなったかつての恋人(?)待賢門院(注3 たいけんもんいん)を思って泣き暮らしていたのであろう。

私は西行の奥州の旅が、一般に言われるような修行(歌もしくは仏教)だけではなく、愛しい人を亡くした心の傷を癒すための旅であったと推測する。確かに表向きは、修行と称していたにせよ。西行が道々で感傷的な歌を歌うのはそれなりの理由があったと考える方が自然だと思うからである。

   ”常よりも心ぼそくぞおもほゆる旅の空にて年の暮れぬる
   (解釈:いつもの年越しよりも随分心細く感じられる。それもそのはず、旅路の果てに奥州の空の下での年の暮れなのだから)

ここに来て新たな疑問が起こる。西行は、中尊寺の金色堂や毛越寺などの豪華絢爛たる平泉の伽藍に接しながら、何故かそれらを詠み込んだ歌を作ってはいない。何故だろう。それらを歌として切り取るだけの心の欲求が起こらないのであろうか。西行が訪れた時、金色堂は、壮健から二十年足らず(天治元年=1124)の時期で、異様なほどまばゆさで輝いていたに違いない。それでも西行は、そんな極限の豪奢な竹者には目もくれないていない。西行の美意識の問題だろうか。西行は、ひたすら平泉の山野と自分の心の中のみに、歌の題材を見つけようと、平泉の山野に分け入っていくばかりだ。今日も又、西行は衣川に行き、何気ない景色を言葉によって写し撮ろうと必死である。たとえば、このように。

   ”衣川 汀(みぎわ)によりて 立浪は 岸の松が根 あらふなりけり(夫木和歌集抄 川 に所収) ”
    (衣川の水際に一本の待つの木が立っている。その根が川の浪に洗われて根がむき出しになっていることだ)

はっきり言って、先の二つの歌とも、西行にしては凡作である。名人西行もこんな拙い歌も詠むのかと思うとどこかほっとするところがある。
また、こんな歌がある。ただし次に上げる歌は、平泉で作ったという確かな確証はないが、この時の西行の感慨に近い物があるので紹介する。

   ”雪降れば 野路も山路も 埋もれて 遠近しらぬ 旅のそらかな
   (解釈:まったくのすごい雪だ。どこが山でどこが野なのか、まるでつかめぬ。遠い近いも分からぬ。さすがに陸奥だね。まったく)

西行は、奥州の寒さと孤独と戦いながら、ひたすら春を待っている。雪が解けて、春の花が咲き、ウグイスが恋をする。そんな季節を心待ちにしていたはずだ。しかしながら奥州の冬は長々といつ果てるともなく続く。

そこで西行は、秀衡を訪れてこんな話をしたかも知れない。

 「退屈でしかたない。何か面白い本などないか秀衡殿」

 「冬の平泉に参られたか。どうだ歌合わせでも開いては?」

 「勘弁してくれ、歌は安らぎにならん。寝ても覚めてもそのことばかり考えているのだからな」

 「仏門に入ると不便じゃのーその若さで酒も女もできんのだからな」

 「どうじゃ、舞いでも見せてくれぬか。うんと華やかなやつをな」と言ったとかいわないとか。

そうこうしているうちに春が来る。いっせいに奥州の野山が目覚める。鳥が鳴き。雪解け水が衣川を下り、北上川を洋々と流れ下っていく。
梅が咲き、ウグイスが来て、西行の生涯のテーマである。櫻の花が見事な花をつける。

秀衡が来て西行にこのように言う。

  「どうだ。あんたを驚かせようと黙っていたことがある」

  「驚かせたいこと?なんだい。それは?」

秀衡はいたずらっぽく笑うだけで、答えない。ただ付いてこいと言って、馬を走らせて山の方へ走っていった。仕方なく西行も馬の手綱を取って秀衡を追いかける。しばらく走ると秀衡は束稲山(たばしねやま)の麓で馬を下りた。

  「ここからは歩いて行こう」西行も無言で後に続く。しばらく歩くと眺望が開けた。西行の目が釘付けになった。

  「いったいこれは、どうしたことだ。まさかこんな山全体が櫻の木で溢れているところがあるなんて、すごいじゃないか。秀衡殿。まさにこれは吉野以上の櫻だ」

  「ああそうとも、これは祖父清衡が植えさせたものだ。吉野に負けない櫻の名所をこの平泉に作ろうとの趣向さ」

   ”きゝもせず たわしね山の 櫻花 吉野のほかに かゝるべしとは
   (解釈:いやこんな素晴らしい櫻の名所があるなんて知らなかった。束稲山は今日から歌枕にもなるぞ、吉野の以外にこんな櫻の名所があろうとは)

西行物語では、その後出羽に行ったとあるが、確かな説ではない。むしろ私は空白の二、三年平泉を起点にして活動していたのではとさえ思っている。夏になると西行はこんな歌も詠んでいる。
 
   ”奥に猶 人見ぬ花の ちらむあれや 尋ね越らん 山ほとゝぎす"
    (解釈:奥山に人が見ていない花が散らないで咲いていて欲しいものだ。やまホトトギスが来る夏になったが、一緒に分け入ってみようか)

もしかしたら、この歌で一緒に尋ねてみないか?と西行が呼びかけているのは、他ならぬ秀衡その人かも知れない。こうして歌の道を志す西行と奥州の覇者となるべき秀衡は無二の親友となった。
 

(続く)佐藤
 



 

 

[注1] 北面の武士:(ほくめんのぶし)
御所の北面で、院内の警護にあたる武士のこと。白河法皇の御代から始まった。後の近衛兵のようなもの。

[注2] 藤原秀衡:(ふじわらひでひら)
(1122−1187)奥州の覇者。二代藤原基衡の嫡子。母は安倍貞任の娘。父基衡の突然の死(1157年)を受けて、36才で奥州藤  原氏三代目当主の地位に就く。若い頃、何度か京の都に上ったという形跡があり、北面の武士であったという確かな証拠はないが、佐藤義清と顔見知りだった可能性は極めて高い。源義経の庇護者。政治手腕に長け、1170年(嘉応二年)従五位下鎮守府将軍を、更に1180年(養和一年)には陸奥守となる。これは平清盛が、台頭してくる源頼朝の力をその背後からけん制するために、与えた地位と考えられている。ともかく奥州平泉文化を考える上での最重要人物。

[注3]待賢門院:(たいけんもんいん)
(1101−1145)鳥羽天皇の皇后。名は藤原璋子(ショウシ)。藤原公実の子、母は藤原隆方の娘。白河院のもとで溺愛されて育ち、白河法皇の猶子となる。1117年(永久5)従三位となり鳥羽天皇の女御となる。翌1118年(元永1)中宮に出世。1124年(天治1)院号宣下により、待賢門院をいただく。後に崇徳・後白河院両天皇のを生む。その翌年生まれた崇徳の父親は、鳥羽天皇ではなく白河院であると噂され、その噂がのちに保元の乱の一因となった。またこの女院と西行が歌を通じて、深い仲になったとの説は昔から根強い。西行出家の主原因の可能性あり。ともかく西行の生涯を解く上でははずせない人物である。 参考(角田文衛「待賢門院璋子の生涯」) 
 
 


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1999.11.24 Hsato