渋谷文化村に「良寛さん」を見る

−良寛さんの般若心経の「道」の意味−

 
「良寛さん」と題された没後170年記念展が、現在渋谷の東急文化村で開催されている。開場には、あの良寛さん独特の書体の「書」が所狭しと掛けられている。

その中で、私が最初に注目したのは、良寛さんの秋萩帖(あきはぎじょう)の臨書(りんしょ)であった。この秋萩帖とは平安中期に小野道風という人物が、筆をとって四八首の和歌を草仮名で書いたものである。臨書とは、手本を見て、習字することであるから、良寛さんも、やはりしっかりと古典の素養を身につけようと努力していたことになる。

良寛さんの、あの独特の書体も、やはり、あの形に到達するまでは、古典の書体に触れ、様々な字を学んでいたのである。もちろん良寛さんのある書をみると、まるで、子供が寝そべって、書いたような書もある。これはピカソの絵にも共通する既成の概念をうち破る感覚である。

ピカソの絵も、晩年は特にお世辞にも上手いと言えるようなものではほとんどない。良寛さんの書も又、特に最晩年のものは、若い頃からか細かった字が、ますます細くなって、虚ろにさえ見える。でも何とも言えない味わいがあり、すぐに良寛さんの書だと一目で分かってしまうほどだ。 

次ぎに私の目を奪ったのは、「般若心経」の巻物であった。楷書で、丁寧に書かれてあり、決して上手くは見えない。でもやはり強烈な存在感を放っていた。ずっと字を追っていって、最後の所で、私の視線が止まった。それは、巻の最後にこのような「願文」が添えてあったからだ。

「願以此功徳普及■一切
 吾等與衆生皆倶成仏

 道」

本当にこのように離れている。
それを訳すればこのようになるであろうか。

「願う。この功徳を以て普く一切に及び、吾ら衆生みな共に成仏与えられんことを。  道」

どう見ても、最後の道は、捨て子のようにぽつんと端っこに在って、実に不自然だ。でもこの不自然さは、良寛さんの意図したことに違いない。元々「道」という概念が不自然だからだろうか。いったいその離して書いた理由は何か。そのことをしばらく考えた・・・。
すると私の中にこんな歌が浮かんだ。

良寛書般若心経見つけたり「道」と最後に一文字離る


そこで、以前、自分で訳した般若心経を引いてみた。(玄奘三蔵漢訳より)

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般若心経

摩訶般若波羅蜜多心経 (仏陀が説かれた)大いなる智慧の完成のための教え。
観自在菩薩。     (仏陀が言う)ある時、観自在という求道者が、
行深般若波羅蜜多時。  智慧の完成を、深く実践修行し、
照見五薀皆空。     五薀(色受想行識)がすべて空だと見抜いて、                            
度一切苦厄。      一切の苦悩を超越した。
舎利子。       (仏陀が言う)舎利子よ、
色不異空。      (そなたの)体は空と異なるものではない。
空不異色。       空は、そなたの体と異なるものではない。
色即是空。       すなわち(そなたの)体は空であり、
空即是色。       空はすなわち(そなたの)体なのだ。
受想行識。      (体が空であるから)感情も、観念も、意志も、知識すら、
亦復如是。       また空そのものだ。
舎利子。       (仏陀が言う)舎利子よ、
是諸法空相。      諸々の世界の営みは、空の姿で現れる。
不生不滅。       生じることもなければ、滅することもない。
不垢不浄。       汚いということもなければ、きれいということもない。
不増不滅。       増えるということもなければ、滅するということもない。
是故空中無色。     だから、空中は無色で透明なのである。
無受想行識。     (体がないのだから)感情も、観念も、意志も、知識すらない。
無眼耳鼻舌身意。    眼も、耳も、鼻も、舌も、身体も、心もない。
無色声香味触法。    だから色も見えず、声も、香りも、味も、感触も、現象もない。
無眼界。乃至無意識界。 目で見える世界がないのだから、意識する世界もない。
無無明。       (この世には)無知もなく、
亦無無明尽。      また無知が尽きることもない。
乃至無老死。     (この世には)老いも、死もなく、
亦無老死尽。      また老いや死が尽きることもない。
無苦集滅道。      苦もなく、苦の原因も、苦の超越も、苦の超越の方法もない。
無智亦無得。      知ることも、得ることもない。
以無所得故。      得ることがないのだから、
菩提薩陲。       道を求める者は、
依般若波羅蜜多故。   智慧の完成を一身に願い帰依し、
心無圭礙。       心には、一点の曇りもない。
無圭礙故。       心に曇りがないのだから、
無有恐怖。       畏れもない。
遠離一切顛倒夢想。   一切のはかない夢物語を遠ざけて、
究竟涅槃。       ついに一人こころ静かなる世界に遊ぶ。
三世諸仏。       過去、現在、未来の諸々の目覚める者は、
依般若波羅蜜多故。   智慧の完成を一身に願い帰依し、
得阿耨多羅三藐三菩提。 比べるものとてない無上、正等、普遍の智慧を得る。
故知般若波羅蜜多。   だから(舎利子よお前も)智慧の完成の真言を知りなさい。
是大神呪。       これは神秘の真言である。
是大明呪。       これは光明の真言である。
是無上呪。       これは無上の真言である。
是無等等呪。      これは無比の真言である。
能除一切苦。      一切の苦を見事に取り除く。
真実不虚。       真実である。嘘ではない。
故説般若波羅蜜多呪。  だからこそ智慧の完成の真言を説くのである。
即説呪日。       そして(仏陀は)その真言を、高らかに説いて言われた。
羯諦。羯諦。      往ける者よ、往ける者よ。
波羅羯諦。       彼岸に往ける者よ。
波羅僧羯諦。      すべての彼岸に往ける者よ。
菩提薩婆詞。      悟りよ、幸あれ。
般若心経。       智慧の完成のおしえ。
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般若心経の本文では「道」という漢字は、ひとつしかない。すなわち「無苦集滅道」の箇所である。私自身ここでは、「道」を方法と訳している。

さて「般若心経」という経典は、ブッダ自身が、弟子の舎利子に対して、自分が悟り得てあらゆるこの世のしがらみから自由になったことの体験を語って聞かせる形をとっている。でもブッダの説く「悟り」とは、決して難しい概念ではない。それはこの世を支配している法則の根本にある「空」ということを徹底的に自覚し、あらゆるしがらみから解放され、自由に生きるための方法を実感することに他ならない。

世間では、この経典を、人間が死んだ後に、彼岸(極楽)に行くためのものと勘違いしているが、死んだ者が、成仏するための経典は、「死者の書」と言って他にある。この般若心経こそは、これから雄々しく今まさに生きんとする人間が、心が自由になった境地(彼岸)に辿り着くための「道」(方法)を説いた書なのである。

であるから、良寛さんが、最後に、「道」を離して書いた心境というものは、それを読むものが、自分が書き写した経典の意味をそっと、気づかせるための小さな「?」(疑問符)ではなかったのか。そのように考えるに到った。
 
 道と書く良寛さんの筆先に般若の芯の見え隠れする

是非、文化村で二月二十五日まで展示されている「良寛さん」を鑑賞されることをお勧めする。佐藤


東急文化村で開催された「没後170年記念展良寛さん」にて16首

  1. 線細き己が身の如良寛は字を書き給ふ命果つるまで
  2. 墨と紙無駄にせぬよう良寛はか細き線に一念込めしか
  3. 良寛の「般若心経」見つけたり「道」と最後に離れて一文字
  4. 「道」と書く良寛さんの筆先に「般若」の真の見え隠れする
  5. 「修身」と二文字書けり良寛は身を修むるに書を用いしか
  6. 良寛は秋萩帖を臨書して書の道奥に分け入りてけり
  7. これほどに良寛さんの書を見して何が生まれむ吾が胸中に
  8. これほどに愛されており良寛の書の奥にある人の真実
  9. 生きること人と過ごすに上手くなき良寛さんに共感覚ふ
  10. なだ万の良寛料理食したり百合根まんじゅう手鞠の形
  11. 愛らしき手鞠まんじゅう食すれば子らと鞠つく和尚の浮かぶ
  12. 和の甘みほんのり百合根まんじゅうは良寛さんの手鞠の如し
  13. 記念展「良寛さんを楽しむ」とあり、師の大好きなザクロを喰らう
  14. 見も知らぬ人ら集いて食すなり渋谷なだ万良寛料理
  15. マイルスの「インナ・サイレント・ウェイ」のごと良寛は書に「一二三」(ひふみ)と書きぬ
  16. 鄙(ひな)の人在郷(ぜいご)生まれの良寛の大愚徹する心すさまじ


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2000.1.31