明日は確かならず

 
樋口先生を偲ぶ

ミケランジェロ作 ロレンツォ・デ・メディチの墓所

 

何気なく、机を開けて余分なものを、整理していると、一枚のメモが出てきた。

青春はいかばかりか美しき されどそれははかなく過ぎゆく 楽しからん者は大いに楽しめ 明日の日は 確かならず ロレンツォ・デ・メディチ

このメモの字は、懐かしい樋口先生のものだった。確か二年ほど前、帰り際に「佐藤さんは、いいなあ、これからだもんな、私が大切にしている詩があるんだけど聞くかい」と言った。

「へー、どんな言葉ですか?」

そして先生が語ったのが先のメモに書いてある言葉だった。

「先生、ロマンチストじゃないですか」

「そりゃー本当は、みんなそうじゃないのかい」

「なかなか良い言葉ですね。ちょっと書いてくださいよ」

私は先生にメモを渡し、あの走り書きが残ったのである。その先生も、この一枚のメモを残して、去年の暮れ、黄泉の国に旅立ってしまった。

原文を書いたロレンツォ・デ・メディチ(1449?1492)は、ルネサンス期のフィレンツェで全盛期を迎えていたメディチ家の当主であった。当時のメディチ家は、商業取引と金融業で財をなし、その取引先は、ほぼ全ヨーロッパに及び、ローマ教皇、フランス国王、ドイツ・スペイン・ポルトガルの王侯にまで金を貸し付けていたほどだった。

このメディチ家の隆盛は、十字軍遠征後の東方貿易によってもたらされた。この頃、メディチ家が主導するフィレンツェの経済力は、一都市で、イギリス一国の生産量を上回っていたほどだった。小切手・信用手形・担保などの新しい金融取引もメディチ家によって生み出されたものだ。

市民の教育的・文化的なレベルも非常に高く、フィレンツェは市民による自治都市であった。その自由闊達な雰囲気の中で、ルネッサンス(文芸復興)が生まれ、ダビンチやミケランジェロやラファエロのような芸術家たちが、まったく新しい人間味のある芸術を作り始め、その精神が全ヨーロッパに広がっていった。彼らのパトロンとなったのもやはりメディチ家だった。

ロレンツォ自身は、メディチ家の三代目だった。若い頃の彼は、ハンサムで文学的な才能に恵まれた人物だったようだ。数々のロマンスにも身を委ねた。しかしいつしか彼も老いの時を迎え、そしてあの冒頭のメモにある「青春はいかばかりか美しき」と口ずさんだのだろう。

ミケランジェロは(1475?1564)、彼の墓石の上の彫刻を依頼された時、あえて老いたロレンツォではなく、若くそしてたくましい青年の騎士の像を彫った。口の悪い人間は、「あれはロレンツォではない。似ても似つかない。もっと強欲な顔でなければ、彼ではない」と言った。それに対して、ミケランジェロは、はっきりとこのように言った。

「五百年もたってご覧なさい。何のことはない。これがロレンツォ候だとみんな思うようになるでしょうよ」確かにこの物思いにふける若くハンサムな像こそ、ロレンツォの本質だったのかもしれない。

まさにロレンツォが生きた時代のフィレンツェは、バブルの時代であった。ロレンツォ自身が目指した都市のあり方は、古代ローマの民主主義と芸術と娯楽としての武術(スポーツ)を愛する政治であった。

「人はパンのみに生きるにあらず、町にはサーカスを」ロレンツォは、この言葉が好きだった。そしてロレンツォは、生涯に渡って、数々の騎馬槍試合や仮装祭、各種のスポーツ大会を開催し、多くの芸術家たちを自分の館に集めた。しかしバブルというものは、やはりいつしか消える運命にある…。

事実、1492年に当主ロレンツォが死ぬと、メディチ家には、没落の時が待っていた。このような背景を考えながら、しみじみと樋口先生のメモをあらためて見ると、切ない気持ちが襲ってくる。「明日の日は 確かならず」だからこそ、我々も、今この瞬間を大切に生きたい。佐藤

 


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1999.2.16