「六本木ヒルズ」と首都東京の未来

-どこかおかしい日本3-


どこかおかしい。さる四月25日、「六本木ヒルズ」が、マスコミ(特にテレビ朝日)が肯定的に取り上げるなかで、派手にオープンして、わずか一週間か10日で、300万人の入場者を集めたというのだから、日本人の物見高さには驚かされるばかりだ。

数年前の御台場のオープンに続き、昨年オープンした丸の内の新丸ビル(新丸コンファレンススクエア)など、このところ、高層ビルを中核に据えた大規模都市再開発事業が目白押しである。

ところがそれに反比例して、日本経済は、10年以上に及ぶ不景気の中で、まさに瀕死の状態だ。何故、こうした不況下の日本の首都東京で、これほどの大規模都市再開発が進められているのだろう。もしかすると不況下で、瀕死の建設業界を何とか助けて、逆にそのことを起爆剤として日本経済を活性化させようとの逆転の発想と見れないこともない。その意味で、業界はこの事業にワラをも掴むような思いですがっているのかもしれない。

もちろんこのような計画が、不況下の日本で、有無を言わせぬ形で、進められている背景には、都市の建築制限に対する規制緩和の流れが後押しをしていることは周知の事実だ。でもこの都市再開発の発想に問題はないのか。一極集中を緩和し、首都機能を地方に分散するという政策は、いつしかなおざりにされてしまっているが、このまま再び「一極集中」さらに拡大してしまうような都市造りを日本という国家は、このまま容認していいのか。その他にも自然環境を含む景観の問題なども考えて行かなくてはならない問題は山積している。

中でもオフィスビルの需給という側面で見ても、現在の東京の現実を見た時、オフィスビルは、既に供給過剰の状況であり、空室率は高くなり、賃貸料は下落する傾向にある。また時ならぬマンションブームで、個人用のマンションも売れ残りが続出している。

こうした中で、六本木ヒルズが、オープンしたわけだが、オフィスビルと高額所得者向け賃貸マンションを供給することになる、同計画が、今後経営的にも、順調に行くとはどうしても思えない。

六本木ヒルズを建てた森ビル側は、地権者を説得し、17年を掛けてこの高層ビルを建てたと胸を張る。きっと「我々は単に、六本木にオフィスビルや賃貸マンションを提供するようなものとして、これを創ったのではない。新しい首都東京の文化拠点を創造し、よりクオリティの高い層のニーズに応えるために「六本木ヒルズ」は存在する」とでも言いたげだ。
 

もちろん経済の側面からすれば、需給こそが全てだ。きっとこの「六本木ヒルズ計画」も綿密な計算の中で、練られたものだろうとは思う。しかしながら冷静に考えれば、香港でもあるまいに、まだまだ土地がある日本で、神をも恐れず天に向かって建てたバベルの塔の如き高層ビルのニーズというものは果たしてそんなにあるのだろうか。今は、この六本木ヒルズに「テレビ朝日」など、高収益を上げている企業が入っているが、不況が広告収入の減少に拍車をかければ、賃料は自ずと下がって行かざるを得ないであろう。

時代感覚という面から見てみよう。最近、何気なくテレビを見ていると、女優浅野ゆう子が、エリート警察署長役を演じていた。その時、登場したのが六本木ヒルズであったかは興味もないので不明だが、とにかく、彼女が帰宅すると、高層マンションからの夜景が映し出された。

これを見て、私は素直に、「ちっともかっこよくないな」と思った。おそらくシナリオライターは、エリート=高層マンションというステレオタイプのイメージで、書いたのであろうが、どうも時代錯誤の感覚であると感じた。もうマンションからの夜景は、うんざりというのが、私の本音だ。要は供給過剰で、高層ビルからの夜景は、見慣れてしまって感覚的にかっこいいという対象ではない。

昔、アメリカのビジネスエリートたちの映画が、ニューヨークの摩天楼を舞台に盛んに撮られたものだ。その時は、東京にもこんなビルができるのかな。「かっこいいな」と思ったことがある。確かに初めてみるニューヨークの摩天楼からの景観は、実に素晴らしいものがあった。ところがどうだ。感覚は時代と共に変化するものである。

あの9.11のテロ以降、高層ビルアレルギーというものが、ニューヨークの中であるとニューヨークに住む知人からも聞いた。あの時、予想もしないような旅客機による体当たり攻撃によって、500mにもならんとする世界貿易センタービル二棟は、まるで砂糖菓子のように、たったの1時間余りで、崩れ去ってしまったのだ。あのイメージは強烈だった。

もうニューヨークの摩天楼は、かっこよくないのである。かつてよく見えた景観は、絶対的な美を人間に約束するものではなかったのだ。それはある意味では、人間の本能であり、人工的な都市空間から、自然をよりふんだんに取り入れた都市空間への希求を呼び起こしているのである。

何よりも、ワンベッドルームで66万から161万もするような賃貸マンションである。平均でも賃貸マンションで200万は下らない物件ばかりだ。こんな所に住む借り手が、この不景気においそれと居るものだろうか。きっと等価交換で、居住する地権者以外では、外資系企業のエリート層と一部の富裕層であろう。テナントで入っている飲食店も、結構高い料金を設定している店が多いとも聞く。

都心でのマンションの供給は衰えを知らず続いているが、自然の理に合わないものは、時間がくれば必ず破綻するだけのことだ。日本人は、この摂理をバブル経済の崩壊の過程で学んだはずなのだが。いったいその反省は、どうなってしまったのか。同時に一極集中を解消するとのスローガンは、どこへ消えてしまったのか。日本という歴史ある国のアイデンティティを満たすような都市ヴィジョンは、他にはないのか。

例えば、京都のような低層建物群が並ぶ都市に立った時の安心感、安堵感をどのように考えればよいのか。その京都でも、昨今は、次第に高い建物がポツリポツリと増えてきて、その独特の景観を壊しつつある。日本には、日本人が昔から培ってきた独特の歴史文化が、連綿と存在することを忘れてはならない。

東京の未来の都市計画は、やはり森ビルのような私企業のようなものでは問題である。何も全部を中央省庁に任せろ、というつもりは毛頭ない。そうではなくて首都の都市計画というものには、もう少し高いレベルでの合意形成が是非とも必要なのである。つまりマスタープランには、歴史文化を咀嚼(そしゃく)した上で、長期ヴィジョンと哲学性、芸術性というものが必要なのである。もちろんそのプランを実行に移すときには民間活力を最大限利用することは大切だが、最初から様々な私企業プランが錯綜し、単なる競争原理で、あちこちにパッチワークのような、私的建物群が林立するようでは真の意味での都市計画と言える代物ではない。つまりこの計画には、全体で首都東京をどのような都市に変貌させるかという真の意味のマスタープランが欠けていたということが最大の問題なのである。

現在の東京で進む、高層ビルを中核とする都市再開発ラッシュを見る時、バブル崩壊でも懲りなかった人々の夢がまた風船のように膨らみそれが萎むイメージで浮かんできて、無性に悲しくなるのだ。佐藤


結論
マスタープランなき私的ビル群の林立

 


20035.14
 

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