論語の新訳を読む


今年の3月、講談社学術文庫から「論語」(加地伸行 訳注)が出版された。帯びに「臨場感溢れる独自の現代語訳」とあったので、購入してみた。さっととばし読みをした。さすがに論語は古典中の古典である。訳される度に、日々新しくなって甦ってくるような思いがする。

購入した本を開くと、ページは165ページとなった。
「子曰く、仁遠からんや。我仁を欲すればすなわち仁至る」

その現代語訳は、「老先生の教え。仁(人の道)は難しい徳であろうか。(そのようなことはない。)己がそうでありたいと、志せば、ただちにその境地に達するのだ。」とあり、

その下に、「注 仏教の『発心直到』(ほっしんじきとう)(心にそう願ったとき、もうその境地に至っていると類似。」 とある。

「仁」を、この訳者は、「人の道」と解釈している。また「君子」を「教養人」と解釈している。面白いと思った。論語は、徳の高い君主になるような人物が読むべき教養書と思われていた時期がある。今回の訳は、そうではなく、一般庶民が、教養人となるための人生の書として、論語を解釈していることになる。

「仁」という言葉を、難しく考えず、「人」が「二」人以上集まれば、どのようにつき合わなければならないか、それが「人の道」に通じる。論語は、人としての生き方を説いた書であった。一時、六〇年代の中国において、文化革命華やかなりし頃、この書が保守的な政治論を説いた悪書であるとして、否定されるような時期もあった。しかし今論語をそのように思う人はいない。

先の孔子の言葉を私が訳すならこのようになるだろう。
「孔子先生が言った。仁なんてそんなに難しいものじゃない。ただ一心に、仁をこころざせは、その人は仁の道に達することになる」

孔子は、一心に、人と人が和して暮らすような道を「仁」と考えて、その道をひたすら歩いて、人類の教師と言われる偉人になった人物である。しかしながら、孔子の説いた仁の道は、曲解され、悪意に満ちた中傷に何度も遭いながら、その度に生き延びて来た。その理由は、孔子の説いた「仁」(人の道)が、キリストの説いた「愛」と同じように、どんなに時代が変遷しようとも決して変わらない普遍の正義を含んでいるからである。

新しい「論語」の訳者加地伸行氏は、この「仁遠からんや・・・」の内容を、仏教の「発心直到」に類似としているとした。確かにそうだ。更に私は、新約聖書の「求めよ。さらば与えられん」を付け加えておきたい。論語は、こんな具合に少しも難しくない。どんどん新しい訳が出版されることは良いことである。

 新訳の「論語」出る度若返る孔子先生2千五百歳
 

 


2004.9.13

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