現代の日本人と責任

-責任を取る人取らない人-


5月17日(土)。「りそな銀行」はとつぜん破綻した。2兆円の公的資金注入されることが、即刻きまった。そこで責任の所在ということを強く思った。

ところで責任とは何だろう。それは自分の行為に対する責務のことだ。責任というものは、誰だって問われるべきものだった。そこには本来地位の上下も男女の別もない。とにかく、人は自分の行動に責任を持ち、場合によっては、責任を感じて、恥を知り、時には責任を痛感する余り命を絶つことすらあった。

ところが最近は、どうか。責任を云々する人間はいなくなったようにもみえる。まずひどいのは政治家、官僚、銀行の経営者だ。考えてみれば、エリートほど責任を問われなくなっているようにすらみえる。株価が14千円で、総理大臣になった人がいた。それが株価が8千円を切っても、どうどうと、涼しい顔で、「改革路線を堅持します」と胸を張っている。まだ同じことをやりますというのだ。これは困ったことだ。

その影で、誰が総理になってもうまく立ち回る官僚が、次の総理を捜して右往左往する姿があると思うとハラワタが煮えくり返る。破綻した銀行のトップは、この破綻が、まるで自分の責任ではなく、監査法人が悪いと言わんばかりのコメントを出す。もちろん株価をここまで下げた張本人のどこかの大学教授上がりのお大臣さまは、坊ちゃんのような髪をサラリとかき上げて、「やります。金融不安は起こしません」と言うがもう起きているのだ。結局、これまた破綻は自分の責任とは、まったく思っていない様子だ。はっきりって、株価をここまで下げてしまったのが、りそな破綻の最大の原因ではないのか。

今日も、そんな偉い人たちの無責任の陰で、中央線が止まる。また中小企業の経営者が、自分の命を持って、借金を返そうと、死をもって返済資金を作り、責任を果たそうとする。哀れ中小企業の彼らには、責任が重くのしかかる仕組みとなって責め立てる。彼らの借金には、個人保証ががんじがらめで付けられている。最後まで銀行から責任をとらされる仕組みなのだ。何と弱者ばかりがバカを見るおぞましい日本であることか。これでは若者に大胆に新しいビジネスに挑戦する気概など生まれるはずもない。みんな寄らば大樹で、民間ならソニーかトヨタ。あとは高級官僚が彼らの夢だ。つまらん。と言ってもその声は、誰にも届かない。実に日本の未来には、暗澹とした闇が拡がっていて、いっこうに夜明けが見えない。佐藤

 


20035.19
 

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