イラクにおいて、「パックス・アメリカーナ」はあり得ない?! 

-アメリカの誤算(パックス・アメリカーナ・イン・イラク)- 


イラクの状況は、今や完全に内戦状態となってしまった。アメリカから派遣された暫定政権の職員が殺され、米軍兵が毎日のように殺されてゆく。アメリカでは、派遣兵士の家族の間からも、イラク駐留に対する疑問が出されている。

大量殺戮兵器は、どこにもなく、イラク戦争を始めたブッシュ政権の大義が大きく揺らいでいる。第二の日本として、イラクをアメリカ式民主主義を導入して、中東最大の産油国イラクを同盟国化しようとした目論見は、完全に崩れ去ってしまったかにみえる。

日本は、アメリカの現政権に言われるがままに、自衛隊を派遣しているが、これもいつイラク内戦の火種をかぶってしまかわからない怖さが付きまとう。

どんな無理も、力でねじ込むのが、最近のアメリカのやり方のようだ。しかし世界には、自分の価値観の通らない地域もあることを知るべきではないだろうか。イスラム教を生活の規範としたイスラム文化の価値観を理解した上でなければ、西洋式の合理主義と経済学を口をすっばくして説いたところで、抵抗にあって頓挫するだけのことだ。それは中世における十字軍の歴史をみても分かる。

内戦状態のイラクを立て直す道は、ひとまず、アメリカ主導の暫定政権構想をまずご破算にし、国連主導の枠組みを、ゼロから作り直すしかないと思われる。力を前提にした平和は、惨めな平和である。かつてあの大ローマだって、統治地域に入った地域の神を大切にし、その地域の風習や文化を大切にした。

「パックス・ロマーナ」(ローマによる平和)という言葉がある。今それをもじって、「パックス・アメリカーナ」という言葉が喧伝されるようになって久しい。時代で言えば、前者は、紀元前1世紀から約2百年間続いた。後者は、戦後のいわば核による平和でまだ60年ほどの年月しか経ていない。しかし戦後アメリカが、行ってきたことは、真の意味で「パックス・アメリカーナ」と言えるかどうか、はなはだ疑問が残る。ベトナム戦争しかり、度重なる中東戦争しかり、アメリカの持つ核の傘下で平和を享受した国は、世界全体からみればほんの一握りの国に過ぎない。実際には、いつも世界は暴力の連鎖が渦巻く悲惨な状況が続いてきた。もちろんわが日本はその中にあって、「パックス・アメリカーナ」を享受した数少ない国のひとつである。

今回のイラクの内戦化は、アメリカの現政権にとって、大いなる誤算であった。おそらく、第二次大戦後の「日本復興」のシナリオをイラクにも当てはめようとしたところに、無理があった。世界の警察官を誇示し、アメリカが、無私の精神で、そう考えるのであれば、それもいいが、石油利権や、自分の自由経済の価値観に無理に従わせようと思って、そうするのであれば、いずれその動機の不純さは露わになる。実際、今回の戦争で、イラクへ先制攻撃を仕掛けた「大量殺戮兵器を隠している」という戦争の大義は、俄仕立てのメッキのように、あっさりと剥がれてしまったのである。

日本人は、第二次世界大戦後、敗者と勝者という枠組み越えて、誰もが夢を叶えることのできる新世界として「アメリカ」を認識し、尊敬をもって、彼らから「デモクラシー」(民主主義)と「公正」(フェア)な社会実現のプロセスを学んだ。イラクにおいて、日本型復興のシナリオが完全に崩れ、現政権は、方向感を見失っているようにみえる。やはり、アメリカの為政者は、まずは日々、自国の若者が、異国で無意味な死を遂げている現実を痛みをもって直視すべきだ。そしてアメリカは、今こそ、勇気をもって、己の過ちを認め、イラク復興の主体を、国連というものに託すべきではないだろうか。

佐藤

 


2004.4.1
 
 

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