映画「パッション」論



 
 


メル・ギブソンが巨額の私費を投じて撮ったという映画「パッション」を観た。人が命を賭けたものは敬意を表してみる。このようなことを吉本隆明の講演で聞いたことがあって、それ以来、真剣味のある作品は、務めて見ることにしている。

「パッション」は、一言で言えば、痛すぎる映画である。キリストのむち打ちシーンが、凄惨過ぎる。私はこのむち打ちシーンがリアリズムであるとは思わない。これでは映画ではなく、映苦である。正直に言って、とても成功した作品とは言い難い作品だ。

ストーりーとしては、キリストが捕まる前の苦悩からゴルゴダの丘でハリツケになるまでの12時間余りの人間キリストの苦悩と受難を描いている。せりふも英語ではなく当時の時代にキリストたちが使用していたと思われる「アラム語」(現在のヘブライ語に近いとか)を使用するなど、徹底したリアリズムを追求したとされる。

しかし私には、そうは思えない。はっきり言えば、メル・ギブソンは入れ込み過ぎだ。思いが空回りをしている。まあ、この映画のだけではなく、私は最近の映画のリアリズムの概念に疑問を持つものである。余りに音が良すぎる。例えば、刀を抜けば「シャキーン」と音がして、人が倒れるシーンでは、さも大げさにスローモーションが当たり前のように使われる。これがリアリズムとはどうしても思えない。

リアリズムとは、簡単に言えば、自然なことである。ところが最近の映画は、音響技術や映像技術の発展によって、自然から遠ざかる傾向が強くなっている。映画「パッション」でも、キリストがむち打たれるシーンは、リアリズムとは言えない大げさな演出だ。言っておくが、人が死ぬ時には、一瞬で死ぬのである。人の運命は一瞬に変わるのである。早い話が、あのような陰惨なむち打ちだとしたら、キリストはむち打ちの段階で、5回は絶命していただろう。受難の激しさを描こうとする余りに、演出が過度になったということである。

最初のシーン。月夜に照らし出されるゲッセマネの森。実に美しいプロローグだ。キリストが苦悩の表情をして祈っている。するとそこに悪魔が忍び寄ってくる。ここからがいけない。悪魔は、懐から白いニシキヘビを放って、キリストの弱き心を誘惑する。このニシキヘビが美し過ぎる。だからリアリティがない。サーカスで美女が首に巻くヘビのようだ。人の心に忍び寄るそれではない。

ヘビは暗にキリストの内面で、こんなことを囁いたのかもしれない。
「お前はこの場をひとまず逃れて、もう一度体制を立て直せばよい。死んでは駄目だ。逃れるのだ。もう一度荒野へ行き、民衆に教えを説くのだ・・・」

悪魔とは、人間キリストの弱き心である。悪魔の放ったニシキヘビは、キリストの心に忍びよって誘惑を成就させようとする。しかしキリストは、そのニシキヘビを思いっきり踏んで、この場に止まって死ぬことを受け入れる。この時のヘビを踏むシーンの音が「バーン」で、まるで地球が終わるような音である。このシーンで早くも気持ちが後ろに引けてしまった。

この冒頭シーンから、どうも監督が気負いすぎであると感じた。それにどう見ても演出が劇画タッチで白けるのだ。

イタリアにピエル・パウロ・パゾリーニ(1922〜1975)という映画作家にして、ノーベル賞候補に何度も上った天才詩人がいる。彼の映画に「奇跡の丘」(1964)という傑作がある。当時、彼は社会主義者で、無神論者が撮ったキリスト映画として物議を醸した。しかし作品を観た人々は、感嘆の拍手を送った。素晴らしかった。カソリックの人々からも絶賛を浴びて国際カトリック映画事務局賞を受賞したほどだ。

その映画は淡々とマタイ伝(マタイによる福音書)のストーリーを忠実に白黒の映像で追ったものだ。そこには何の気の衒(てら)いもない。素晴らしいのは、ワンシーン、ワンシーンが、どこかで見た絵のイメージと重なることだ。知らず、知らずに、観客は、キリストの生涯に引きつけられてゆく。


イタリア映画には、ネオリアリズモの伝統がある。ネオリアリズモとは、リアリズムの極地というほどの意味で、第二次大戦後のイタリア映画界で起こったドキュメンタリータッチの映画の潮流である。

パゾリー二の先輩にルキノ・ヴィスコンティ監督(1906-1978)という巨匠がいる。彼の初期の作品には、実際のシチリア島の漁民を出演させて生まれた「揺れる大地」(1948)という作品があった。演技は、必ずしも巧いとはいえないが、存在感が違う。画面から発してくる空気感が、イタリアの漁民たちの苦悩のようなものを言外に伝えていた。

このような伝統の系統に、パゾリーニの「奇跡の丘」はある。たとえば、老いたマリアには、パゾリーニ自身の実の母親が出演している。この時、きっと彼女は70歳に近い年齢であったと思われるが、しわ深い表情で、必ずしも、私たちのイメージの中にあるマリア像ではない。しかし強いリアリズムを感じる。キリストが、ゴルゴダの丘で亡くなるシーンで、マリアが荒野を走ってゆくシーンがある。言葉は一切なく、母親としての悲しみが、画面の奥からにじみ出てくる。

映画「パッション」は、監督の作為と思いが勝ちすぎている。人の思いというのは、小津安二郎の一連の作品を観るまでもなく、オーバーアクションの演技で伝わるとはいえない。むしろ、抑制された演技や少ないせりふが、映像作家が伝えたい内面を伝えることがある。

さて、そろそろ本題に入ろう。何故映画「パッション」が、このような痛いだけの映画となってしまったのか。私はそれをキリストの受難に主眼が置かれたために、人間描写が少し疎かになったためと考える。

例えば、ユダヤの王様であるヘデロ王の描写がある。この王は映画では、享楽を貪る怠惰な太っちょに描かれている。映画の文体で言えば、イエスの正義を際立たせるための演出ということになるが、それよりも肝心なのは、誰もイエスという聖人を殺害する罪を負いたくなかったのである。ローマ総督のピラトについても同じ事が言える。つまり彼は、イエスを殺害する張本人になりたくない一心で、決断を常に渋り、まず民衆に伺いをたて、次にヘロデに責任を任せ、「最後の最後に私の責任ではないよ」というように、水で己の手を荒き浄め、「この者の地には、私には責任がない。お前たちが勝手に始末せよ」と言い放つのである。あたかも演出では、ピラトの妻が、キリストのシンパであるような印象の演出をしているが、聖書を厳密に解釈すれば、この嬬の行動は、夫がキリスト殺害の責任を取らされるのが怖かっただけという結論に至る。

更には、カイアファと呼ばれたユダヤの司祭長も一緒だ。誰もがキリストを十字架にかける直接の責任を負いたくないのである。この司祭も、キリストの処遇を民衆に委ねる。

実に情けないことではあるが、この感覚は、現代にも通じるテーマである。誰も責任を取りたがらないのは古今東西において世の常である。弱き心は、人間の悲しいサガとも言える。聖書における悪魔とは、煎じ詰めて考えれば、それは人間の弱さそのものと言っても過言ではあるまい。

映画「パッション」で描かれているように、イエス・キリストの生涯において、受難は大切なテーマかもしれない。しかしもっと大切なのは、人間社会の中で、キリストがその弱き心と闘いながら、自らの命を投げ出してまで、人間のあるべき姿を示そうとしたことである。

キリストの物語としての新約聖書の根本には、人間の弱き心を払拭するためには、どうしたらよいか、という方法論が隠喩として記されていると思われる。ところが、私たち凡なる者は、弱き心を持つ故に、キリストの周辺で蠢く人間と同じように、いつも責任を問われない安全な立場に自分を置きたがる。これは何時の世にも変わらない。キリストが自らの命を犠牲として遺した己の心の弱さとの闘いを教訓として、私たちはどのようにしたら、心の弱さを克服して、自分という王国の主(王)になれるかということを学ぶことができる。そのためのテキストが新約聖書という書物ではないだろうか。私たちは、キリストが次々と押し寄せてくる試練や受難をいかにして克服していったかを、聖書を読むことによって知ることができる。私は、その時のイエス・キリストの人間としての心の揺れこそ見て置くべきであると思う。

死にゆく直前まで、キリストは、「神よ。わが神よ。どうして私をお見捨てになるのですか?」と大声で叫んだとマタイ伝は伝えている。

これは人間イエス自身の最後の迷いであったかもしれない。彼は一瞬一瞬萎えそうになる弱き心を奮い立たせながら、神が与えた過酷な運命に殉じたのである。このように見てくると、新約聖書という書物は、自己実現の書とも解釈することが可能になる。


人は、新約聖書を読むことによって人間イエス・キリストがどんな生き方をして天に召されていったのかを知る。ユダヤ人の大工の倅(せがれ)として生まれたイエスは、ヨハネという先人の生き様に共感し、己の生きるべき道を見つけた。

それは旧来のユダヤ教の教えから生まれ出たものであったが、ユダヤ教とは似て非なる教えだった。まずイエスは、旧来の教義に囚われず柔軟な考えの持ち主だった。彼は人と人が憎しみ争うことを真っ向から否定した。イエスは、「目には目を、歯には歯を」というユダヤ教の復讐の思想を明確に否定し、「右の頬を打たれたら、左の頬を出せ」と言った。更には「汝の敵を愛せ、迫害する者のために祈れ」とまで言ってのけたのだ。

こうしてイエスの平和の思想は、一ユダヤの民の教えを超えて、世界精神にまで一気に昇り詰めたのである。もしも仮に、イエスの根本精神を、その後の政治指導者たちが理解していたならば、多くの悲惨な戦争は起こらなかったに違いない。

イエスの死の12時間に焦点を当てた映画「パッション」に、私はイエスの根本精神と触れるというよりも、イエスの最後の痛みに対する共感の部分を感じる。むしろそこに監督メル・ギブソンの製作意図があるように思える。つまりこの映画の意図するところは、「痛みの共有」にこそあった。これが大きいために、イエスの死ぬ際の痛みを必要以上に誇張し描くことになったのであろう。

私はそこに監督メル・ギブソンの原理主義的な発想を感じる。おそらく、このキリストの映画は、キリスト教徒の中でも、賛否両論があるに違いない。「もっとイエスの根本精神を描くべきで、痛みを強調し過ぎる余り、イエスの根本思想が端役の立場に置かれている」という批判がアメリカでも起こったと聞く。私もこの考えに賛成である。

イエス・キリストの生涯を描くのであれば、やはりその根本精神を描くことは当然であろう。ここまでイエスの死ぬ時の肉体的な痛みを誇張する必要はない。イエスの最後の12時間のドラマで見るべきは、彼自身の肉体の痛みというよりは、様々な心の葛藤や誘惑にも負けずに、己の思う思想に従って、生きそしてその教えに殉じて亡くなったことである。そこにこそ焦点を当てるべきであった。大変な意気込みで製作された作品であるが、残念ながら映画「パッション」は映画史に遺るようなものではない。

映画「パッション」を離れ、今、改めてイエス・キリストという人物の生涯を思う・・・。やはり私たちは、イエスの痛みを共有するというよりも、苦悩しながも、最後まで気力と勇気を奮い起こして、弱き自分と闘った姿や彼の徹底した平和の思想(世界精神)をこそ共有すべきではないだろうか。了
 

佐藤

 


2004.6.17

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