「武蔵」の盗作騒ぎに一言 

−著作権の本質とは何か?−

 

宮本武蔵の大河ドラマが、黒澤の「七人の侍」の盗作かどうかで、問題化している。確かに映画の著作権は、発表年から50年となっていて、文筆家のように没後50年と比べると、少し不平等気もするが、そもそも没後50年という著作権は、創作や学術研究をするものにとっては、常識を越えた長さである。現在のような著作権で保護される期間の異常な程の長さは、本来の著作者の権利を保護するというよりは、その著作物の権利を保有している企業の利益の為のものであって、肝心な問題が抜け落ちて語られているとしか言えないものだ。

したがって私は今回の「武蔵」にかけられた疑惑云々が、まったく馬鹿げた論争としか思われないのである。はっきり言ってどうでもよい。あの程度で、云々するならば、すべての芸術は盗作と言われてしまいかねない。

ピカソを見ればわかる。彼はベラスケスの名作(「女官たち ラス・メニナス」を下敷きにして、そこから自由にバリエーション拡げて描いているが、これだって剽窃(ひょうせつ)となどと持って回った言い方をする向きもあるが、立派な立派な盗作である。しかし誰も盗作とは言わない。今回の騒動の発端は白井佳夫氏という著名な映画評論家が週刊誌上(週刊文春1月23日号)で言い出した話だが、読んだ訳ではないが、発想が貧困でセコイとしか言いようがない。私も多少似ているとは思ったがパクリなどとは思いもしなかった。では「スターウォーズ」のインスピレーションだって、黒澤映画「隠し砦の三悪人」だったはずだが、盗作とは騒がれない。白井氏の黒澤映画を愛する余りの勇み足とも思うがそれが問題になり、NHKが陳謝してこの問題が終わるのは本質ズレも甚だしい。

今回の問題の本質は、著作権というものにある。ただ、エピソードやアイデアを借りた程度で、盗作と言うならば、ディズニー映画はどうなる。白雪姫からシンデレラ、ライオン・キングまで、みんな盗作だ。ところが無断で拝借したキャラクターを、企業のディズニー社は、つい最近(2003.1.15に米連邦最高裁がミッキーマウスなどの著作権保護期間を二十年延長を合憲と判断した事)、著作権を五十年ではなく、更に二十年延長させることに成功した。これは強力なロビー活動をしたお陰である。一方では、著作権切れのキャラクターをただで拝借しておきながら、自分でつくったミッキーマウスなどの著作権が切れるとなると、豹変するこの姿勢は、問題であると思う。

問題は、大企業の著作権に対する異常なほどの執着だ。基本的に著作物を創作した個人の権利は、最大限に尊重されるべきだが、今やこれが、ディズニーのような巨大企業に独占されて巨大な利益を生む材料となっているのは大いに問題だ。そもそもあらゆる著作物は、一定の著作権期間を経て、公的なデータベースに入って広く自由に利用されるべきものである。結局それが新しい著作物を生む種子となり、更に優れた著作物を生む出すことに結びついて行くのである。古来より人間は、先人の古典からインスピレーションを得て、創造活動を展開してきた。

ディズニー社の創業者のウォルト・ディズニーだって、先人が遺した巨大な著作というデータベースを利用して今日の隆盛を勝ち得たのである。自分は良いが、他人は駄目というのは、エゴである。現在のように企業の利益優先の考え方が先行し、著作権保護の期間が、どんどんと長くなってゆくことは、今後の人類の創造活動においても、悪しき傾向と言わざるを得ない。これでは先の「七人の侍」の盗作騒ぎのように、厳格に著作権法が適用され、それこそ自由な表現活動が著作権法によって疎外されてしまうということにもなりかねない。もう少し、著作権の及ぶ期間を短くして、なるべく多くの人が過去の著作物を利用できるように柔軟に考え直すべきである。

名作「七人の侍」(1954年4月封切り)だって、もう発表されてから、五十年近い歳月が流れている。正確には来年で著作権が切れることになる。それが更にアメリカ流の考え方が、日本にも持ち込まれるならば、「七人の侍」の著作権は、これから二十年も、延々と続くのであろうか。著作権を有しているご遺族からすれば、大切な遺産かもしれないが、それよりもっとこの著作権を公的に解放することで、映画文化という大きな人類の創造のデータベースに入ることになるのであれば、黒澤作品の素晴らしさは、余計に大きく語り継がれるようになるはずである。そして何よりも、大河ドラマの「武蔵」の最初のシーンが「七人の侍」の盗作などと言って鬼の首でも取ったような大げさな指摘をする人間も居なくなるのではあるまいか。現在のように、延々と著作権が続くことにあえて異論を唱えたいと私は思う。 佐藤
 

 


2003.1.23
 

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