毛越寺の浄土庭園
大泉が池の美しさの秘密

美と結界

東大門が設置されていたと思われる付近から北西の方向に大泉が池を望む
(2005.5.4)

鍵穴に宇宙を覗く気分してはっとため息大泉が池


いつもその場所を訪れる度に不思議に思うことがある。毛越寺の浄土庭園「大泉が池」である。行くたびに心が洗われるような美しさに出会えるのはいったい何故だろう。けっして大げさに言っているのではない。偽らざる実感だ。春夏秋冬、いつ何時、どのような天候の時に訪れても、その場所は、神聖な美しさを湛えて待っていてくれる。池は、確か東西に180m、南北に100m弱ばかりの小さな空間である。しかし私はそこに宇宙にも匹敵する無限な広がりすら感じてしまうのである。

文化庁長官の河合隼雄氏(世界的なユング心理学の権威)は、「大泉が池の前に立っていると人工的な構築物がまるで見当たらない」ということを言った。確かに敷地内にある御堂や本殿以外の人工物は、みごとにシャットアウトされている。しかし本来より、この池の造形そのものが、「作庭記」という当時の庭園作りのマニュアルに徹底的にそって造られた人工的造形物である。大泉が池は、ここに立つ者に、「浄土」を観想させるための大きな仕掛けあるいは装置ということができる。確かに、よく見ると、けっこう人工的なものが点在していることに気付かされる。しかしながら、河合氏の感慨をわがものとして、意図的に茫洋とした気分を作り、改めて見てこの池を見ると、「なるほどその通り!!」と、見る者を納得させてしまう何かが漂っている。

言うならば、これは実は虚構の浄土である。それが虚構ではなく、紛れもない自然そのものに見えてしまうのである。つまり「浄土」とか何とか言うよりも、この池の前に立っていると、「美」そのものに直接触れているような気さえしてくる。見る者、ここに立つ者を、そのような錯覚に陥らせるカラクリの正体とは何か。河合隼雄氏の「人工物が見当たらない」という実感は、この池を造形した庭作りの達人の催眠術に罹った者の錯覚なのだろうか。あるいは私もその術にはまっているのかもしれない。
 
 

曲水の宴の執り行われる「遣り水」に歌人たちの乗った舟が向かう
(2004年5月23日)

歌人(うたびと)は龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の舟に乗り遣り水目指す青龍のごと

さて、この大泉が池の周囲には、長石が立てられていることによって、「結界」が設けられている。昨日の5月4日、「哭き祭」の後に、結界の外から、偶然どのように見えるのかと思いながら、長石の隙間からこの大泉が池を覗いてみた。そこには天空から射し込む陽光を見事に反射させて銀色に輝く大泉が池があった。私は宇宙というものの美に魅せられた新米の宇宙飛行士のようになった。美しい。あまりに美しい。明らかに観自在王院の舞鶴が池とは、比べられぬ「本物の美」がそこには存在しているように思えた。

何故か。そのことをじっと考えてみた。そして、観自在王院が、結界を持っていないことから来ているのではないかとの考えを持った。観自在王院の舞鶴が池は、つい最近まで、田んぼであった。それがこの所に来て、公園として整備されてきているが、如何せん、世俗的な造形物が多すぎて、大泉が池と違って、「結界」という境界線を持っていないのである。

結界ということを考えてみる。広辞苑は、結界について、「修行や修法のために一定区域を限ること。また、その区域に仏道修行の障害となるものの入ることを許さないこと。」と説明し、その例として、「女人結界」を上げている。また二番目として、寺院の内陣と外陣との間、または外陣中に僧(と)俗の座席を分かつために設けた木柵」と説明している。吉野山や高野山には、今も「女人結界」の石が厳然として存在している。とかく最近の男女同権論の考え方から誤解されているが、かつては仏道修行の妨げになるという理由で結ばれた宗教的領域の境目であったのである。

大雑把であるが、「結界」ということの意味が朧気に分かってきたようだ。結界を結ぶことで、「内」と「外」が出来上がる。すなわち内陣と外陣が構築される。「内」は聖なるもの。「外」は俗なるものである。これは民俗学でいうところの「ハレ」と「ケ」と違いに領域を分けることに通じるのである。

寺社においては、この「ハレ」と「ケ」の境界を厳密に結ぶことによって、俗的なる景色が、聖なる領域に侵入することを見事に防いでいる。そして宗教的領域は俗化から守られているのである。現在の毛越寺の大泉が池の信じられないような美しさの根源には、この石で「結界」を結んだことにあると思われるのである。
 
 

阿宴を終え歌人たちは一抹の寂しさを秘めた安堵をもって大泉が池を還ってくる

寂しさと安堵混じりし思ひもて歌人は還る大門が跡




次に大泉が池の形状を見ながら、大泉が池の内部にも設けられた結界内部の構造と配置について見ていこう。

大泉が池について、「平泉志」(1875)の中で、高平眞藤翁(1831-1885)は次のように記している。
 

『(大泉が池の)池の形は「一心」の二字を表している。「一心」とは天台宗で大切とされる「一心三観」(空観・仮観・中観)のことである。池の広さは東西に百三十間(約234m)、南北に八十間(144m)である。池の中に島を築き左右には、大黒弁天を安置する文珠楼門(もんじゆろうもん)があり、その前から、十間(約18m)の朱色の橋を渡す。中島より南大門までは十八間(約32.4m )の反橋(そりばし)を渡し、池の底には美しい石を配置し、四方の飾り石は、日本と中国、インドという三国の石を用いている。池中には龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の船を浮かべていたと云われる。

その池の跡は、おおよそ今でも往時の姿を偲ばせる。かつての雅な風情と仏の教えを観想させる壮観な姿が浮かんでくる。残念ながら、今は昔の半分ほどのなってしまい、既に中島は没し、西方はほとんど水田となってしまっている。大門の跡から東に五六十歩のところに八〜九間ばかりの出崎(出島)があり、巨大な奇石が並んでいる。その先は、竪石(立石)が二箇水面(すいめん)に並んで顔をのぞかせている。この石を見ていると三重県の二見潟(二見浦)興玉神社の神石のの夫婦岩の面影がある。石の形が二人が出家した後に対立したという逸話に似ているとして羅漢石(らかんせき)と呼び習わしているようだ。

またあるいは双石の意味とも取れる。この石は黒色にて、とても堅緻で光沢がある。江刺郡の黒石村の蝋石(ろうせき)と呼ばれる石に同(おな)しきものある。その他、池のいたるところに巨石が数多く遺っている。これまで度々池の中を浚(さら)うたびに底から美しい石が見つかっている。「大泉が池」という名称も、この池の水が、とても清々しく池と解け合っていて秋風が立つ時などはさざ波に心を動かされる。汀(みぎわ)に生えた蘆(あし)がざわざわとに音でも立てた時には、ここを訪れた者は、往時のことなど思い出して思わず涙など流してしまうのである。この池の南に石碑がある。これは芭蕉の自筆を刻したもので、地元の者は、これを芭蕉塚と呼ぶ。

夏草や兵どもが夢の跡」』   (現代語訳佐藤)
 

明治の頃の景観が彷彿として浮かんでくる。この頃の毛越寺は、荒廃していて、一部は田んぼにもなっていたようだ。伝統を守ろうとする寺僧たちの苦悩が悲しいほどだ。この高平翁の池の規模として記している「東西百三十間(約234m)、南北に八十間(144m)」というのは明らかに間違っている。東西に約180m、南北に約100m弱ということになると思われる。

明治期の荒廃した毛越寺から、毛越寺が立ち直るきっかけは、やはりこの毛越寺という寺に込められた宗教的な祈りがあって初めて出来たものであると考えられる。その象徴が、この池の形状である「一心」という二字にあるということになるのではないだろうか。結界のイメージとして、この「一心」ということを次に考えて見よう。
 

この大泉が池は、「一心三観」の精神をもって作られていると言う。もちろん、高平眞藤翁が言うように、池の形が、字の心を象っているということの確証はないように思える。むしろ私は昔から言われている通り、この池は梵字の「阿」の字に似ていると思ってきた。更によく見れば、「心」(マインド)というよりは本物の「心臓」(ハート)の形を借りているようにも思える。いったいどの説が正しいのか。となると、これは禅問答、あるいは哲学的思索になってくるような気がする。そこで、少し心を自由に解放して瞑想の中で考えてみることにする・・・。

・・・周知のように、「一心三観」というのは、「摩詞止観」(天台大師「智ぎ」の著:538-597)の中にある言葉で、簡単に言えば、「空」と「仮」と「中」を「一心」と、観じることで、己の内に森羅万象の一切がイメージ(観察)できると言う・・・。

そもそも、「空」とは、「色即是空」の「空」の意味で、ナガールジュナ(龍樹:紀元150〜250の人)という高僧が「中論」で説いた概念である。以後、大乗仏教では、この「空」という概念が根本概念になって、「空」は「根源的」とか「始原」を指す意味として用いられ、”一切は「空」”と言うように大乗仏教の根本概念ともなった。但し厳密に言えば、「空」は、ブッダが言った言葉ではなく、私はこの「空」というものは、龍樹の造語であり、ある種の仏法にかけられた魔法の言葉のようにも思っているのである・・・。
 

毛越寺大泉が池の伽藍配置図
毛越寺大泉が池の周辺伽藍配置図

(「奥州平泉黄金の世紀」」荒木伸介、角田文衛、埴原和郎、大矢邦宣著1987年新潮社刊より)

さて当然、「空」は所謂「無」とは違う概念である。「般若心経」はその冒頭で次のように説く。
 

「(仏陀が言う)ある時、観自在という求道者が、智慧の完成を目ざし深く実践修行して、五薀(色受想行識)がすべて空だと見抜いて、一切の生きる苦悩を超越した。」(佐藤意訳) 


では「空」とは何なのか。それは根源であって、その根源には既に見えないだけでエネルギーが充満し、今は何もないかのように見えるが、実は、実体としていつそれが顕現しても、おかしくない状態を言う。例えば宇宙空間に何も見えず、まるでそこが「空」(からっぽ)のようにしか見えないが、実は「空」という根源が充満しているのである。いつそれが爆発して新しい宇宙に突然膨張しかねない。それが「空」である。「空を観じる」ことは物事の根源にある状態を看過することである。

では次に「仮」とは何か。「仮」とは、「空」の状態が顕現し、根源の「空」が変化して「仮」の状態が現れ出た状態を言う。宇宙にある太陽のような星は「仮」であり、人もまた「空」が変化した「仮」である。

こうして「空」の状態は、「仮」として生成変化を遂げ、いつかまた再び「空」の状態に戻ってゆく。つまり宇宙は、「空」の状態が変化して「星」となり、「仮」の状態となり、再び「空」の状態に戻ってゆく。「空」と「仮」の生成は、円環の運動をして止むことがない。そして宇宙は増えることもなければ減ることもない。インド古代からの思想がこの考え方には強く反映している。

人の一生もこのような「空」の運動に過ぎない。つまり何もなかったように見える卵子と精子が出会って受精卵となり、それが母の子宮の中で「十月十日間」という限られた時間の中で成長し、人として生まれる。しかしこの「仮」の状態も長くは続かず、やがて百年にも満たず人は死を迎えて「空」の状態に戻ってゆくのである。

「中」あるいは「中観」とは、このふたつの状態をひとつであると見ることである。それは一種の認識論で、般若心経の教えることは、「空」の運動としての智慧を完成させることを説き、彼岸に渡れと教えているのである。彼岸に渡ることは、大泉が池を舟をもって、あるいは朱色の橋を渡り、彼岸としての金堂円隆寺に至ることを意味する。「中」の立場は、あらゆるものに対する執着を否定し、物事を観る時の偏見を排除する立場を取る。このような「一心三観」の思想を思いながら、基衡公は、この池の形状を決めたのであろうか。あるいは僧侶の強い勧めで穿ったものか。いややはり父清衡公の遺した「中尊寺供養願文」の悲願によって、これを決定したのであろう・・・。

これまで、私はこの大泉が池を、「阿字観」の為に造営された池ではないかと思ってきた。この池の形は、梵字の「阿」の字によく似ている。

「阿」の字は、梵字の最初の字であり、密教では大日如来を指し、やはり物事の始原(根源)を指す一番大切な字である。「阿字観」というのは、修行する者が、蓮華と月輪(がちりん)に阿字を描いた画の前に座り、蓮華や月輪と自分が一体となることを観じることである。

私は以前、宮沢賢治が中学生の時に詠んだ短歌を次のように解釈したことがある。もちろん毛越寺の大泉が池に佇んで生まれた歌である。
 

  桃青の夏草の碑はみな月の青き反射のなかにねむりき

「平泉には夕暮れが迫っていた。賢治たちは、次に毛越寺に参詣した。大門を入ってすぐに賢治たちは、そそくさと、寺内の説明を受けながら、本堂の脇にある芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」の碑の説明を受ける。初五の「桃青」(おうせい)とは、もちろん芭蕉の号である。その碑の向こう方には、浄土を象徴する池、大泉ケ池があり、上空を見上げれば、群青色に染まる空に満月になり切らぬ月が木立の上に懸かっていて、次第に青き輝きを増していたのであろう。もしかしたら、月の光が大泉ケ池に映っていたかもしれない。その中で、古びた芭蕉の句碑が、月の青い光りを浴びながら、安らかな眠りに就いているように、賢治には見えたのであろう。」(佐藤の「宮沢賢治の青の時代」から)


若き賢治の中に、ある種の偶然の「阿字観」が生まれているのを実感した。この池は梵字の「阿」である。そしてその「阿」の中に大きな青い月が浮かんでいる。この池の周囲にある一切(芭蕉の夏草の句碑も含めて)のものは、この池の青い光の中で微睡(まどろ)んでいる。この賢治は、この池の何たるかも分からず、この池が発している意味を一瞬にして「歌」として昇華した。賢治の非凡は、このような直観的感覚にあると思われる。

ここで梵字の「阿字」をもう一度よく見てみる。

そして阿字を左に90度反転させてみる。

下側の楕円が大泉が池と仮定しよう。こう見ると、この阿字は、人の心臓の断面にも見える。下の所が字の線が切れている。この付近が、南大門の位置になる。これは心臓で言えば、静脈の流れのようにもにも見える。上の方を見る。すると太くて真っ直ぐな直線が一本引かれている。毛越寺の結界を表しているようだ。これはまさに観自在王院と毛越寺の間にある都市平泉のメインストリートそのものである。ここには車宿などもあり、ここ道の直線方向には、都市平泉のランドマークである金鶏山の山頂の中心に伸びている。この道は、奥大道と呼ばれた官道を象徴しているようである。更に右には、かつては鈴沢の池から秀衡の居館であった伽羅御所の方向に向かう道が切られている。これは心臓のイメージであるとすると動脈ということになるだろうか。またこの阿字の中に、「遣り水」の痕跡も存在している。池とおぼしき円中央付近から上の挑戦(結界)に引かれたタテ線がそれである。

次々とこんなイメージを膨らませながら想像の翼を拡げてゆくと、この大泉が池が、「一心」であったり、梵字の「阿」であったり、人の「心臓」そのものを象徴していて、どれも間違っていないようにも思えてくる。不思議だ。これこそが新しい毛越寺の大泉が池の新しい見方としての、「三観」ではないかと思いたい気分になってくる。すなわち、大泉が池はのイメージは「心」(マインド)でり、「阿」の字であり、最後に「心臓」(ハート)であるという三つの可能性である。どれも否定せず、可能性として、心にそっと置くことこそ、この池の佇まいに相応しいと思う。

確かに、この池の前に佇んでいると、様々なイメージが大宇宙の星々のようにして脳裏の中で無限に拡がってゆくのを観じる。私は少し想像の翼を拡げすぎたようだ。現実に戻ろう。「空」というものを思想と喩えるならば、結界をもって切られた毛越寺とその中心に位置する大泉が池の周囲に切られた結界は、明らかに「仮」の線である。その為に「空」の思いは形を成して、この地上において比べるものもないほどの美しき池を誕生させたと言うべきであろうか。

つづく



2004.5.20  佐藤弘弥

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