毛越寺の浄土庭園

大泉が池の美
 


 
役割を終えた鞘堂の春
(2004.4.18)


 


古大泉が池の美
 

春夏秋冬と言わず、朝夕と言わず、いつなんどき訪れても毛越寺の浄土庭園大泉が池は、ただただ美しい。いつも私は、毛越寺を訪れる時、「今日はどのような佇まいを見せてくれるのだろう」と思って、どきどきしながら山門をくぐり、一目散に大泉が池に向かう。すると、その度毎に、その時々の気候や刻々と変化する空の光を映して、思わず息を呑んでしまうような景色に遭遇する。ここは極楽浄土への入口かも知れない。そんな気分になる。池の大きさは南北180m、東西90mほどものだ。ただ数字では推し量れない無限の広がりがこの池にはある。

かつて、奥州平泉が栄華を極めていた頃、この池の西側には、南大門と呼ばれる朱色の巨大な惣門(そうもん)がどっかと腰を下ろしていた。ここから中島までは、やはり朱色の反り橋が架かり、さらにもうひとつの反り橋が対岸に向かって延びていた。そこには二代基衡が奥州の平和と繁栄を祈願して建てられた金堂が天に向かって聳えていた。この大伽藍は円隆寺と呼ばれた。そこには丈六(2.6mほど)の薬師如来の本尊と、本尊を囲んで十二神将たちが並んでいた。その余りの出来映えに、京都の公家たちも、このような立派な仏像を奥州に渡してはならぬと嫉妬したほどの傑作だったと言う。

しかし栄華というものはいつの世もあっ気のないもので、文治五年(1189)九月、鎌倉の頼朝に滅ぼされてから、37年後の嘉禄二年(1226)奥州の至宝の寺は野火により焼亡してしまったのである。

今見れば、この池の周りには、寺を囲む木々以外ほとんど何も見えない。もちろんかつてあった壮大な伽藍たちは、ことごとく消えてしまった。今あるのは後に建てられた開山堂と常行堂のみで、池の前に佇んで見えるのは、空を映す池の水と周囲を囲む木々の梢だけと言ってもよい。私はそれでよいと思う。ここにかつて、存在した言葉に語り尽くせないほどに豪奢な建物を復元すると考える人もいる。その必要はない。長い気の遠くなるような歳月が、今の大泉が池の枯れた美を形成したのである。

 訥々と語る翁の人生のように胸染む大泉が池

 

 現在、毛越寺が醸し出す美しさの特徴を端的に言えば、栄華を誇っていた当時とはまるで違って、全てについて過疎であることだ。今回も桜の時期であったが、桜の木の数は、僅か数本である。桜並木などというものは、どこにもない。一本一本の木がまばらに立っているだけである。秋の紅葉の時期も一緒で一面の紅葉というのではない。このまばらさがたまらなくいいのである。

何か現代人は、過疎というと悪いイメージを持ってしまうがそうではない。過疎とは、まばらな風情のことである。とかく過剰で華美に走りがちな現代社会にあって、全ての伽藍が消失してしまい、ただひとつ池だけが昔そのままの姿で遺った。長い歳月をかけて、華美なものがどんどんと失せ、根源に隠されていた大泉が池の本来の美が現れたとも言える。何度この池に訪れても、胸が高鳴るほどの感動を受けるのもわかる。この華美なものがそぎ落とされて現れた過疎的な美しさこそ、何かにつけて過剰を好む現代社会にあって、この池が異彩を放つ理由かもしれない。つまり「まばらであること」が、毛越寺の大泉が池の美しさの根底にある。この毛越寺の美の概念で言えば、「花は少ないほど美しい」あるいは「美しい花は少なくてよい」ということになる。

さて奥州滅亡から5百年後にこの地を訪れた松尾芭蕉は、実は毛越寺に立ち寄っていない。その理由は、必ずしも明確ではないが、あるいは毛越寺と大泉が池の荒廃ぶりを耳にして、見ないでこの地を後にしたのかもしれない。奥の細道では「大門の跡は一里こなたにあり」とのみ記しているが、田野の中に、茫然と佇む大泉が池を目にしたならば、歴史に残るような名句がきっと誕生していたに違いない。

 遣水に流れされ行ける一枚の花になりたや大泉が池

 


2004.4.20

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