茶の稽古にゆくと、茶室の奥に、長めの軸が掛かっていた。
「流水不争先」(流水は先を争わず)
古田織部がどこかで使った禅語らしい・・・。
見事な軸だ。字の姿もいい。
その字は、青い大河を連想させる青の地を背景に、ほどよく黄ばんだ和紙の上を、まさに流水のように縦に流れている。「流」の字は崩しているので「淡水」にも読める。
世は争いの時代である。今日もイラクでは人が死んでいる。明日もまた誰かが、争い事の犠牲となって死ぬ運命にある。
どうして、人は死ぬものであるのに、争い事ばかりに精を出すのか。川を流れる水は、先を争って流れているように見えるが、高きから低きに流れているに過ぎない。
それを争い、競って、流れているように見えるのは、それを見ている人間の心に「争い事」の感覚が充満していて、目が曇っているからだ。
古田織部は、茶の師匠である利休から受け継いだものを、織部なりの個性あるものとして、未来に伝えようとした。
師匠利休は、秀吉に疎まれ、自害をした。弟子織部は、家康に疑われ、やはり腹をを切って死んだ。信念に殉じた師弟だった。ふたりは、茶の湯の哲人として、争わず、ただ流れる水の如く、淡々と、茶の湯という芸事をとことんまで追求した。しかしながら、争う事を生業とする目の曇った権力者たちに殺された。
しかし死は、ふたりの先哲を返って生かすこととなった。いまやふたりの茶人の説く茶の湯は、未来という海原へ滔々と流れる二筋の大河だ。その流れは、けっして、先を急がず、争わず、ひたすら流れ続ける。
茶の湯の奥には、禅がある。茶人は、心が、今この瞬間に感じたままを、じっと茶の湯に込める。すると湯は、客人の腹という大海に向かい静かに流れてゆく・・・。
茶の湯は、ただ黙々と人の心に流水を流すようなもの。先を争わず。淡々と。
織部の心がここにある。
佐藤