鬼剣舞の「鬼」とは義経のこと?!  

-鬼剣舞を東京で見る-
  

2004年10月17日、昼頃、偶然通りかかった中野サンプラザで、宮沢賢治の詩(「原体剣舞連」)でも知られる「鬼剣舞」を拝見した。演じたのは、岩手北上市の「滑田鬼剣舞連」だった。鬼剣舞とは、五色の鬼の面をつけ剣を振り翳して勇壮に舞われる岩手の和賀・江刺地方周辺に伝わる民族芸能である。

まさか東京で鬼剣舞を見られるとは思わなかった。賢治の詩同様、拝見しながら、何故か異様に気持ちが昂揚してくるのを感じた。リズムは、けっして早くはないが、ゆったりとして大地からわき上がってくるような重い波動が腹にズシンズシンと伝わってくる。自分の心がその異次元のリズムに共鳴しているようだ。最後には鳥肌がたつような不思議な感覚を味わった。

鬼とは「和名妙」によれば「隠」(おん)であり、「怨」(おん)である。「隠」には、目に見えぬものという意味の他に「悼む」という気持ちも封印されている。

今日、一般には、鬼剣舞は、要領よく、仏の教えを説く舞などと、方便i建前)の解釈で伝えられているが、あえて私見を言わせてもらえば、まったく違う思い(本音)が込められているのではないかと思う。

この踊りは、蝦夷(えみし)の地と呼ばれた東北の地で御霊(おんりょう)となって亡くなった人々の霊を慰霊すると同時に、大地にその怨と苦を封じ込めて、神となってもらうための儀式ではないだろうか。

だとすれば、この鬼とは、アザマロでありアテルイであり、モレであり、安倍頼時であり、安倍貞任であり、藤原経清であり、源義経である。

平泉に、かつて義経亡き後に、夜な夜な義経主従の怨霊が、高館の周辺を徘徊したという伝承がある。その時、人々は義経主従の怨霊を鎮めるために、彼らの思いを自らの肉体に憑依させて剣舞を舞ったと伝えられている。

つまり、鬼剣舞の鬼とは源義経その人である。その決定的証拠として、私は鬼剣舞の舞人の胸の中央に源氏の門である笹りんどうをつけて踊ることをあげておきたい。義経の居館跡とされる高館の義経堂の義経像にも、その胴丸(胸)の中央には、同じく大きな笹りんどうがくっきりと刻印されている。この笹りんどうの由来は、和賀地方の領家の和賀家の紋だったと云われる。一説によれば、和賀家の祖忠頼は、頼朝の庶子(妾腹の子)であったとの説があるが、どうも系図改竄の疑いが濃い。それより判官贔屓の地元ともいうべき岩手で笹りんどうと言えばまず思い出すのは義経しかいないのである。

この剣舞については、江戸時代の民俗学の祖の菅江真澄(1754?1829)に次のような面白い記述がある。

「けんばいは剣舞(けんまい)が訛ったものである。この剣舞は、厳(いか)めしい仮面を付け、袴(はかま)を履き、襷(たすき)をし、髪を振り乱して、軍扇を持ち、太刀をはき、剣を抜いて舞う芸能である。この剣舞を、高館物化(たかだちもつけ)と云うらしい。それはむかし、高館落城の後に、様々な亡霊が現れし中に、特に怖ろしいものが現れたので、その荒ぶる亡き魂を弔おうとして、物の怪の姿に身を飾って念仏を唱(うた)いながら、盂蘭盆会(うらぼんえ)ごとに舞ったのが始まりとされる。これは少し質は違うが、遠江ノ国(静岡)の才が谷(ガケ)の念仏盆供養と同じである。それが男の子たちの春遊びになったというのも不思議なことである。」
 (菅江真澄全集第十二巻 かすむこまがた続 ヨリ 1785.2.14 胆沢郡徳岡の段 現代語訳佐藤)

この菅江真澄の記述から様々なことが分かる。鬼剣舞から、念仏を踊りながら諸国を遊行した一遍上人(1239?1289)の影が浮かんでくる。鬼剣舞は「念仏剣舞」とも云う。上人は滅び去った奥州を歩きながら、深く傷ついた民衆の心を念仏踊りで癒そうと思い立ち、彼らが愛する地元の英雄源義経を讃えることで、民衆のアイデンティティを呼び覚まそうとしたのかもしれない・・・。

やはり鬼剣舞の中にある言いようのない悲しみは、鬼となって不遇の死を遂げた郷土の英雄たちに対する民衆の暗黙の供養なのではあるまいか。それがいつの間には、盂蘭盆会の時の人々の密かな楽しみとなり、また自らのアイデンティティ確認の舞となったのである。岩手の民衆にとって、やはり鬼剣舞とは、人間の「怨」と「苦」を一身に引き受けて亡くなった郷土の英雄たちの面影を偲び、慰霊するための祀り事だったというべきであろう。

  滑田鬼剣舞連に五首
 鬼となり怨霊となるヒーローの悲しみ腹にズンズンと来る
 とりどりの鬼たち手には剣持ち舞ふ姿見る賢治の高鳴り
 鬼の手が岩に浮かびし岩手なる鬼棲む奥の鬼剣舞視し
 アテルイに貞任義経鬼と化し剣舞舞ゑば奥六揺るる
 由来など知らば知れとて暗黙に伝承さるる剣舞の妙
 
 

資料
 時宗総本山「遊行寺」のある藤沢市の郷土史家平野雅道氏より、上の書き込みに対し、以下のような内容のメールをいただきました。

「地方芸能のなかで、踊り念仏が原型であるものは多い。有名なのは阿波おどり、東北地方は剣舞、盆踊りにそのながれがみられます。使者への供養はいろいろあるなかで、遊行上人の形は踊り念仏として大衆化されます。能の原型も桟敷芝居てすが、遊行時衆の影響をうけます。 このへんの地方文化への考察は、これからのおおきな学問的課題でしょう。小栗判官の伝承文化も、義経伝承も弔い供養の意味から時衆との関係は無視できませんね。」

先日私は、時宗総本山藤沢の清浄光寺(通称遊行寺)本堂で、白石征さん演出の遊行歌舞伎「小栗判官と照手姫」を拝見してきまして、それ以来、ずっと考え続けていることがあります。それは、小栗判官の物語が、余りに現実の話と乖離(かいり)している事実です。あの芝居は、説教節がベースになっているわけですが、まったく真実の小栗と照手の物語とは、まったく違う物語です。いつしか小栗の話は、現実から遊離して、ラブロマンスに昇華しているように思えます。

そこには時宗の教えを広めようとする意図もうかがえますが、何よりも民衆が、情念的な物語を欲していたという受け手側の心の問題があったように思えます。

現代の梅原猛台本、市川猿之助主演演出のスーパー歌舞伎「小栗判官」になると、さらにこの恋物語はエスカレートしています。そこには色狂いの男子としての小栗がいて、最後には、照手姫と結ばれてハッピーエンドを迎えます。

小栗伝説と義経伝説を比較して言えば、小栗伝説の方が、義経伝説よりも遙かに現実から遊離しています。今日の小栗伝説は、いったい何が事実で、どれが伝説なのか、というほど虚と実が入り乱れています。

おそらく、その原因は、義経にまつわる伝説は、源義経にまつわる史実のフレームが、小栗よりもきっちりと確立しているために、小栗ほど童話かおとぎ話のようなレベルにまで、デフォルメできなかったとみるべきでしょう。義経という国民的スターには、常に歴史的事実という暗黙の制約が働いていたということだと思います。しかし小栗は違います。

もちろん義経伝説にも、実は衣川館で義経は死なずに、蝦夷地へ渡ったという北行伝説があり、そこから、まったく荒唐無稽なジンギスカン説に飛んでゆきますが。これは創作、これは事実と明確に分けられます。

ともかく、遊行上人一遍さんが、全国を歩いて広めた念仏踊りが、このような形で、大地に根を生やしていることに素直に驚き感動いたしました。民衆にとって、肉体で表現する踊りというものは、言葉を越えた祈りであり救いであったと改めて感じました。小栗については、もう少し考え続けてみたいと思っています。佐藤



2004.10.18

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