鬼となった男

エノラゲイで原爆投下した人物


 
鬼となった男

人の命というものを、原爆の日の今日に、考えてみたい。

原爆エノラ・ゲイは、一瞬にして巨大な閃光となり、数千度の高熱を発し、広島の人々を跡形もなく消滅させた。その数は、10万人とも12万人ともいわれる。周辺で生き残った人々も、大火傷を負い、水を求めてさまよい、ある人は苦しみ抜いて死に、またある人は、半世紀をたった今でも、その後遺症に悩まされ続けている。その数は、55年後の1999年現在、20万人を遙かに越えている。

さてこのエノラ・ゲイを機長として実際に投下したアメリカ空軍中佐ポール・ティベッツという男がまだ存命している。御年84才。とうに自分の犯した罪に、耐えきれず自殺でもするか、気が狂ってしまったかと思いきや、信じられないことに、自分の行為に誇りをもって余生を送っているという…。

そのポール何某(なにがし)とやら、今年の六月のB29戦略爆撃機の記念広場の資金集めのパーティーの席上で「あなたは広島に原爆を落としたことを後悔していませんか」と聞かれ、

「いいえ、もう一度同じ立場に立たされたら、またやってみせます」その時、退役軍人らが見守る各テーブルからは、万雷の拍手が送られたというのだ。

「これはいったいどうしたことだ。広島で死んだ人々の呪いというものはないのか、怨霊というものはないのか、報いというものはこのアメリカ人に限っては許されるのか、アメリカ人の信じている神は、この原爆の罪をどのように償う気なのか、それとも敵であれば、大虐殺も神は許した
まうのか?」これが我々日本人の素朴な感覚というものかもしれない。

 これに対して私は、このように思う。

黒沢明の「夢」という映画の中で、決して死ねない鬼が登場する。元々農民男だが、自分の作った野菜や牛乳を値崩れを防ぐために捨てていたら、いつしか鬼になっていた。その人間のなれの果ての鬼は、「鬼が悲しいのは、けっして死ねないからだ」と言って絶句する。その程度でも鬼になるのだから、一瞬で十万人を殺害した男が鬼にならないわけはない。

要するに、ポール・ティベッツという男は、鬼となってしまったのだ。神仏は、この男を鬼にすることで生き恥をさらさせて、生かしている。つまり生き続けることこそがこの男に課せられた神仏の罰なのだ。

アメリカの退役軍人や右翼のようなくだらぬ人物に囲まれて、自分の良心を捨てて生きる姿をみると、私はそこにこそ神仏の奥深い智慧(ちえ)というものを感じる。自分が罪と思っていることを、逆に褒められ、ヒーロー化され、自分の意志に反して、生き続けることは、計り知れない苦痛だろう。本人も、死ねないことの苦痛がよく分かってきているはずだ。

神仏は彼にこう言っているのだ。「お前は、原爆投下の事実が風化しないように、最後まで大虐殺の張本人として、最後まで悪を通し、鬼として生きろ」と。

佐藤
 


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1999.08.6