岡井隆氏の新しい歌集を読む 


岡井隆氏の「<テロリズム>以後の感想/草の雨」(砂子屋書房2002年9月刊)という新歌集を読んだ。結論から先に言えば、この歌集は、短歌の新しい方向を示しているように思えた。この歌集は、明らかに世の中で今起こっていることそのものを歌にして詠むという明確な信念のもとに編集された歌集である。短歌の精神もいよいよ本気で、花鳥風月のみやびの世界を脱却しあらゆる世界の事象を余すところなく詠み込む領域にまで踏み込もうとしているのだろうか。その意味で、確かに「9.11」をいかに詠み込むかと試行錯誤をする作者の営為には火が入ったばかりの冬の閑居で黙想する歌人の苦悩が伝わってくる。

タイトルにあるようにあの「9.11」のテロルを歌のテーマとすることで、人類の未来に横たわっている運命のようなものを、歌人の直感あるいは良心というもので、ひとつひとつの歌が綴られている。

その中に短い詞書(序)が付いたこんな歌がある。

  ある日わたしたちは気づいた
 日本は滅ぶかと騒立ちゐたれどもまことは死んでゐるのだすでに

作者は、ある日気づいた。日本が滅ぶかもしれない、と漠然とした不安を持っていたが、実はそうではなく、もう既に滅んでしまったのではないか、と思ったのである。そのように思って、日本という国を改めて見ると、確かになるほどと思うことが沢山ある。

そして作者は、こんな歌を詠む。

 さくら咲いて日本まがひによそほふをマクドナルドの窓よりぞ見る

さくらは日本の象徴である。一方マクドナルドはアメリカ文化の象徴である。牛の肉をミンチしてハンバーガーを売るこの、ファーストフードの雄は、コカコーラと共に世界中を席巻している。作者は、滅んだしまった日本に桜の花が咲くけれども、それは見かけであって、実は既に日本という国はアメリカ文化に占領されてしまっていると感じたのである。

 植民地化の完了したる日本に万葉のことばをつぶやきて棲む

しみじみと自分が、職業歌人であるという不可思議を感じながら、万葉以来の言葉を用いて、作者は歌を詠み続けるしかない。

 国亡きに国の文学などあらうことか亡びるねといひし漱石憶ほゆ

作者は、日本という国の本質にまで遡り、近代というものの成立にまで思考が及ぶ。すると文学のリーダーだった漱石や鴎外の心情の中まで分け入って、「亡びるね」と短く日本という国家について語った漱石顔が浮かんだのであろうか。

  熱なき文字を君はさげすめ
  日本語が次第にアメリカ語化してゆくをきれいな数字もてあらはして見せぬ

思えば、日本語には、多くの外来語が入ってきた。中でもアメリカからもたらされた言葉の移入は凄まじい。言葉は文化の根幹であり、言葉を失う過程があらゆる世界の滅びゆく民あるいは国家が辿る最初のステップである。作者は日本語を駆使して歌を詠むことを生業としている人物だから、余計に、日本語が、アメリカ語によって、どんどんと変質してゆく様のなかに、亡びをつくづくと感じているのであろう。歌の前に添えられている詞書(序)の「熱なき文字を君はさげすめ」はポウの詩の一節である。おそらく作者は、日頃、大した深く言葉の意味も知らぬままに、覚えたての外来語を使う昨今の日本人の言語感覚に嫌悪を感じているのであろう。でも既にそんなことを思う作者の心に浮かんだのが、アメリカの作家のポウの詩だったというのは、少し怖い話だ。

  星条旗掲げて征(ゆ)けばよいものを自衛艦ゆく最後尾より

これは明らかに、今年自衛隊の巡洋艦だったか、アフガン空爆をしたアメリカ艦隊の給油の支援に行った時の心情を詠っている。あの時アメリカの高官は、確か「旗をみせろ」(ショウ・ザ・フラッグ)といって、日本政府に鋭く迫った。しかし日本には平和憲法があり、簡単には海外に自衛隊を遅れない。有事とは何か。という問題が常に曖昧にされ自衛艦は、戦争真っ直中のパキスタン沖に派遣されたのであった。今日(2002.12.5)の朝刊でまた、アメリカがイラク攻撃に踏み切った時に自衛艦が派遣されることが報道されている。今度は給油艦ではなく、イージス艦だそうだ。給油艦とは比べにならないほど、アメリカ艦隊への結びつきが深くなり、アメリカ艦隊の一員に収まったと観るべきだろう。いったい日本国憲法はどこへ行ってしまったのだろう。憲法解釈は、戦後常にアメリカの意向によって、歪められて来た。で、またあの「旗を見せろ」と言った高官は、日本政府の発言を「英断」としていち早く評価する声明を出したと聞く。日本は本当に岡井隆氏が直感したように亡んでしまったのかもしれない・・・。

そして歌集にはこんな悲しい歌もある。

アメリカの属領に棲む民として鈍痛つづく一日二日(ひとひふたひ)は

佐藤

 


2002.12.5
 

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