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義経関連年表


西暦
年 次
年齢
事          跡
歴        史
1147
久安三   頼朝誕生(母は熱田神宮宮司藤原季範の女)  
1159
平治元
1
義経誕生(母は九条院雑仕常磐) 12月平治の乱起こる
1160
延暦元
2
一月、父義朝敗死(三八歳) 三月頼朝配流さる(十四歳)
1167
仁安二
9
  三月平清盛太政大臣となる
1169
嘉応元
11
鞍馬寺に預けられる  
1170
12
  五月藤原秀衡奥州鎮守府将軍となる
1174
承安四
16
鞍馬寺を出て奥州平泉に下向 五月鹿ケ谷の密議
1177
治承元
19
  十一月清盛の女徳子安徳天皇を産む
1178
20
   
1180
22
十月二十一日、黄瀬川にて頼朝と会う 八月十七日、頼朝挙兵
        八月二十三日、石橋山の戦いで頼朝敗れる
        九月七日、義仲挙兵
        十月頃、頼朝鎌倉へ入る
        十月二十日、富士川の戦い
1181
養和元
23
七月二十日、鶴岡若宮宝殿上棟式で馬を牽く 閏二月四日、清盛卒去(64歳)
 
(治承五)
     
1182
寿永元
24
   
 
(治承六)
     
1183
25
冬の頃、木曾義仲追討のため京に向かう 五月、倶利加羅谷の戦い
 
(治承七)
    七月二十五日、平氏都落ち
        七月二十八日、義仲入京
        十月、頼朝東国沙汰権を認められる
        閏十月、義仲軍備中に敗る
1184
元歴元
26
一月二十日、義仲(31歳)を破って入京  
 
(寿永三)
  一月二十九日、範頼と平氏追討に向かう  
      二月七日、一ノ谷に平氏軍を破る  
      八月十七日、左衛門少尉検非違使に任ぜられる  
      十月十一日、院の昇殿を許される  
1185
文治元
27
一月、平氏追討のため、京を出発  
 
(寿永四)
  二月十七日、暴風の中を阿波に向かう  
      二月十九日、屋島の戦い  
      二月二十二日、梶原景時軍屋島到着  
      三月二十二日、船団を率いて壇ノ浦へ向かう  
      三月二十四日、壇ノ浦の戦い  
      四月二十一日、景時、義経の不義を鎌倉へ讒訴 四月二十二日、頼朝従二位叙せらる
      四月二十六日、平氏の捕虜義経の館へ入る  
      四月二十九日、頼朝西国に義経に従わない旨の文送る  
      五月四日、頼朝、同様の文を梶原景時にも送る  
      五月五日、頼朝、同様の文を範頼にも送る  
      五月七日、義経、起請文を頼朝に献ず、頼朝許さず  
      同日、義経、平宗盛父子を連れ京より鎌倉へ向かう  
          五月十五日、義経一行、酒勾に着く、北条時政宗盛らを引き取り義経の鎌倉入り禁ず  
      五月二四日、義経腰越で大江広元に心情を綴る文を託す  
      六月九日、頼朝より宗盛らを京都奈良に送る命じられる  
      六月一三日、頼朝、義経所有の平家没管領を没収  
      六月二一日、義経、近江にて宗盛(三九歳)を斬る  
      八月十六日伊予守に任ず  
      九月二日梶原景時の息、景季京に上り、義経行家を探る  
      十月六日、景季鎌倉に戻り、義経の叛意を報告  
      十月九日、頼朝、義経追討を議し土佐坊昌俊を京へ派遣  
      十月十一日、義経、院に頼朝追討の院宣を請う  
      十月十七日、土佐坊義経を襲う  
      十月十八日、義経行家に頼朝追討の院宣下る  
      十月二十六日、義経、土佐坊を斬首刑に処す  
      十月二十九日、頼朝、義経行家追討のため鎌倉出発  
      十一月三日、頼朝の追討を逃れるため西国行き決行  
      十一月六日、大物浦で大風に合い一行分散、天王寺宿す  
      十一月十七日、静、吉野にて捕縛さる  
      十一月二十二日、義経多武峰に登り鎌足に祈請?  
1186
文治二
28
三月一日、静鎌倉へ護送さる  
      四月八日、静、鶴岡八幡宮で舞う 四月二十四日、頼朝、秀衡に文を送る
      六月十三日、義経母常磐と妹捕縛されかける 四月二十四日、俊成「千載和歌集」
      閏七月十日、義経侍童捕縛、叡山にいたこと白状す 五月十二日、行家斬られる
      閏七月二十九日、静義経の男児産むが殺害さる 八月十五日西行奥州砂金勧進途中頼朝と会う
1187
文治三
29
一月二十日、頼朝、義経の叛逆を伊勢神宮に報告  
      二月十日、義経、伊勢美濃を経て奥州に下る噂あり  
      三月五日、頼朝、義経の所在調査を都へ依頼  
       一条能保の返書により、義経の奥州入り判明  
      三月六日、院宣により高野山で義経追捕の祈祷  
      四月、鎌倉の寺に義経追補の祈祷の命  
      九月四日、頼朝の雑色奥州より戻り秀衡に叛意ありと報告  
      報告。ただちにその者を都へ遣わす 十月二十九日、藤原秀衡没す
      九月二十二日義経残党捜索に使者を鬼界ヶ島に遣わす  
1188
文治四
30
二月十七日、頼朝、義経泰衡共に追討の旨奏上  
      二月二十一日、頼朝、泰衡に義経追討の宣旨下す  
      二月二十六日、泰衡らに義経追討の院宣下る  
      三月二十九日、平泉に宣旨と院宣伝達の使者下向  
      六月十一日、奥州の貢馬、貢金など大磯に抑留させず  
      十月十二日、泰衡に、再度義経追討の命下る  
1,189
文治五
31
二月二十二日、頼朝、法皇に義経泰衡らの処罰を求む  
      二月二十五日、頼朝、雑色を遣わし奥州を探る  
      三月九日、泰衡、義経を追討すべき請文を出す  
      三月二十二日、泰衡追討の宣旨を京に請う  
      閏四月三十日、泰衡、衣川に義経を攻め妻子と共に自刃  
      五月二十二日、義経死すの報、鎌倉に届く  
      五月二十九日、同様の報、京にも届く  
      六月十三日、義経の首、腰越浦に届き、首実検さる  
      六月二十五日、頼朝、泰衡追討の宣旨を請う  
      七月十九日、頼朝奥州追討に出発  
      七月二十九日、頼朝、白河の関を越える  
      八月七日、奥州軍鎌倉軍に伊達軍阿津賀志山で敗る  
      八月二十二日、頼朝、平泉に入る  
      九月三日、泰衡(35歳)郎従河田次郎に殺さる  
      九月二十八、頼朝、平泉を出発帰途につく  
      十月二十四日、頼朝、鎌倉に戻る  
1,190
建久一     二月二十六日、西行河内にて卒去(73歳)
1,192
建久二     三月十三日、後白河法皇崩御(67歳)
        七月二十日、頼朝征夷大将軍に任ぜらる
1,199
正治一   一月十三日、頼朝死す(53歳)  

参考文献 「源 義経」   渡辺 保著 吉川弘文館

     「北条 政子」  渡辺 保著 吉川弘文館

     「源義経のすべて」奥富敬之編 新人物往来社

     「吾妻鏡」    永原 慶二監修 新人物往来社

     「義経伝説」   高橋 富雄著  中公新書

     「日本史年表」  児玉 幸多編  吉川弘文館

     「源 頼朝」   左近 義親著  講談社火の鳥伝記文庫

 

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 最終更新日:1999/8/7 H.Sato