現代語訳 陸奥話記

底本-仙台叢書第一巻奥羽軍記所収(寛文二年の印本)

佐藤弘弥 訳

1 奥六郡の司、安倍頼良の事

奥六郡の首領に安倍頼良という者がいた。この者は、安倍忠良の息子で、祖父の忠頼は蝦夷の首領であった。武力をもって勢力を拡大し、村という村の者は皆これにつき従うほどの勢いがあった。奥六郡を我が物顔で横行しては、村人たちを脅し、掠め取り、その子孫たちも、その勢いに乗って、増え蔓延り、次第に衣川の外にまで勢力を拡大する有様であった。田畑に課せられた税は納めず、定められた公民としての労役も果たそうとしなかった。

長年のこのような安倍氏の奢り高ぶりに対し、誰一人として咎めることはできなかった。時に永承の頃(1046−1052)陸奥の太守となった藤原朝臣登任は数千の兵を引き連れて、これを攻めようと試みた。出羽の秋田城の介の平の朝臣重成を先鋒に立て、自らも兵士を引き連れて後に続いた。しかしながら頼良は、蝦夷の兵をもって、これを防ぎ、鬼切り部において激しい戦いとなった。登任軍は、甚だしい兵士を失い頼良軍に敗れてしまった。
 

2 源頼義鎮守府将軍に任ぜられる事

ことここに至り、朝廷は議論の末に、安倍氏追討の将軍を選ぼうとした。結局、一同の者の一致する所は、ただ一人、源朝臣頼義という武者であった。頼義は、河内の守の源頼信朝臣の息子である。性格は冷静沈着にして物に動じない豪毅さを兼ね備え、戦の駆け引きにも優れていて、最も追討将軍に相応しい器の者であった。

長元の頃(1028−1035)に平忠常が板東において叛逆の徒となって、狼藉を働いた時、頼義の父頼信朝臣は、追討将軍となって忠常並びに嫡子を討伐したのであった。戦場にいる間、頼信の勇猛は群を抜いて優れ、その才気振りは世の評判となった。板東の武士たちは、自ら進んでその下に付く者も多かった。

素を辿れば、頼義は、小一条院の代官であった。小一条院は狩猟を好み、山野に出かける時には、麋(び)と呼ばれる大鹿や鹿、狐、ウサギなどは、常に頼義の餌食となった。頼義は、狩猟の時には、好んで弱い弓を使いながら、それでいて放つ矢は羽を飲み込むほどの勢いがあった。たとえ猛獣であっても、この弦に当たったならば必ず倒れるほどで、弓のうまさは、人並み外れて優れたものであった。

上野の守であった平直方朝臣は、その騎射の見事さに感服し、秘かに会ってこのように言った。
「わしは、不肖の武者ではあるが、それでもあの将門を討ち取った平貞盛の子孫である。だからこそ何を置いても武芸を大切に考えてきたのだが、今だかつて、貴殿のように弓を自在に操る名人を見たことはない。だからどうか、頼みたいのだが、わしの娘を貰ってはくれまいか。下女でも妾でも構わないから」と。

頼義は、直ちに結納を交わし、直方の娘を娶って、三男二女を設けたのであった。その長男が義家、次男が義綱である。頼義は、いつか小一条院の代官の功績により、相模の守となっていた。この地の民は、武勇を好み、その為に民は彼に服従し、その勢いは大い拡大した。これには税の滞納者や拒否者どもも、まるで召使いのように付き従う有様であった。こうして東国武者の大半の者は、頼義の家臣となっていった。

頼義は、相模の守の任を終え、京の都に帰り、数年間を経た時、急に朝廷よりの、人選があり、これに応じて、追討将軍の任を引き受けたのである。朝廷は、彼に陸奥守を位を授けると共に、鎮守府将軍を任を兼務させ、安倍頼良を討てとのご命令を下された。天下の万民は、素から頼義の才能と言うものを承知していたから、誰もその採択の判断に異議を唱える者はなかった。
 


3 阿久利河の事件起こる

永承7年(1052)5月6日、源頼義が陸奥の任地に赴くと、すぐに天下に恩赦の大号令が下った。安倍頼良は、これによって、罪を免れ、大いに喜んで名を、頼時と改めた。これは太守である源頼義と同名であるのは、失礼に当たると思ったからであった。その間、名を頼時と改めた頼良は、一身を太守頼義に委ねるように服従し続けた。こうして国内は平穏のうちに過ぎて行った。

さて頼義の陸奥の守の任期も終わろうとしていた天喜4年(1056)の事。最後の仕事を片づけようと鎮守府に入り、数十日間過ぎる間も、安倍頼時は、頭を低くして、太守のお世話に務めて、駿馬や金の宝などを、この将軍に献上し、また兵士の者にまで気を遣うことを忘れなかった。

いよいよ頼義が、国府のある多賀城に帰る道すがら、阿久利河(あくとがわ)の辺に野営をして一夜を明かそうとしていると、ひそかに頼義の許に現れて、このように進言する者がいた。
「権の守様、藤原の朝臣説貞(ときさだ)様のお子光貞様、並びに元貞様、野宿にて、その人馬を殺傷されました」

将軍は、直ちに光貞を呼んで、「一体誰がそんなことをしたのか」と言われた。
光貞はすぐにこう答えた。「おそらく頼時の長男の貞任に違いございません。あの男は、前から私の妹を嫁に欲しいと言っておりましたが、何しろ賤しい身分の出ですから、これを拒んでおりました。きっと貞任はこれを恥として、根に持っていたのでしょう。貞任以外にこのようなことをしでかす者は他におりません」

将軍は怒り心頭に達して直ちに貞任を呼んで、罰を与えようとした。


4 頼時の覚悟

安倍頼時は、その子供たちや一族のものに向かって、このように語った。
「人の世には、人倫(人の道)というものがあるが、皆これは妻や子を大切にと教えているのだ。いかにわが子貞任が愚かな者であったとしても、父子の情愛というものがあり、これを捨て去ることなどできようか。もしも陸奥の守の誅罰を受け入れて、わが子貞任を渡してしまったならば、きっと一生後悔することになるであろう。この上は、衣の関を封鎖し、たとえ陸奥の守が攻めて来たとしても、それを甘んじて受け、その言い分に耳を傾けるべきではないのだ。だからここに集まった皆もまた、貞任の引き渡しを拒むべきだ。そのことを憂いと思うべきではない。たとえこの為に、戦となり、我が方に不利となって、私や同朋が命を落とすことになろうとも、これも致し方ないことだ」と。

すると周囲に集まった皆はこのように答えて言った。
「頼時様の仰せの通りである。皆、いいか我ら一族が一丸となり、泥を盛って衣川の関を封鎖してしまえば、何人もこの関を破ることなどできないのだ」
 


5 頼義、安倍頼時への内応者として平永衡を誅す

こうしてついに奥六郡へ続く道は、封鎖されてしまった。将軍はますます怒り、大軍を衣川の関に差し向けた。板東の猛者たちは、雲のように集まり、雨が降るようにやってきた。歩兵は数万、荷車、山と積まれた武器は野を覆うようであった。陸奥の国の内部では、この動きにすっかり畏れおののいて、木霊が声に応えるように皆これに従うのであった。

この時、安倍頼時の娘婿である散位藤原朝臣経清や平永衡等もまた、皆、舅の頼時に背いて、私兵を引き連れて、源頼義将軍方に付き従った。この軍が少しずつ前進し、全軍が今まさに衣川に到着しようとした時、永衡は、銀の兜を被ていたが、そこである者が将軍に近づいてこのように進言した。

「永衡は先の司の登任朝臣の郎従として、陸奥の国に下向し、厚く眼を掛けていただいて、一郡を支配するほど出世したにもかかわらず、頼時の娘を嫁に迎えてからは、二心をもって、太守様に従う振りをしながら、実は合戦の時には、頼時方に組みして、登任朝臣には加勢をしなかった不忠にして不義の男でございます。今外に向かっては、将軍に帰順している様子を見せようとも、おそらく腹の中では、汚い策謀をめぐらしているでありましょう。おそらくは、陰にいる密使を使わせて、我が軍の動勢や作戦をこっそり知らせているやも知れません。また永衡が着けている兜は、我が兵士たちと違っておりますが、これはきっと合戦となった時には、頼時の兵たちが、自分を射させない為にしているのでしょう。他国の戦を見てみれば、黄巾の賊たちは黄色の布を着け、赤眉の賊は眉を赤く染めて、敵と味方の軍を判別していたと申します。ですから一刻も早く、あの永衡をお切りになって、内通するのを止めさせるべきかと思います」

将軍は、その進言を聞き、頷いて「よし、そのようにしよう」ということになった。直ちに兵を集め、永衡及びその腹心の者4名を捕らえて、その罪を責め、これを叩き切ってしまった。


6 藤原経清、安倍方に走る

このことを聞いて、藤原経清等は、自分も永衡のように処遇されるのではないかと疑心暗鬼となり、心穏やかではいられなかった。そっと親しき客人にこう耳打ちをした。
「前を行く車が転覆したということであれば、それは後に続く車にとっては、手本である。遠く異国に目を向ければ、漢の国の韓彭(かんぽう)は、高宗に殺害され、それを見た黥布(げいふ)は、我が身もと思い背筋が寒くなったと言う。今や伊具十郎こと平永衡は、すでに殺され、私もまた何れの日に死されるかもしれない。いったいどのようにしたらいいだろう」

客人はこのように答えた。
「経清様、たとえあなた様が誠心誠意をもって将軍に尽くそうと思っても、将軍は、あなた様を疑うに違いありません。あなたを悪く言って、落とし込める噂が聞かれないうちに、ここを逃れて、安倍頼時様の陣に走り、それに従うべきかと思います。ここで独り居て忠功に務めようとしても後悔をすることになりかねませんぞ」

経清は、「その通りだな」と答えて、すぐに軍の中に次のような虚言をを流し、情報を攪乱した。
「今まさに、安倍頼時は、騎兵をもって、抜け道を通り、国府多賀城に攻め入って、将軍の妻子を生け捕ろうとしているらしい・・・」と。

将軍だけではなく、譜代の家臣、新たに家来となった者たちも、皆その妻子は、国府多賀城に住まわせていた。そこで多くの者が、自らの妻子のことが心配となり、将軍に国府に戻ることを進言した。将軍は、側近たちの勧めを聞き入れて、自ら屈強野騎馬兵数千人を引き連れて、その日の夕暮れには、国府に戻ったのであった。そして気仙郡の司であった金為時らを派遣して安倍頼時を攻めさせたのであった。それに対して、頼時は、弟の僧侶良昭らを、遣って関を固めさせたのであった。初めが、為時の陣の方が、随分優勢ではあったが、国府軍の後援部隊がいないものだから、合戦を一度した後は退却したのであった。こうして経清らは、大軍が入り乱れて戦っている間隙をぬって、私兵である800人ばかりを率き連れて頼時の陣に走ったのであった。
 

7 頼義の陸奥守重任

今年、朝廷は新しい国司を任命したのであったが、合戦の報告を聞いて、これを辞退し、任に赴かなかった。これにより、朝廷は改めて頼義朝臣を陸奥守に重任し、安倍氏征伐を続行させた。今年の騒動もあり、国内は飢饉となった。兵たちにも食糧を配給も滞り中には逃げ出す者も出るしまつだった。すぐに捕らえて戻って来るよう説得などしている内に丸一年が過ぎてしまった。

天喜5年(1057)秋の9月、源頼義は、安倍頼時を殺害に及んだ国司としての報告書を上申した。その中には次のように書かれていた。
「私は、金為時、下毛野興重ら、奥地の俘囚を甘言をもって説得し、彼らを官軍の列に加えました。これに 飽屋(かんなや)、仁土呂志(にとしろ)、宇曾利(うそり)という三地域の夷人(いじん)を合わせ、安倍富忠を首領に任命して兵を揃え、為時の下に付けました。すると安倍頼時は、その計略を聞きつけて、自ら富忠のところに向かって、官軍に与せぬように説得を試みようとしました。その時、頼時は兵はわずか二千人に過ぎず、富忠は野に兵を隠して、安倍軍を険阻な地域に待ち構えてこれを迎え撃ちました。戦闘は二日に渡り、頼時は流れ矢に当たって負傷し、鳥海の柵に還ったものの亡くなりました。それでも安倍氏の残党は、未だ降伏しておりません。この上は、官符を賜り、諸国の兵士を徴発し、同時にて兵粮(ひょうろう)を納めさせて、残党をことごとく、滅ぼしたいと思っております。以上をまとめますと、官符を賜り、兵粮を集め、軍兵を動かす、となります」
 

8 官軍貞任軍に大敗す

ところが都における朝廷内の会議は合議に至らず、未だに安倍頼時誅戮(ちゅうりく)の勲功も出されないまま、同年十一月、将軍頼義は、兵1800人余りを率いて、貞任等を討とうとした。一方、貞任は精兵4000人余りを率いて、金為行の河崎の柵に陣を敷き黄海(きうみ)で防御戦を試みた。折りから風雪が激しく吹きすさび、官軍は進軍に苦労をした。官軍は食糧も尽き、人馬共に疲れ果ててしまった。賊軍である安倍氏の軍は、次々と新しい軍馬を投入して、疲弊した官軍に敵対した。これはただ単に敵味方の勢いの差というよりは、軍兵の数の差が歴然で、官軍は大敗して死者数百人に及んだ。

9 頼義の嫡男源義家の登場

将軍の長男義家であるが、その勇猛さは抜群で、弓馬の道の神童の如く長けていた。白刀の間を難なく抜けて、幾十もの包囲網を突き破り、敵軍の左右に現れては、大ぶりの鏑矢(かぶらや)を放っては、しきりに敵軍の将を射るのであった。それでもけっして矢を無駄には発たず、その矢に射られた者は必ず射殺されるというほどだった。まさに雷(いかずち)の如く走り、風の如く飛び、その神業の武勇は、広く世に知られることになった。

夷人(いじん)は、風になびく草のように逃亡し、義家と戦おうとする者は無かった。彼らは義家を「八幡太郎」と号して畏れた。これは漢の「飛将軍」の号と同列に語るべきではないかもしれない。

将軍の従兵のうちある者は散り散りとなって逃走し、ある者は死傷を負い、残る兵は、わずかに六騎となった。長男義家、修理少輔の藤原景通、大宅光任、清原貞広、藤原範季と藤原則明などである。これに対し、安倍氏の賊兵は、200騎余りが、左右に翼を張って囲み込んで攻めた。矢は雨の如く降り注ぎ、頼義将軍の馬は、流れ矢に当たって倒れると、景通が、馬を拾って将軍を助けた。義家の馬まで、矢に当たって死んでしまった。則明は賊軍の馬を奪って、義家を救った。この時には、ほとんどこの窮地を脱れるのは困難に思われた。それでも義家はしきりに矢を放って敵兵を射殺した。また光任ら数騎は、死に物狂いで、敵兵と戦った。こんな行動があって、ようやく安倍軍は引き上げて退いていった。
 

10 頼義の忠臣佐伯経範の死

この時、官軍の中に散位佐伯経範という者がいた。相模の国の人である。頼義将軍は、この人物を厚遇した。官軍が敗れた時、包囲がわずかに解けて逃げ帰った兵に、この佐伯経範が、将軍の居所を問った。しかしながら、やはり場所は分からなかった。その兵が言ったことは、「将軍は賊軍に囲まれておられました。将軍に従う兵は数騎に過ぎず、この状況から脱することは難しいとしか思えません」とのことだった。

そこで経範が言った。「私が将軍と同行するようになって、すでに三十年に及んでいる。今では老兵となり、その齢(よわい)は60歳に達してしまった。将軍のお歳も70歳に近づいておられる。そこで今、将軍が死ぬか生きるかの運命の時を迎えておられるのに、私ひとりどうしてこの場におられようか。命尽きるならば一緒でありたい。将軍が冥土の旅に就くというのであれば、黙ってこれに従う。これこそが私の志(こころざし)である」

経範は、そう言って、賊軍の囲みの中に入っていった。彼に従う兵は二、三騎の兵であった。その兵たちは、このように言った。「主人が、すでに将軍と命を同じする覚悟をもって、忠節に死すと申されたのに、我らばかり、ひとり生きていることなどできようか。家臣といえども、忠節を慕う心は主人と一でありたい」と言い残し、共に賊軍の陣に入っていった。勇ましく賊軍と戦い、あっという間に10人余りを殺害した。しかし多勢に無勢、多くの敵兵を林の如く倒したが、皆賊軍の前に没して果てたのであった。


11 頼義方の苦戦続く

藤原景季は景通の長男である。齢(よわい)は、二十歳余りにして、その性格は、言葉数少なく、騎射に優れていた。合戦の時に臨み、死を目前としても、平然としており、まるで我が家へ帰るがごときであった。颯爽と馳せて賊陣に駆け込み、勇猛な敵将を討ち取って、戻るのであった。このような勇猛な戦を七、八回続けたのであったが、そのうち馬が蹶(つまず)いて、安倍軍に捕らえられてしまった。賊徒安倍軍も、その武勇を惜んだのであるが、将軍に親しい兵であることを憎んで、ついに景季を斬ったのであった。

散位の和気致輔(わけのむねすけ)、孫(紀)為清らは、みな必死の戦場においても、わが一生など少しも顧みず。ことごとく将軍の為に、命を棄てたのであった。官軍の将頼義が、部下である武士たちの死力の闘いに支えられていたことは、みなこのようであった。

また藤原茂頼は、将軍の腹心であった。戦場では常に勇猛によく戦う武者である。将軍が戦場で、戦に敗れて数日後、将軍の行方が分からず、茂頼は賊軍によって将軍は殺害されたものと考えて悲み泣きながらこう言った。
「私は、将軍の骸骨を探し求めて、これを葬りに向かいたいと思う。しかしながら、戦場では、僧侶の格好でなければ、そのことが適わない。そこで髪を剃って、将軍の遺骸を拾って来よう」
そしてたちまち出家して僧となって、戦場に向かったのである。その道で、将軍と遭遇し、茂頼は、大いに喜びまた悲しみながら、将軍と一緒に味方の陣に逃がれて来のであった。彼の出家の行為は、拙速であったとしても、将軍への忠節から出たことで、大いに感じるところがある。

また散位の平国妙は、出羽国の人であるが、やはり勇猛な武者であるが、いつも少ない兵で、敵を破る者であった。それで未だかって敗北を知らず、俗に「平不負(へいふふ)」と号して呼ばれた。(字を平大夫というので、能力を加えて不負と言うのである)将軍は、この人を招いて軍の先鋒に任命した。ところが、馬が倒れて、賊軍の捕虜となってしまった。賊軍の師、藤原経清は、当の平国妙の甥であった。これ故に、死を免れることになったと、官軍の武士たちは、彼の人の勇猛をもってしても、やはり耻(はじ)ではないかとした。

同年12月、陸奥国守から国への報告書(国解)は、このように書かれていた。
「諸国の兵粮(ひょうろう)と兵士を、陸奥国に徴発したということですが、到来の実態はありません。陸奥国の人民は、ことごとく他国に越境して、兵役に従いません。先頃、出羽の国に、越境民の移送を求めたところ、国守の源朝臣兼長は、まったく越境を糺す気持ちをもっておりません。これに対する裁許をいただかなければ、どうして賊軍の討伐を成し遂げることができましょう。云々」

これによって、朝廷は出羽国守兼長を解任して、源斎頼を出羽守としたのであった。一致協力して貞任を討てというのである。しかし斎頼は、破格の恩賞をいただきながら、まったく貞任軍を征伐する心を持たず、諸国の軍兵も兵粮も来ないままであった。

このような有様で、官軍は貞任軍を重ねて攻めることはできず、当の貞任らは、益々奥六郡をわが物顔でかっ歩し、人民から勝手な収奪を行ったのである。貞任軍に寝返った経清は、数百の武装兵を率いて、衣川関を出て、使いを陸奥の諸郡に放って、国に納めるべき物を徴納させた。そこで経清が命じて言ったことは、「白符を用いなさい。赤符を用いてはならない」ということだった。(白符は経清の私的な徴符であった。捺印しないので白符というのである。赤符は国が発行する国符である。国の印があるため赤符というのである)


12 頼義、出羽の俘囚清原氏に応援を頼む

将軍は、経清の白符を制することができなかった。そこで甘い交換条件をもって出羽山の北に拠点を持つ俘囚長(ふしゅうちょう)の清原真人光頼とその弟武則らを説得して、官軍に味方させたのであった。光頼らは、ゆっくりしていて、なかなか決断しなかった。将軍頼義は、幾度も世に珍しい珍品を贈って、光頼、武則らは、ようやく官軍に味方することを承諾した。

康平5年(1062)春、朝廷は、頼義が陸奥守の任期を終えることにより、後任に高階経重を陸奥国守に任命した。経重は馬に乗り京を進発し、陸奥国に入って、その任に就いたのだが、ほどなくして都に帰ってしまった。この理由は陸奥国内の人々が、みな前任である頼義の指図に従っていたからである。朝廷内でこのことについての議論が紛糾する中、、頼義は、盛んに官軍への助力の兵の派遣を清原光頼とその弟の武則らに依頼した。これによって武則は、同年秋七月、子弟と共に万を越える将兵を率いて、陸奥国に越境してきた。将軍頼義は大いに喜び、3000人余りの官兵を率いて、7月26日陸奥国府を発した。

8月9日、栗原郡営岡(※たむろがおか。昔、坂上田村麿将軍が蝦夷を征する日、古事に習いここで軍を整えた。それ以来、この地を「営(たむろ)」と号して呼ぶ。塹(ほり)の跡は、今なお残っている)に到る。

武則と真人は、まずこの営岡に陣を敷いた。二人は久々の再会に、互いに長年の悲喜こもごもの思いを懐かしく語り合って涙を流した。同16日、頼義は、官軍の陣立てを定めた。押領使の清原武貞(武則の子)が、一陣に任ぜられた。橘貞頼が(武則の甥。字は逆志万太郎)が二陣となった。吉彦(きみこの)秀武(武則の甥または聟。字は荒川太郎)が三陣。橘頼貞が(貞頼の弟。字は新方次郎)四陣。将軍頼義が五陣(本陣)となった。さらに本陣(五陣)を三陣に分けた。(一陣を将軍、一陣を武則眞人、一陣を国内の官人。)吉美候武忠(字は班目四郎)を六陣とした。清原武道(字は貝澤三郎)は七陣となった。

陣立てが終わると、清原武則は、遙か南にある京の皇城を拝しながら、天地に誓いの言葉を述べた。
「皇臣である私は、既に子弟を引きつれて、将軍頼義公の命令に従っております。忠節を立てる志をもって、この身の生死をも顧みず、たとえ一命を落とすことがあっても、空しく命を惜しむようなことはせぬ覚悟です。ですから、営岡八幡の三神よ。どうか私の真心を照らし、光りで満たしてください。もしも私が命を惜んみ、死力を尽くさない時には、まず私自身が真っ先に神罰によって、死ぬことでしょう」これを聞いた合同軍の一同は、鎧の臂(ひぢ)を合わせて、いっせいにときの声を上げた。その日、鳩が飛んで来て合同軍のいる上空を翔(かけ)廻った。将軍以下官軍の将兵は、みなこの様子を、奇瑞と感じ仰ぎ見た。


13 清原氏の援軍を得て官軍反撃す

頼義軍は、松山道を進軍して、南磐井郡の中山の大風澤に赴いた。翌日(17日)、同郡の萩野馬場に達した。この場所は、小松の柵を離れること、五町(約550m)余りの地点である。小松の柵は、安倍宗任の叔父にあたる僧良昭の柵であった。日柄が良くないということと、夕方が近づいていたため、この柵をむやみに攻撃するつもりはなかった。ところが武貞、頼貞らが、まず周辺の地勢を見ようと思って柵に接近した時、歩兵が、柵の外にある小屋を焼いてしまったため、これに反応するように小松の柵内から敵軍の声が上がり、矢や石(つぶて)がいっせいに放たれ、戦闘が始まったのであった。

官軍は応戦して、誰もが争って先陣をと志願した。この時、将軍は武則に命じて言った。「攻撃は明日と思っていたが、状勢はこれと違って、当の戦はすでに始まってしまった。戦というものは、チャンスが来たら始めるもの。ただただ吉凶を占い日時を選んで行うようなものではない。それ故に宋の武帝は、凶の日と言われる往亡の日を避けずに戦を始めたために功をなした。だから我らも開戦の機会をうかがい、これにただ従うのみだ」
武則はこれに応えて言った。「官軍の勢いは、まるで侵略する水か火のようです。敵兵の鋒(ほこさき)もけっして当たることはないでしょう。まさにこれ以上の開戦の好機はないでしょう」

そして騎兵を用いて要害を全体を囲み、歩兵には城柵を攻撃させた。

この小松の柵であるが、その東南は、激流が滔々と流れ、青々とした深い淵となっている。また西北には、切り立った壁のような崖が聳え立っている。その為、この柵を攻めようとすれば、歩兵も騎馬も共に泥だらけになる。ところが、兵のうち深江是則や大伴員季らは決死の武者20人ばかりを率いて、剣先で崖の岩に足場を築きながら、鋒を突いて岩を登っていった。やがて柵の下に到達し柵を斬り倒し、城内に乱入して、敵軍と刀(やいば)を合わせて交戦となった。これによって城中は混乱し、賊軍は壊滅して敗れた。賊軍の将安倍宗任は、800騎ばかりを率いて、城外で攻戦した。官軍の先陣は、大変に疲労困憊し、宗任軍を敗ることはできなかった。

ここで、五陣の将たちが招集された。彼らは平真平、菅原行基、源真清、刑部千富、大原信助、清原貞廉、藤原兼成、橘孝忠、源親季、藤原朝臣時経、丸子宿禰弘政、藤原光貞、佐伯元方、平経貞、紀季武、安部師方らである。彼らを先陣に加えて、宗任軍を攻めさせた。彼らはみな将軍頼義直属の坂東の精兵たちである。死がそこにある壮絶な決戦の場において、彼らは我を忘れて闘い、ついにに宗任軍を敗ることに成功した。

また七陣の陣頭である清原武道が、要害の地に陣を敷いていると、突然宗任軍の精兵30騎ばかりが、遊撃兵として襲ってきた。武道は、これを迎え撃ち、そのほとんどを殺害し尽くしてしまった。安倍宗任率いる賊軍は、城を捨て、逃走するに及んだ。官軍は、直ちに火を放ち、その柵を焼き払ってしまった。戦闘において、射殺した敵兵は60人余り。負傷して逃亡した敵兵の数多数。一方官軍の死者は13人。負傷兵は150人であった。兵士たちを休め、武器を整えるために、あえて逃亡した宗任軍を追跡して攻撃することはしなかった。またこの時、長雨に遭遇して、いたずらに数日を過ごすことになった。そのため、食糧が尽きてしまい、官軍はたちまち飢えに苦しむことになった。


14 官軍衣河ノ関まで貞任を追う

磐井郡以南の郡々の民は、宗任の命令によって、官軍の兵站(軍事物資)や往来の人間を引き留めて略奪を行った。このような悪人を逮捕するため、官軍は兵士千人ばかりを分散して栗原郡に派遣した。

また磐井郡仲村の地(花泉町仲村)は、本陣(営岡)から40里ほどの土地であるが、この地の田畠を耕作する民は、とても豊かであった。そのため兵士3000人ばかりを派遣し、稲や雑穀などを苅らせて、これを軍糧とした。

開戦からこの間、18日を経て、本陣の営舎に駐留する兵の数は6500人ばかりであった。

貞任らは、官軍側が食糧の不足に困っているとの噂を聞きつけて言った。「昨日、聞いた話しによれば、官軍には食糧不足が深刻のようだ。そこであちこち食糧確保に兵士が派遣されていて、営岡の営中には兵の数は数千を過ぎずということだ。そこでわが軍が大軍を率いてこれを襲撃すれば、必ずや敗ることができるだろう」

そこで康平5年(1062)9月5日、貞任軍は、精兵8千人余りを率いて、大地を揺らしながら営岡の本陣を襲撃してきたのである。黒い甲冑は、まるで黒雲が集散したように見え、白刀(はくじん)は日(ひ)にきらきらと耀(かがや)いていた。そこで清原武則真人が、将軍頼義の前に進み出て、祝いの言葉を述べた。「貞任は策を誤ったのです。この上は直ちに貞任の首をとって、将軍に進ぜましょう」

将軍はこれに応えて、「わが官軍は確かに分散しており、わが陣営に兵は少ない。それを知って貞任は、大軍をもって急襲したのだから、兵法の理に叶う立派な作戦ということもできよう。ところが武則殿は、『策を誤った』と言ったが、その訳を聞かせてくれないか?」

武則が言うには、「官軍の多くは、遠くからやってきたこの地を知らない兵たちです。食糧も常に乏しい状況です。そこでできるだけ短期のうちに決戦を行い雌雄を決するのが得策と考えておりました。ところが、もしも貞任軍が、もし険阻な柵の中にいて進軍もせず長期戦に持ち込まれたならば、地の利のないわが兵たちは、疲れ果てて、容易に攻めることもできず、中には逃亡する者も出かねません。これではかえって貞任に討たれることになってしまいましょう。私、常にこのことを恐れて参りました。そんな時に、貞任らが、進軍して来てくれたのですから、これはまさに天が将軍に味方をしたようなものです。また賊軍の気色を見れば、黒き楼のようではありませんか。これは戦に敗れるの兆(きざはし)と見ました。わが官軍は、必ずや勝利を得ることでしょう」

将軍は応えて言った。「武則殿の言葉、もっともだ。私もそのように思う」さらに将軍は、続けて言った。「昔、越の王勾践(こうせん)は、忠臣范蠡(はんれい)の策略によって長年の恥を雪(すす)いだとのことだ。今こそ、老臣頼義は、武則の忠義によって、わが朝廷のご威厳を示そうと思う。今日の戦いにおいて、身命を惜しむことなかれ」

武則言った。「今こそ、将軍のために自らの命を鴻毛(こうもう)のように軽くみて命を捨てましょう。死ぬ時には、敵に向かって死に、けっして敵に背を見せて生きようなどとは思わないでしょう」

こうして将軍は、四方隙のない「常山の蛇勢」の陣形を敷いた。将兵たちの奮呼の声は、天地を動かし、両陣営は、切っ先を交て戦った。その間、昼頃から夕方6時頃に至るまで雌雄を尽くして戦った。

義家、義綱らは、周囲を虎のように見て威圧し、鷹のように鋭く襲いかかって、将兵を斬って、敵方の旗を奪った。貞任らは、ついに敗走した。官軍は勝ちに乗して、貞任軍を北に追っていった。貞任軍は磐井川に到り、ある者は迷ったのか船の渡し場を探しあぐね。またある者は高い岸より墜ち。ある者は深淵に溺れる有様だった。逃げ場を失った敗残兵が無謀にも官軍に襲いかかり、殺害される者もいた。戦場より磐井川の岸辺に至るまで、射殺された貞任軍の兵は100人ばかり。官軍が貞任軍から奪った馬の数は300匹ばかりに及んだ。

将軍は武則に命じた。「深夜で暗いといっても、敵軍にゆとりを与えてはならない。さらに追走して攻めるように。今夜一晩、敵にゆとりを与えれば、明日には勢いを戻すかもしれない」

そこで武則は、精兵800人ばかりで、暗い中貞任軍の跡を追った。将軍は営舎に帰って、将兵を疲れた将兵を饗していたかと思うと、明日の戦のために武具を整えた。親しく営舎を廻っては、負傷者を気遣った。武者たちは、みな感激してこんなこと言った。
「わが本意は、この命が恩の為に使われたいと望む。命は義の前にあっては軽いものだ。たとえ今、将軍の為に死んだとしても誰を恨むこともない。唐の太宗が自らの鬚(ひげ)を焼いて、傷ついた将兵の膿を啜ったということだが、わが将軍の気遣いもそれ以上ではないか」

武則は、策略を実行に移した。死を厭わない勇猛な武者50人を編成したのである。彼らは不意を突いて西山より貞任の陣中に侵入し放火。同時にその火を合図に、官軍兵が三方よりときの声を上げて攻撃を仕掛けたのである。不意を突かれた貞任は、仕方なく陣をでてくるはめになった。貞任の陣中は混乱した。敵軍は驚いて騒ぎ、同士討ちまで起こった。夥しい死傷者がでた。そしてついに高梨の宿と石坂の柵を放棄して、衣河の関に逃げ込んだのであった。貞任軍は歩兵も騎兵も闇夜に迷い、岩場から足を踏み外し谷底に墜ていった。三十町ばかりの間に、戦に倒れた人馬が、あたかも乱れた麻布を拡がった光景だった。そこかしこに内蔵の飛びでた屍(しかばね)が散乱し、人馬から流れた油が、野を潤していた。


15 衣河関での攻防戦

9月6日正午の時、将軍は安倍軍の高梨の宿に入り、即日、衣河の関を攻撃しようと思った。衣河の関は、元来路は狭く、その上足場が悪く険しいことで、この関を攻め落とすのはあの函谷関(中国河南省にある関)よりも難しいといわれる。

何しろたった一人が険阻な道に立ち往生すれば、たとえ後ろに1万を越える兵が控えていたとしても、一歩も前進することはできない。貞任軍は、官軍の攻撃に備え、いよいよ関に続く道端の木を斬り、谷を塞ぎ、岸を崩して、路を断ってしまった。さらに長雨は、いっこうに止むことなく、衣川の流れは溢れかえっていた。それでも出羽から来た三人の武者(押領使)は三方から攻め込んでいった。武貞は本道である関道を攻め込み、頼貞は衣川の西から上流に回って船着き場(上津衣川道)から、武則は東にから関の下道から攻む込んでいった。

戦闘は午後2時頃から午後8時まで続いた。官軍の死者は9人。負傷者は80人ほど。武則は、馬から降り、関の岸辺を観察し、久清という武者を呼んで次のように命じた。
「両岸に川面に向かって曲った木があるのが見えるだろう。その枝葉は川面に垂れている。お前は身軽で敏捷、飛んだり跳ねたりするのが得意だったな。そこでお前に命じるのだが、お前はこの彼岸にある木を伝って、密かに賊軍の陣にもぐり込み、砦にに火を掛けろ。貞任軍らは、おそらく営舎の火事に驚いて混乱して走り回るだろう。これに乗じてわが軍は、必ずこの関を破ってみせよう」と。

久清はうなずいて、「たとえ死んでも生きてもご命令に随いましょう」と。すると、久清は、猿が飛び跳ねるようにして、たちまち向こう岸の曲った木にたどり着くと、縄を伸ばして、葛の木に巻き付け、味方の武者30人ばかりを同じように川を渡らせることに成功した。久清は、貞任の腹心である藤原業親(ふじわらなりちか:字は大藤内)の柵に達して、不意に火を放って焼いた。貞任らは。業親の柵の焼亡を見て、大いに驚き、衣河の関を放棄して、鳥海の柵を守ろうと遁走したのである。かくしてこの戦闘で久清らのために殺された貞任軍の兵士は70人ばかりに上った。

翌日7日、官軍は衣河の関を破り、胆沢郡白鳥村に進軍した。大麻生野と瀬原(水沢市前沢町白鳥館周辺)の2柵を攻め落として捕虜1人を捕まえた。この武者が言うことには「今回の度々の合戦の場で、わが軍の将の死者は数十人に上っている。この中には、あの散位である平孝忠殿、金師道殿、安倍時任殿、同貞行殿、金依方殿などである。この方々はみな大将である貞任殿と宗任殿の一族である。また勇猛で鋭敏で名の通った選りすぐりの武者であった・・・」と。


16 宗任、経清等、鳥海の柵を放棄す

同11日、官軍は、明け方鳥海の柵を襲った。進軍の行程は10里(約6.5キロ)ばかり。ところが官軍が到着しない前、すでに宗任、経清らは、この城を捨てて、厨川の柵(盛岡)に向かった後であった。将軍は鳥海の柵に入城して、しばらく将兵休息させた。城内の一屋に美酒を入れた数十の甑(こしき)が置いてあった。将兵らは、匂いに誘われて争ってこれを飲もうと群がった。しかし将軍は、これを制止した。「恐く敵が、毒の酒を仕掛けて、疲れたわが軍を騙そうとしたものかもしれない」ところが、雑兵の二人が、これを飲んでも何ともない。そんなことで、全軍の者が、みなこれを飲んでひと息をついて、みな「万歳」などと叫んだのであった。

将軍は武則に語りかけた。
「近年、鳥海の柵の名をずっと聞いていたが、その実際を見ることができずにいた。今日、そなたの活躍によって、初めてこれに入ることができた。武則殿、私の顔色を見ていかに感じまするか?」

武則は応えて言った。
「あなた様は、ずっと王室のために忠節を尽くして来られた。風の中で髪をくしけずり、降る雨で髪を洗い、ノミやシラミのたかった甲胄を着て、官軍を率いて苦しい遠征の旅を続けられた。すでに10年以上の歳月が過ぎておられる。天地にいる神仏は、あなた様の忠孝を助け、わが将兵たちはみな、その志に感じ入っております。こうして壊滅した賊軍が敗走したことは、堤を切って満々とたまった水が流れ出したようなものです。愚臣(私)は、鞭をもってあなた様の指揮に随っただけのこと。ことさらの武勲などありましょうや。そこで将軍のお姿にを拝見するに、白髪が半(なか)ば黒に戻っているようにも見えます。この上は、厨川の柵を破って、貞任の首を取ることができれば、将軍の鬢髪(びんぱつ)は、おそらくことごとく真っ黒となり、痩せられたお身体もふっくらとされるのではないでしょうか」

将軍は言った。
「武則殿は、子息や甥など一族を率いて、出羽の地から大軍を発して来られた。堅牢な甲冑に鋭い刀剣を持ち、自ら矢や礫(つぶて)に立ち向かって、陣を破り城を落としてきた。その戦術は、まるで円石を転がすように理に叶ったものであった。その活躍によって、私も王室に対し忠節を遂げることができたのである。武則殿よ。そなたは功を私に譲ることなどないのだ。ただ私の白髪が黒く戻ったというのは、私も冗談でも、なるほど、とうれしく思うぞ」

武則は深く感謝して頭を下げ、直ぐに安倍正任の居城和賀郡にある黒沢尻の柵を襲い、これを落城させた。射殺した正任軍の兵32人。手傷を負って逃亡した将兵の数は多数。また鶴脛(つるはぎ=花巻市鳥ヶ崎付近?)、比與鳥(ひよどり=紫波郡陣ヶ岡?)の二柵も同じくこれを落城させた。


17 官軍、厨川の柵を囲む

9月14日、官軍は厨川柵に向った。

15日、午後6時頃(酉)に到着した。厨川、嫗戸(うばと)の二柵を包囲した。ふたつの柵の距離は、7、8町(650−760m)ほどである。このふたつの柵を封鎖するため鶴翼の陣を張って、終夜これを守備した。ふたつの柵の西北には大きな沢があり、柵の二面は河によって隔てられている。その河岸には、三丈(9m)以上の壁が構築されていて遮断されている。貞任軍はその中に柵を築き、防御の構えを取っている。柵の上には物見櫓(やぐら)を構えて、精兵が敵兵の動向を見張っている。河と柵の間には、敵兵を防ぐための溝を堀り、その溝の底には、無数の刀を逆さまに立て、その下にはまきびしが蒔かれている。遠い敵には、弩(ど=いしゆみ)を放ってこれを射殺し、接近した敵には、礫(つぶて)を投てこれを倒す。敵が柵の下に到達したとすれば、上から熱湯を沸かして注ぎ、弱ったところを鋭利な刀を振って斬り殺すのである。

そのような堅固な柵に官軍が到着した時、城内にいる兵は、官軍を招き入れるように言った。「さあ、いつでもかかって来い」すると、雑仕女(ぞうしめ)たちが数十人、高台に登り、歌を唱(うた)って、官軍を挑発した。

将軍はこれに腹を立てて、自ら16日、早朝6時頃、柵を攻撃した。それから官軍は、昼、夜を問わず、連射式の弩を乱発し、矢と礫を雨あられと降らせたが、城中はビクともせず落城させることはできなかった。逆に官軍の死者数は数百名に及んだ。


18 頼義、経清の首級を斬る

17日、午後二時(未)頃、将軍は将兵に次のように命じた。
「各自、近くの村落に行って、家屋を壊して、ここに運び込め。そしてこの城の溝を埋めるのだ。また別の者は、それぞれ萱(かや)を苅ってきて、これを河岸に敷き詰めるのだ。」。

この命令により、短い間に壊した家屋の木材や刈り取った萱が山のように積まれた。将軍は馬を下りて、京の都を遙拝して誓いの言葉を述べた。
「昔、漢王の徳が衰えない頃、校尉将軍の忠節に感応し枯れていた泉が、たちまち溢れて窮状を助けたと申します。今、わが朝において天皇の威厳は新たかです。この威光により大風が起こり、私の忠節をお助けください。伏してお願い申し上げます。八幡宮の三神よ、どうか風を吹かせ、火を起こして、あの厨川の柵を焼いてください」と。

すると将軍は、自ら火を取り、「これは神火である」と言ってこれを柵の中に投じた。この瞬間、鳩が飛んで来て、官軍の陣の上空を翔け廻った。将軍はこれを奇瑞と感じて手を合わせ二度拝んだ。

すると、暴風がたちまち起きて、炎と煙が風に煽られて柵の中に飛ぶように流れ込んでいった。これより先には、官軍が射る矢のほとんどは柵の板や櫓に刺さって、まるで蓑毛(みののけ=みので編んだ雨具)ような有様で効果がなかったのだが・・・。今は、炎が飛炎となって風になびき蓑毛のようになっていた矢羽に火を付け、柵板や櫓や屋舎にまで火が移ってしまった。城中から男女数千人の悲鳴が聞こえた。貞任軍は、混乱して、ある者は、緑の川面に身を投げ、ある者は刀で首を刎ねて倒れた。これを見た官軍は、川面を渡って攻撃した。この時、貞任軍の決死隊数百人が、甲冑に刀を激しく振るって、官軍の囲みを突き破って現れた。元々死ぬ覚悟の者ども、これによって官軍に多くの死者がでた。武則は、将兵に命令した。
「わが方の囲みを開いて貞任軍を外に出せ」官軍の兵たちが、囲みを解き放つと、敵兵たちは、みな外に気を取られて、戦ずに逃走する状況となった。これによって官軍は、貞任軍を好きなように打ち倒して殺害した。

これによって、ついに藤原経清が、生虜(いけどり)にされた。将軍は目の前に引き出して言った。「お前は、わが源氏の先祖伝来の家来の分際でありながら、このところ、朝廷の威光を蔑(ないがし)ろにして、私という主君まで侮蔑してきた。これは親を殺すに等しい大罪であり、人の道を外した行為だ。どうだ。お前は、捕まった今でも、白符を発行して不正行為をできるのか。答えてみよ」と。

経清は首を伏したまま、これに応えずにいた。将軍はこれを深く恨み、刃のこぼれた鈍刀を持ってこさせて、経清の首をゆっくりゆっくり斬らせたのであった。これはすべて頼義が経清の痛苦をできるだけ延ばしたいと思い、そのようにさせたのである。


19 貞任の最後

貞任は、剣を抜き、官軍を斬った。官軍は、鉾をもって貞任刺して捕らえた。貞任は六人が担ぐ大楯(おおだて)に載せられ、これを将軍の前に召し出された。貞任は身長は180cmを有に越えて、腰回りは2m20cm(七尺四寸)ばかり。容貌は人並み外れて大きく立派であった。その肌は、肥満して白い。将軍は貞任の罪を責めたが、(重傷を負っていた)貞任は頼義を一目にて死んだ。弟重任も斬れた。(この者字は北浦六郎言った)しかし宗任は、厨川の柵より、自ら深い泥の中に身を投じて逃亡してしまった。貞任の息子は、年齢13歳で、名を千世童子と言った。その容貌は、整っていて美しく、甲冑を着けて、柵外に出て、まことによく戦った。その戦場での姿は、父貞任や祖父頼時の跡目を継ぐ者の風情があった。将軍はこれを哀れに思い、罪を赦そうと思った。

ところが清原武則が次のように進言をした。
「将軍、小さな義の裏に、大きな害があることを忘れてはなりません」

将軍は、この言葉にうなずいて千世童子を斬らせた。この時、貞任は享年34歳だった。城中の美女数十人は、みな絹の羅(うすもの)を着て、金や翠(ひすい)を身に付けていたが、落城の際には、煙に巻かれ、悲しのあまり泣きながら、柵外に引き出された。将軍は、ひとりひとり(功労のあった)武者に賜った。

城中の中にひとりの美女がいた。この人は則任の妻であるが、厨川の柵が落ちる時、三歳になる息子を抱き、ひとり夫の則任に叫んで言った。
「わが君よ。今あなた様はまさに死を目の前にしておられます。この先、私ひとりで生きていくことはできません。あなた様より先に死のうと思います」
そして幼子を抱きながら、自ら深い崖に身を投じて死んでしまった。まさに節操のある気性の激しき女性(烈婦)というべきである。その後、日を置かず、貞任の伯父安倍為元(字は赤村の介)と弟の家任が自首してきた。さらに数日後、宗任ら9人も官軍に投降してきたのであった。


20 義家の武勇

同年12月17日の国解に次のような記録がある。
「斬り殺した賊軍の者は、安倍貞任、同重任、藤原経清、散位平孝忠、藤原重久、散位物部維正、藤原経光、同正綱、同正元、帰降客安倍宗任、弟家任、則任(出家して帰降)散位為元、金為行、同則行、同経永、藤原業近、同頼久、同遠久らである。この外に貞任の家族に遺族などはいない。ただし正任一人はいまだに投降していない」


僧である良昭は、すでに陸奥国から出羽国に行って、国守源齊頼に捕縛されている。正任は、当初出羽国の清原光頼の嫡子で、字を大鳥山太郎ョ遠という者のところに隠れていたが、後に宗任の投降した話を聞きて、自ら出てきて逮捕されたとのことである。

合戦の際、義家が甲冑を着た武者を射る度に、彼らはみなその弓弦の音に呼応するように倒れて死んだという。後日、武則がそのことの理由を義家に聞いたことがあった。
「私は、あなた様の弓の強さを試したいと思いますが、いかがでしょう」

義家は「いいですよ」と言った。

武則は特に頑丈な鎧を三領を重ねて、これを木の枝に括り付けて的とした。これを義家は一発で三領の鎧を貫ぬいてしまった。武則はとても驚いて「これは神の化身の仕業ですね。とても凡人が作った鎧が堪えられるものではありません。次々とあなた様の下に武士たちが帰順する理由はこのためですね」と。義家の弟義綱は、勇猛な武者であり弓馬の道は、その兄の義家に次ぐ技量の者である。


21 貞任、経清、重任の首、京の都に

康平6年(1063)2月16日、頼義は、貞任、経清、重任の首三級を朝廷に献上した。これにより京都は物見の民が溢れて壮観となった。牛車の車輪は他の牛車にぶつかり。人は肩を擦り合うようにして行き交った。(事の子細は別紙に説明をする)三つの首を担ってきた担ぎ手は、実は元貞任配下の投降者であった。この者が、「貞任の髪を整えたいのですが、櫛をお貸しいただけませんか」と役人に所望すると「お前らには、自分用の櫛があるであろう。それを使って整えればいいではないか」と言われた。

担いで来た者は、しかたなく自らの櫛を取って、主人貞任の髪を梳った。その者が涙を流し、鳴咽(おえつ)しながら言った。
「私の主が、生きていた時には、そのお姿を仰ぎ見ること天を望むような気持ちでしたのに、よりにもよって、私の垢の付いた櫛をもって、その尊いお方の髪を整えることになるとは、申しわけなくて、悲し過ぎます」と。

これを見た都の人々は、みな涙を流した。担ぐ者と侮るなかれ、その忠義の深さは、人々を涙に誘うには十分だったのである。


22 安倍氏誅伐の論功行賞と頼義への讃辞

同年2月25日、除目(じもく=国司など地方官の任命式)の時、源頼義朝臣は、賊軍征伐の勲功を賞して正四位下伊予守に任命された。同じく嫡子太郎義家は従五位下出羽守に任ぜられた。次男次郎義綱は右衛門尉となった。一方清原武則は従五位下鎭守府将軍に任命された。賊徒三名の首を献上した使者の藤原季俊は右馬允(うまのじょう)となった。物部長頼は陸奥の大目(さくわん)となった。

この度の勲賞の顕著さは、天下万民の賞賛するところとなった。中国においても、北部に住むという戒狄(いてき)の勢力が強大なために、これを制することができず、漢の高祖は、平城において包囲されて窮地に陥った。そのため高祖の妻の呂后(りょこう)は、侮蔑の言葉に堪え忍ばなければならなかった。わが国では、古代よりしばしば、大軍を発して、国費を出費することはあったが、戎(えびす)に大敗することはなかった。

坂面傳母禮麻呂(さかのものてもれまろ=坂上田村麻呂)は、降伏するとの請願を受け取って、すべての奥六郡の諸部族(諸戎:しょじゅう)を征服して、わが国の歴史に末代までのその名を記すことになった。この人物は、北の守りを司ると言われる毘沙門天の化身にして、希代の名将である。

それから200年の間に、ある猛将は、ひとつの戦に勝利したり、知謀に優れた臣下は、六つの奇策(六韜三略?)を用いて、単に一部族や一部落を征服したはあった。しかしながらかつて、わが国の兵力を最大限に活用し、奥六郡すべての諸部族を征伐することはなかった。

ところがこの度、頼義朝臣は、自ら先頭に立って矢石(しせき)浴びながら、戒人(えみし)の鋒(ほこ)を砕いてしまった。まさに歴史に遺る殊勲というべきである。これはあの至支単于(しつしぜんう=人名)を斬った武勲や、南越王の首を梟(きゅう)した功績に、列するような優れた勲功である。

以上は、陸奥国の国司が提出した国解(報告書)を妙録し、さらには伝えられた話を拾い集めて、これを一巻として記録したものである。ただしこの書は、千里の外にて編纂したもので、おそらく間違いも多いものと思う。真実を知る人は、どうか正確なものに正してください。


陸奥話記本文 了



底本は仙台叢書第一巻奥羽軍記所収(寛文二年の印本) 使用。
現代語訳には、現代思潮社版「陸奥話記」(古典文庫1982年刊、底本は明和7年伊勢貞丈書写本)並びに岩波書店日本思想体系8「古代政治社会思想」所収版(底 本=尊経閣文庫蔵本)、小学館日本古典文学全集41所収「陸奥話記」<(2002年刊)底本は伊勢貞丈書写本>を参考にした。



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陸奥話記原文・読み下し

  2002.2.3
 2012.5.14 Hsato