ドーピングの誘惑とオリンピック精神

-室伏選手の金メダルに思う-

アテネオリンピックの最終日に、とんでもない事件が起こった。銀メダルとばかり思っていた日本のハンマー投げ室伏広治選手(29歳)が、金メダルを獲得したのだ。それは金メダルだったハンガリー選手が、ドーピングで引っかかり金メダル剥奪となったからだ。どうやら、彼は他人の尿を自分の膀胱に注入し、ドーピング逃れをしようとしたようだ。それは採取した尿の少なさ、競技当日の不審な行動、同じコーチの円盤投げ選手がドーピング違反など状況証拠がいくつも浮上し、結局、最終日に金メダル剥奪となったのである。

ドーピング不正のやり方は、年々巧妙になりつつある。最近では尿道から、細いカテーテルを使って他人の尿を注入するというのだから、もう何でもありの有様となった。そこまでして金メダルを取りたいのか、と素人は思うのだが、その競技にのめり込んで、何年も努力した人間にとって、最後には、どんなことをしても勝ちたいとなるのも事実のようだ。

かつて、1988年のソウルオリンピック100mで、目を真っ赤にして、鎧のような体をしたカナダのベン・ジョンソンが、驚異的な世界記録でテープを切って、アメリカのカール・ルイスを押さえて金メダルを取ったのだが、直ぐにドーピングに引っかかって、メダル剥奪、そして陸上界から消えていったことがある。同じ大会で、爪のおしゃれで有名なアメリカのジョイナー選手がこれまた驚異的な世界新でゴールし、ドーピングを噂されたが、失格とはならず、その後若死をしたことがある。

薬物使用は、肉体には相当な負荷がかかり、場合によっては、命にかかわることもある。それでも、アスリートにとっては、まさに悪魔の誘惑のような薬であることに違いはない。

こんなスポーツ界の現状を見るにつけて、私はいつも「ファウスト的衝動」ということを考えてしまう。「ファウスト」は、ゲーテの劇詩で有名なキャラクターだが、ルネッサンス期に実際に実在した人物であったという。ファウストのイメージは、悪魔に魂を売り渡す契約をして、魔術を使えるようになり、放縦で享楽的な人生を送り、ついには悪魔との契約が切れた瞬間に死んだ怪人ということになる。ドーピング違反は、まさにファウスト的衝動のなせる技であると云えるだろう。

よく考えて見れば、この文豪ゲーテも取り上げたファウスト的衝動は、何もスポーツ界に限らず、どのようなジャンルでも存在する心理かもしれない。究極なレベルに到達したいと願う気持ちはどの分野の人間でも同じだ。つまり、人間に争い事があり、そこに欲が介在すれば、誰にもファウストのメフィストファレスに相当する誘惑の悪魔は現れると思うのである。そうなるとこのファウスト的衝動は人間の普遍的な衝動のひとつになるわけである。

凡人の考え得ぬ究極の世界に到達したい願うファウストしてみれば、凡人たちが、一遍の常識的な道徳観を説いて、「悪魔に魂を売り渡してはならぬ」と云ったところで、彼は、きっとあざ笑って次のように云うだろう。
「凡庸な世界に生きる者よ。ワシとってソナタの意見は無意味無価値なハナクソに過ぎぬ。ただ人生の安楽を願う者よ。ワシの前から去れ。ソナタに世界の誰もが到達し得ない次元の知を得たいと願うワシの気持ちなど理解できるはずはない」

だからこそ、ドーピング問題とは努力している人間にとって、実に根の深い問題といえる。そこで私は、日本の室伏選手が、タナボタの金メダルの会見の席上で披露した次のギリシャ古代の詩人「ピンダロス」の詩の一節に注目をする。次の言葉は、常に悪魔に魅入られる環境にあるアスリートへの戒めとして最高の助言となるかもしれないと思うのである。

「真実の母オリンピアよ あなたの子供達が 競技で勝利を勝ちえた時 永遠の栄誉(黄金)をあたえよ それを証明できるのは 真実の母オリンピア あなたのみ」(「あなたのみ」は佐藤が付け加えたもの)

この言葉は、彼が受けた銀メダルの裏に古代のギリシャ語(ラテン語か)で書かれていたものだ。しかし今、古代の言葉を読解出来る人は少ない。そこで専門家に依頼して訳してもらったものだという。

このエピソードは、ソクラテスが、神殿の門の上に書かれていた言葉、「汝自身を知れ」という言葉に感得して、自己の無知を知り、ついには、ギリシャにおいて、「初めて自分の主となったアテネ人」と呼ばれるようになったことに通じる。

29歳で世界のトップアスリートに登り詰めた室伏広治が、真に先の「真実の母オリンピア」の詩魂を理解し、平和の祭典オリンピックの心を世界に伝えて行くならば、彼は次回の北京オリンピックと云わず、単なるハンマー投げの鉄人ということではなく、ドーピングの衝動をオリンピアの女神に誓ってはね除けたアスリートとして、世界のスポーツ史に遺る人物になる可能性がある。

 棚ぼたの金メダルとて悲しみをやや湛えつつ勇者微笑む

 


2004.8.31

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