生涯ライバル

村山実の死に寄せて


 

あのミスタータイガーズ村山実氏が亡くなった。61歳の早過ぎる死であった。知っている人は少ないと思うが、あれほど闘志をむき出しにして投げるピッチャーは、いまだかつて見たことがない。一球入魂という言葉は、村山さんの為にあるような言葉だった。何しろ自分がストライクと思って投げた玉をボールと判定されると、猛抗議した後、泣きながら投げ続けたという人である。特に打者長嶋との対決では、鬼気迫る雰囲気がグラウンド中に漂っていた。

村山にとって、それほど長嶋は、特別な存在だった。大学入学の時も、村山少年は、一年先輩の立教長嶋にあこがれ、立教のセレクションを受験したが不合格となり、仕方なく関西大に入学した。しかし村山はこの挫折を機に、大きく成長した。そして長嶋を生涯のライバルとして、意識しながら、ついには関西大2年の時に、念願の大学野球選手権で日本一にも輝いた。

プロ入りの時には、長嶋のいる巨人からの2千万円という破格の誘いを断って、わずか5百万円で、巨人のライバル球団である阪神に入団したのである。それも打倒長島を果たすための彼らしい人生の選択であった。

そして入団一年目にして、あの球史に残る対決と言われた天覧試合(昭和34年の昭和天皇を迎えての後楽園での巨人阪神戦)が行われた。この年新人だった村山は、当時のエース小山をリリーフして登板し、長嶋にレフトポールにサヨナラホームランを打たれて負け投手となった。しかしこの悔しさをバネとして、この年、村山は、新人ながら18勝を上げて、阪神のエースの座に収まってしまう。

それからも長嶋、村山の「昭和の名勝負」は、果てしなく続いた。村山はライバル長嶋を常に意識し、自らの奪三振記録達成の時ですら、1500三振、2000三振の時と「長嶋さんから取る」と公言し、その通りとなった。そんな気迫に長嶋も、ヘルメットを飛ばすほどの空振りで応えた。

村山にとっては、長嶋がすべてのバロメーターだった。つまり”ライバル長嶋を押さえれば、後は雑魚”自分の玉が他の選手に打たれるわけがないという強烈な思いこみがあった。事実、村山の調子の良いときは、たとえ長嶋でもボールがバットに当たる感じがしないほどの鋭い投球をした。それほど投手村山には、力があったということだ。あの貧打の阪神にあって、生涯の勝ち星、222勝147敗、防御率2.09が、その実力を見事に物語っている。

サムライ村山は、死んだ。しかしライバル長嶋との対決は、伝説として、今後も語り継がれていくに違いない。彼の死に接して、ライバル長嶋茂雄は、次のような短い賛辞を送っている。

彼との対決は、野球人長嶋と、野球人村山との魂の闘いだった。生涯でこのようなライバルに出会えたことは幸せだった…」まさに長嶋というライバルあっての村山氏の人生だった。しかもあれほどの死闘を繰り返しながら、投手村山は、打者長嶋に一度も死球をぶつけたことがないのである。佐藤


義経伝説ホームへ

1998.8.24