君は村山直儀を見たか
−この瑞々しさはどこから来るか?−
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この絵と初めて対面したのは、蒸し暑い夏の昼下がりであった。
完成したばかりのその絵は、作者の家に無造作に立てかけられていた。 その時の私の感想を言葉にすれば、 「いったいこの得体の知れ得ない瑞々しさはどこから来るのだろう?」 ということだった。とにかく、疑問というか驚きというか、そんな奇妙な感情が先行し、感動がわき上がってくる余裕はなかった。心の中に閃光のようなものが 射し込んで来て、一瞬にして何も考えられなくなってしまった。 魔法にかかったかのようだ。カンバスに描かれた人が、どのような人物で?、性別が何で?、職業が何で?、何をしている所で?、などとい うことは、もはやどうでもよかった。通常、新しいものを見た瞬間、人は、理性によって認識への手順を踏むものだ。それがすっぽりと抜け落ちてしまったの は、まさしくこの絵からほとばしり出る強烈な生命力によるものに違いない。でも、よく見れば、絵は僅か10号ほどの小さな絵ではないか。しかしこれを見た 瞬間、私はこの絵の中に無限の広さと大いなる魂のようなものを感じ、言葉を発することすら出来なかった。 理性で考えれば、僅か葉書10枚程の空間に描かれた絵に、無限の広さを感じるというのも実におかしな話だ。でも実際に感じたのだから しょうがない。じっとこの絵を見ながら、自分の心が神聖な空気で満たされてくるのを感じた。神というものに出会った時にも、きっとこれと同じような感覚に なるのだろうか・・・。それにしても創造の神は、時として途方もない創作の霊感(インスピレーション)を芸術家に授けるものだ・・・。
ニーナ・アナニアシュヴィリの肖像」を描いたのは、日本画壇の鬼才、村山直儀だ。彼はこれまで多くの肖像画を描いているが、この絵を見 た瞬間、私は特別な思いがした。彼はいつの間にか、これまでの自らのあらゆる技術と経験を綜合し、別の次元の遙かな高みに達してしまったようだ。彼が描い た以前の絵とこの絵との決定的な違いは、この絵には描こうとする人物との画家との魂同士の格闘のようなものが強烈に感じられることだ。格闘といってもそれ はもちろんのこと喧嘩というような意味ではない。別の言葉で言えば、それは「コラボレーション」(共同作業)という表現が適当かもしれない。 当の村山氏がこの絵の前で熱っぽく語った。
「特に目の輝きというものがすごいですね。」
「神が宿る瞬間のようにも見えます」
そう言いながら、村山氏は、絵を見ながら、目を爛々と輝かせた。 この作品は、間違いなく、村山直儀という一人の孤高の芸術家が、2001年において到達した画境を示す傑作である。現代最高のバレリー ナ「ニーナ・アナニアシュヴィリ」との出会いを通じ、彼女の精神をこのカンバスに描き切ろうという並々ならぬ決意が、この絵の端々から伝わってくる。通常 であれば、バレリーナを描く場合、踊っている姿を描きたくなる所である。それを鬼才、村山直儀は、意識的に舞台に立つ前の静止した上半身だけを描いた。こ うして20世紀後半を代表するバレリーナ「ニーナ・アナニアシュヴィリ」は、永遠に村山直儀の天才によって、カンバスに刻印されることになったのである。 村山直儀は、次ぎに、何を描くつもりだろうか。その絵に会うのが楽しみだ。佐藤 尚、絵の著作権は、村山直儀氏にあります。いか なるような無断掲載及び転用を禁じます。 |