無明ということ

ブッダの発見


 
無明」の発見

仏教に無明(むみょう)という言葉がある。無明とは、人間が根本的に持っている無知のことである。人生における人間の苦しみは、すべてこの無明から始まることをブッダは、瞑想の中から発見した。人は、その無明というものを取り払うことで、心安らかに生きていける。何だ、人生の秘密とは、こんなことだったのか。ブッダは、余りに簡単な人生の秘密を知って、興奮し、感激し、どきどきしながら、世界の誰もが知っていないはずの、この純粋で微妙な感覚の余韻にしばらく浸っていたのである。

次にブッダは悩んだ。この自分が知ったことを、世の中に伝えたいのだが、この内容が余りに簡単で単純であるのに、実に微妙で、奥深い意味をはらんでいることなので、とても理解してはもらえないだろう。と思ってしまったのである。

しばらく考えたブッダは、ついに意を決して、以前一緒に修業をしていた仲間に、初めてその人生の秘密を伝えたのである。やはり最初、その仲間達は、ブッダの発見を聞いて、「無明が人間の苦の根元である。だからこの無明さえ取り払って、真の智慧を獲得すれば、全ては解決する」というその余りの簡単な答を馬鹿にして、取り合わなかった。

それでもブッダは真剣に、持論に誠意を持って説いたのである。「人生というものは、人が思っているほど、複雑ではない。ごく単純な法則が、根底にあり、それが絡み合って見えるから、複雑に見えているだけなのである。」と熱弁をふるった。やがて一人が、ブッダのその考えを理解した。すると次々と無明の意味を理解し始めた。これが仏教の始まりである。

それから取り巻きの連中によって、ブッダの権威付けが始まった。すると、とても単純であったブッダの教えは、装飾がほどこされ、複雑になって、偉そうに変化してしまったのである。

頭の良いブッダの弟子達によって、ブッダの悟りの研究書やお経などが山のように作られた。おそらくそれらの書を集めれば、その高さは、富士山の高さの数倍にも達してしまうはずだ。

とかく人間というものは、どんな単純なものでも、複雑に考えてしまう傾向がある。その方が御利益があると考えてしまうのだろう。ブッダによる無明の発見は、いわば、ダイヤモンドの巨大な原石のようなものである。これはすごい原石だと考えた者たちによって、そのダイヤは研かれ、カットされ、金の台に乗せられ、絹と漆で作られたケースに収められ、高級デパートのショウウインドーに飾られることになってしまった。それが今日の仏教の偽らざる姿である。

しかし元はたった一個のダイヤモンド(ブッダの無明の発見)こそがすべてではないか。

だから仏教の教典などちっとも尊くはない。ましてやブッダが尊いのでもない。巨大な寺院が尊いのでもない。金ぴかの仏像が尊いのでもない。尊いのは、無明を発見した瞬間のブッダの感覚だけである。その後に作られた仏教寺院から教典、仏像などの全ては、そのバリエーション(変化物)に過ぎないのだ。だから百万のお経を読破することよりも、たったひとつ、ブッダと同じように自分の中に巣くっている無明のことを真剣に考える方が大切なのである。

よくお経を暗記したり、写経で功徳が得られると信じている人がいるが、はっきり言ってたいした意味のないことだ。肝心なことは、ブッダの無明というものを発見した時の感動を共有することである。つまり「なんだ、人の一生とは、こんな簡単なことによって支配されているのか」ということを真剣に考え、自分に当てはめ、何ものによっても動揺しない心安らかなる状態を構築することである。

しかし、これが難しい。その理由は、人間が初めから世の中を複雑に観てしまっているからである。物事を難しく考えすぎてはいけない。どんなに偉そうに見える坊さんですら、微妙なブッダの感覚など、ほとんど分かっていないのである。

心の正体

ある夜、奇妙な夢を見た。

地平線も見えないほどの果てしない荒野を、自分がさまよっている。日差しがまぶしい。

私は、何かに強烈な渇望感(飢え)を感じていた。それは空腹でもなく、性的なものでもなく…しかしその渇望の実体がまるで検討がつかない。

その渇望感の余りの強さに、私は、思わずその場に、立ち止ってしまった。

すると、自分の足もとに巨大な影が迫ってくるのを感じた。そして影を見上げると、10mはありそうな巨大な老人がこっちをじっと見ているではないか。びっくりして、少したじろいでしまった。しかしその老人は身体は巨大だが、その顔は見覚えがあるような、妙に懐かしい感じがした。

「あなたは?」と私が心の中で聞くと、その巨大な老人は、何も言わずに、手に持っていた小さな固まりを、私にくれたのであった。それはタマネギであった。

「??」意味が分からないまま、じっとタマネギを見ていると、突然回りの景色が変化した。

どうやら自分は、アルプスのような高い山の上にいるらしく、山小屋でそのタマネギを料理して食べようと考えているようだった。カレーでも作ろうとしているのかもしれない。

急いでタマネギの皮をむいている自分がいた。急に空腹感が、襲ってきた。もうさっきの渇望感など、すっかり忘れてしまっていた。とにかくタマネギを料理して食べようという意志しかなかった。

すぐにタマネギの皮をむきにかかった。しかし懸命に皮をむいていると、どこが皮か身なのか、分からなくなって、ついに最後には、何も無くなってしまった。不思議な感覚だった。その何も無くなった瞬間、内面で「それでいい」という声がした。それが自分の声だったのか、さっきの巨大な老人の声だったのかは、分からない。とにかく「それでいい」という声がした。

起きてから、自分の夢を色々と分析してみた。どうやらこの夢は、自分の心を知りたいと、常に考えている私自身の願望が、夢となって現れたということかもしれない。

そしてあのタマネギは、自分の心そのものを暗示しているのでは、と思えるようになった。つまり心というものは、中身がありそうに見えて、実は何も無い。皮も身も基本的には一緒のものだ。その心の中を、私は分析しよう。人の心の中を覗いて見ようと、必死になっている。しかし元々心などは、どこにも無いのだ。ただあるのは、あると思って見る人間の思いこみだけかもしれない。この思いこみこそが無明ということの正体なのである。私だけではなく、人間はそのようなお互いの思いこみによって成立している無明の世の中なのである。

無いものを、あると考えてしまう心の錯覚(働き)が無明の本質である。心はタマネギのようなものだ。だから心そのものが、自分の心を理解していないことは明らかである。よく無明は闇にたとえられる。人間の智慧(想像力)という光を持って闇を照らせば、確かにそこには何もない。佐藤
 


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1998.2.24