毛越寺の冬

毛越寺常行堂と地蔵菩薩

毛越寺の冬
常行堂と地蔵菩薩
2006年1月4日佐藤撮影

【毛越寺の初春】

06年正月4日午後四時近く、平泉毛越寺に詣でる。この日、奥州平泉は凍るような寒さかと思いきや、栗駒山から吹き下ろす風もなく、温かく感じる一日だっ た。大泉が池に立つと、池は一面の銀世界だ。ふと見れば、池の中にポツンと立つ「立石」は、雪の野を行く遊行僧にも見えた。やがて何故か、毛越寺をはじめ とする奥州の寺々を創建した慈覚大師円仁の高潔な姿にも思えた。

円仁(838-847)は、下野(栃木)の国に生まれた天台宗の高僧であるが、奥州の人々に仏の道を説いて回った伝説的な人物だ。

奥州の冬は厳しい。雪の日も、吹雪の日も、彼は仏の道を説きながら、人々が平穏な心をもって生きることの素晴らしさを語った。毛越寺には、白い鹿の伝説と いうものが伝えられている。円仁が毛越寺の付近に差し掛かると、霧が立ちこめて一歩も進めないほどになった。ふと見れば霧の中に真っ白な鹿がうずくまって いる。しばらくして白い鹿は消え、そこに白髪の老人が現れる。神々しい光の中で、その人物は、「この地は勝地である。ここに我を祀って、寺を創建せよ」と 言って霧のなかに消えたのであった。円仁は、はっとした。「もしかするとお薬師さまでは?」、薬師如来は、その「薬師」の名の示す通り、人々)の 病気を癒して、安楽をもたらす仏である。こうして円仁は、この地に最初の寺として嘉祥寺(かしょうじ)を建立し、そのご本尊として「お薬師さま」を安置し たということである。「嘉祥」とは、めでたい徴があった寺という意味がある。

その嘉祥寺は、南大門から見て、大泉が池の左端付近にあった。今のその礎石が完全な形で残っている。嘉祥寺の横には、巨大な講堂が建ち、その横には毛越寺 のシンボルであった金堂円隆寺が甍を並べていた。もちろん奈良や京都の古寺を凌ぐと言われたこれらの伽藍は、、中世以降、戦火に焼かれて、その姿をみるこ とはできない。今見えるのは、奥州藤原氏全盛の時、曲水の宴を開いたとされる「遣り水の遺構」と江戸時代伊達氏によって再興された常行堂である。

大泉が池の前に立ち、その常行堂をみると、夕暮れの陽光を浴びて、黄金色に輝いている。景色とは光によって演出されるものだ。白い雪と黄金色に輝く常行堂 など滅多に見えるものではない。駈けてゆくと、常行堂の前の地蔵菩薩があたかも円仁の姿を写したように思えて、自然に手を合わせていた。

ありがたき 地蔵菩薩は茜色夕暮れ近き円仁の寺

地蔵菩薩の祈り

地蔵菩薩の祈り


常行堂と遣り水

常 行堂と遣り水


池中立石と常行堂

池中立石と常行堂の夕暮れ


大泉が池・冬の夕暮れ

池中立石と夕焼け雲



毛越寺南大門跡

2006年1月4日 佐藤撮影

【南大門の礎石を廻り義経を思う】

平泉に夕暮れが迫っていた。入口で、「まだ大丈夫ですか?」と聞くと、「5時までですから大丈夫ですよ」との答えが返ってきた。

本殿には、もうほとんど人はなく、本殿の大きな甍の向こう側に沈みかけた太陽が周囲をオレンジ色に染め始めていた。毛越寺の本尊は薬師如来である。真新し い仏に手を合わせると、やにわに南大門の跡に駆けつけた。ここにはかつて巨大な南大門が立っていた。その礎石の痕跡が残っていて、いつも私はイメージでそ の大きさを想像するのである。大門と言えば、吉野山の金峯山寺の仁王門や高野山の大門を思い浮かべるが、それに勝とも劣らない豪奢な大門が聳えて、両脇に は二体の金剛力士が睨みを利かせていたのだろう。

ふとふたりの歴史的人物が脳裏をよぎった。源義経と松尾芭蕉である。ふたりの間には、500年の隔たりがある。さらにそこから現代とは300年以上の歳月 が経過している。

源義経は、この南大門をくぐって奥州の大都市平泉に入ろうとする。おそらくこの南大門の周囲には、藤原秀衡が、それこそ賓客を迎えるに相応しい歓迎の装飾 が施されていたに違いない。五色の幕で周囲には結界が造られ、奥州中の人々が晴れ着を身に纏って待っている。若い娘たちは口々に、「源氏の御曹司はどんな 男子だろう」と時めいている。一方で若い男たちは、自分の恋い慕う娘が、義経の噂で持ちきりになっているのを嫉妬に似た感情を抱いて、「御曹司とてどれほ どのことがあろう。器量なら私の方が上だ」などと密かに思っている。

この時、明らかに奥州平泉は、義経一色に湧いていた。そこに烏帽子の緒をきりりと結んだ義経が、栗原寺の屈強な僧兵たちに囲まれて入ってくる。人々の目が 一点に注がれる。唐突に歓迎の宴が始まる。楽士たちは、船上から優雅な曲を奏でると、大門の前は花道となって、その前を通る義経一行を歓呼の声で出迎え た。義経は馬から下り、出迎えの秀衡に迎えられて大門をくぐるのである。すると目の前には、大泉が池の淵から中島まで続く朱色の橋が架かっている。そして それは目映く輝く金堂に向かって伸びている。義経はあまりの美しさに、「平泉はまさに浄土そのものか」と思ったであろう。長い忍従の幼年期から、これほど の大歓迎を受け、義経にはある種の戸惑いのような感情が湧いたにちがいない。我が一身にすべての人々の視線が注がれている。自分の血のなかにある歴史とい うものをこの日ほど誇らしく思ったことは生涯でも二度とはなかったであろう。

松尾芭蕉は、この南大門跡には訪れていない。奥の細道において、芭蕉はこの南大門からみれば、借景となる塔山の彼方にある高館山で、「南大門は一里こなた にある」と記している。芭蕉の平泉入りは、何よりも義経の最期の地、高館に登って感慨にふけることだった。芭蕉の奥の細道の旅のルートを改めて考えてみる と、義経が辿った道と符合する。江戸深川を発って平泉に来るルートは、義経の第一回の東下りルート上にある。また平泉で踵を返して出羽から越後、越中、加 賀、越前と辿るルートは、第二回の東下りの逆のコースになる。ここから私は、「奥の細道」と題された芭蕉の旅を「義経追想の旅」であったと考えているので ある。

毛越寺の南大門の礎石を廻りながら、この前で繰り広げられた義経歓迎の饗宴の歓声がどこかで聞こえてくるような錯覚に囚われた。義経と秀衡は、その日間違 いなく、この大門をくぐったのだ。

遠 き日に大門くぐる義経の姿思ひつ礎石をめぐる



2006.1.11 佐藤弘弥

義経伝説
義経思いつきエッセイ